説    教    詩篇71篇1〜3節   ガラテヤ書1章3〜5節

「贖罪の福音」

 ガラテヤ書講解(3) 2012・12・02(説教12491459)  先週に引き続き、ガラテヤ書1章3節から5節までの御言葉を通してキリストの福音を聴 いて参りましょう。使徒パウロは愛するガラテヤ諸教会の人々に対して、いつも変わらぬ主 にある祈りを献げていました。それはガラテヤの諸教会が、最初に受けたキリストの恵みか ら決して離れず、キリストの恵みを現す群れに成長することです。それはこの当時、ガラテ ヤの諸教会の中に、キリストの福音から離れてゆく悲しい現実があったからなのです。  事実、今日の御言葉のすぐあとの6節を見ますと、パウロはそこに「あなたがたがこんな にも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音 に落ちていくことが、わたしには不思議でならない」と語っています。ここに「違った福音」 という言葉が出てきますが、これこそパウロがこの手紙を通して戦いを挑んだ相手の正体で した。福音とは似て非なるもの、福音の装いをしつつも中身は福音と異なるもの、人を救わ ずしてかえって滅ぼすもの、そのような「違った福音」がガラテヤの諸教会を支配しようと していた。この事実をパウロは見過ごしにはできませんでした。  そこでパウロは愛するガラテヤの人々に対し、あなたがたが最初に受けたキリストの恵み の福音に立ち帰るようにと祈りを熱くして勧め、教え、時に厳しく叱咤激励しているのです。 それは、キリストが私たちのためになして下さった御業を改めて知ることです。私たちが「違 った福音」に落ちてゆくのは、私たちがキリストの救いの御業を忘れることに原因があるか らです。それを改めて思い起こすことこそ、ガラテヤの人々に、また私たち一人びとりに主 が求めておられることです。それこそ私たちが「違った福音」に落ちてゆくことのないため になのです。  そこでパウロは、今朝の御言葉の1章4節以下にこのように語っています。「キリストは、 わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自 身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。栄光が世々限りなく神にあるように、 アァメン」。  短い御言葉ですが、実はこれはガラテヤ書の全体を要約している大切な言葉です。これは 初代教会の讃美歌の歌詞であったという説もある、教会の最も古い信仰告白文のひとつです。 それをパウロは改めて「思い起こしなさい」とここに繰返しているのです。ドイツのハルナ ックという神学者が「最初の3世紀におけるキリスト教伝道の歴史」という本の中で、ガラ テヤ書の位置についてこういうことを語っています。「もしガラテヤ書がパウロによって書 かれなかったなら、おそらくキリスト教は西暦100年ごろまでには消滅していたであろう」。 これは注目すべき発言です。パウロが「異なる福音」に対してこのガラテヤ書で果敢な戦い を挑んだからこそ、キリスト教は(つまり真の教会は)消滅することなく全世界に真の救い の喜びを伝える主の器となりえたのです。教会が真実に「キリストの教会」であり続けると はどういうことか、それこそガラテヤ書の大きな主題なのです。  そこで、まずパウロが明らかにしている最も大きなことは、キリストが私たちの罪のため の贖いとして「ご自身を…ささげられた」という音信です。贖罪の福音です。すなわち4節 に「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出 そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである」とあることです。こ れこそ教会をして教会たらしめ、全世界を救う福音の本質なのです。この「ささげられた」 という言葉は「与えられた」という意味です。「神はそのひとり子を賜わったほどにこの世 を愛してくださった」とヨハネ伝3章16節にあるように、主なる神はその独子なるキリス トを、つまりご自身みずからを私たちの救い(罪の贖い)のために献げて下さった。その父 なる神の限りない愛をご自身の御心となさって主イエスは私たちのために十字架への道を 歩まれた。それがこの「ささげられた」という言葉の示す福音なのです。  だから4節の最初には「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い…」とあります。 私たちは逆なのです。私たちは神に叛くことばかりなのです。しかもそのような自分が豊か であり、安心であり、幸福であると錯覚している愚かな存在なのです。人生の根本となる最 も大切な、真の神との正しい関係を疎かにして、自分の栄誉栄達安心立命だけを求めている のが私たちです。光が全く届かない深海に住む魚の眼がいつしか退化してゆくのと同じよう に、私たちは自分が神から離れた惨めな存在であることさえ認識できなくなっている。自分 の罪にさえ気がつかないでいるのです。そのような私たちのためにキリストは、十字架とい う最大の苦難の杯を父なる神の御手から受けて下さいました。キリストは十字架に至る全き 従順の歩みによって、自分の栄光だけを求める私たちの不従順の罪をも贖って(覆って)下 さったのです。  だから「今の悪の世」とある御言葉を、私たちは自分の罪と切り離して読むことはできま せん。自分の周囲を見回して「そうだ、今のこの世には悪が満ちているのだ」と、自分を正 義の側に置くことは許されない私たちなのです。そうではなく、まさに「悪」の支配にいま 屈している私たちの罪を、キリストはご自身の十字架によって完全に贖い、ご自身の恵みの 御支配のもとに平安と喜びをもって心を高く上げて生きる者にして下さったのです。いま主 の御身体なる教会において、私たち一人びとりがあるがままに、キリストの満ち溢れる救い の恵み(永遠の生命)にあずかる者とされている。その喜びの生命のもとに、主はご自身の 教会によって全ての人を招いておいでになる。だからこそパウロはここに強く勧めています。 あなたがたが最初に受けたその恵みのもとに、キリストの福音に、堅くとどまる者でありな さいと。  ここにこそ、私たちの思いを遥かに超えた大切な音信が告げられています。それは、キリ ストはすでに私たちのために「ご自身を…ささげられた」という音信です。神の大いなる救 いの御業が私たちの罪の現実に先立っているのです。キリストの救いの御手が届かない人間 の現実はありえない。この慰めを知るゆえにパウロは6節に「不思議でならない」と語って いるのです。すでに救いを全うして下さったキリストの御手からどうして離れてしまうるこ とが起りうるのか。それは「ありえないこと」だとパウロは言うのです。その「ありえない こと」を私たちがするとすれば、それは贖い主なるキリストの御業を忘れているからです。 キリストをせいぜい、人生の同伴者・道徳の教師・人間の模範としてしか見ていないからで す。御言葉によって自分が砕かれるのではなく、御言葉を自分の都合の良い召使にしている からです。  そのとき、教会もまた“宗教的社交クラブ”に成り果ててしまいます。キリストの生命に 生かされる喜びは、人間的な自己満足に摩り替えられ、古きおのれに死んでキリストの生命 に甦らされる出来事は、人生の上に“プラスα”を積み上げようとする虚栄心に摩り替えら れ、全ての人の救いの出来事である礼拝は、ヒューマニズムの延長としての“キリスト教講 話を聴く会”に摩り替えられてしまいます。ガラテヤの諸教会にはそのような危険が満ちて いました。それは古くて新しい、私たち自身の問題なのです。私たちも「違った福音」に落 ちてゆく危険があるのです。  だから、ここに記されていることは、パウロひとりの独自な思想や神学などではなく、な によりもこれは「教会の信仰」の表明です。神の恵みの歴史の中に立つ教会の信仰告白です。 誰もがここに生きる以外に「救い」はありません。ところがガラテヤの人々はこの恵みから 離れて行こうとしている。そこにパウロの熱き祈りと激しい戦いがありました。何よりも、 キリストの恵みに生かされ救われた喜びをパウロ自身が証しています。私たちの教会にもこ の恵みが満ち溢れています。私たちはこの恵みの内に留まる者とされているのです。私たち もパウロの祈りに連なるのです。私たちも主の御業に参ずる群れとなります。そこに私たち の生命そのものがあるからです。全ての人々に宣べ伝えられるべき、全人類と全世界の、そ して歴史全体の本当の救いが、ただ十字架のキリストにのみあるからです。  だから私たちは改めて「私たちの父なる神の御旨に従い」と4節にあることに心を注ぎま す。当然のごとく語られる言葉ではありません。罪の塊のような私たちがどうして「私たち の父なる神」と神を呼びうるでしょうか。それは私たちの底知れぬ不従順を、キリストの全 き従順が贖って下さったからです。「罪」という名の棘だらけの私たちをキリストはかき抱 くごとくに覆って下さったのです。その結果、主はぼろぼろに傷つき、肉を裂き血を流した もうて私たちの贖いとなって下さった。それがあの十字架の出来事です。私たちの罪という 名のどん底の遥かどん底に主はみずから降りたもうた。そこで私たちの全存在を受け止め生 命を与えて下さったのです。  それこそが、「わたしたちの父なる神の御旨」そのものであるとパウロは言うのです。ご 自分を十字架に献げてまでも私たちを「今の悪の世から」(つまり罪と死の支配から)救っ て下さった主の御業です。それが「神の御旨」ならばそれ以上確かなものはないのです。私 たちは自分の清さや正しさのゆえに主なる神を「わたしたちの父なる神」と呼ぶのではない。 そのようなものは無に等しいのです。ただ私たちのために十字架にかかりたもうたキリスト の義のゆえに、測り知ることのできないキリストの愛のゆえに、私たちはまことの神を「わ たしたちの父なる神」と呼ぶ者とされている。それ以外の御名で神を呼ぶことはできないの です。キリストの御業の中にまことの神のお姿が余すところなく現われているからです。  そこに、私たちの救いの確かさがあります。この世界に確かなものが何ひとつなくても、 キリストにおける神の愛、私たちのために主がなして下さった救いの御業、そこにこそ永遠 の確かさがあるのです。私たち一人びとりがいま、主の教会により、その限りない確かさの 内に立つ者とされているのです。だからこそパウロは祝福を祈らずにおれませんでした。3 節「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにある ように」。そして最後は5節の頌栄です。聖なる神は昔も今も、代々変わりなく御業をなし たもうからです。「栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン」。