説    教    民数記6章24〜26節  ガラテヤ書1章3〜5節

「恵みと平安」

 ガラテヤ書講解 (2) 2012・11・25(説教12481458)  ガラテヤ人への手紙が宛てられたガラテヤ地方の諸教会、その「ガラテヤ」という地名は 今日で申しますトルコ中央部、地中海から黒海にかけて広がる大平原地帯でした。単純に面 積に換算してもわが国の北海道ほどもある広大な地域です。そこに誕生したばかりの「諸教 会」に宛ててパウロがこの「ガラテヤ人への手紙」を書いたのは西暦57年頃のことです。 そこで、この西暦57年頃というのは、誕生したばかりのガラテヤの諸教会とそこに集う信 徒たちにとって、信仰生活を続けて行く上で実に過酷で多種多様な試練を経験せねばならな かった“苦難の時代”でした。事実パウロはこの手紙の中で幾度も「異なる福音」に気をつ けよと、ガラテヤの信徒たちに注意を促しています。福音とは似て非なるもの、福音のふり をして近づいて来る“間違った信仰”に対して、主にありて堅く立ち、動揺することのない 群れへと成長しなさいと勧めているのです。  この、パウロの心からの願いは、何よりも愛するガラテヤの諸教会に宛てて「祝福」を祈 ることに現われています。パウロは1章1節以下に「主にある挨拶」を書き送ったすぐあと で、今朝の3節以下に「祝福」の言葉を告げている。すなわち3節「わたしたちの父なる神 と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」とあることです。 そしてこれは、パウロがガラテヤの諸教会に告げている祝福であると同時に、いまここに集 うている私たち一人びとりにも同じように告げられている祝福なのです。私たちはここで、 まず「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから」とあることに心を向けたいのです。 私たちが受ける「祝福」にはいつもたしかな“与え主”がおられるのです。それは「わたし たちの父なる神」そして神の独子にいましたもう「主イエス・キリスト」です。ではこの場 合「聖霊」は入っていないのでしょうか?。そうではありません。西暦381年のニカイア信 条には「聖霊は、父と子とを通して」私たちに与えられると告白されています。それならこ こに「父なる神と主イエス・キリストから」とあるとき、そこには父・御子・御霊なる三位 一体の神の御業の全体が現れていることは明らかです。いわばパウロはここに「父なる神と 主イエス・キリストからの祝福」を告げることにより、聖霊も含めた三位一体なる神の祝福 を告げているのです。聖霊は、この歴史の中に教会をお建てになり、私たちに信仰を与え、 私たちを永遠に父なる神とキリストにしっかりと結び合わせて下さる“祝福の絆”だからで す。  それならば、まさにその聖霊によって、御父と御子の「恵みと平安」が私たちの“今ここ における祝福”となる、その幸いにいま私たちが招かれているのです。信仰のゆえのさまざ まな困難や試練の中にあったガラテヤの諸教会の信徒たちにとって、三位一体なる神の「祝 福」は、正しい信仰に立ち返るための揺るぎなき道標でした。それなくして日々の信仰生活 を続けることはできない。だからその「祝福」は単なる言葉ではなく神の国(神の永遠のご 支配)の確かな力と慰めなのです。だからこそそれはパウロがここで明らかにしているよう に「恵みと平安」なのです。もういちど3節をお読みしましょう。「わたしたちの父なる神 と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」。  この「恵みと平安」という表現について、よく言われることは「恵み」とはギリシヤ人の 挨拶の言葉で「平安」とはヘブライ人(ユダヤ人)の挨拶の言葉であるということです。た しかにそのように言えるでしょう。ある意味でガラテヤの教会は多民族教会でしたから、パ ウロはギリシヤ人にもユダヤ人にも、同じように心に響く言葉で祝福を書き送っているのだ と解釈できるかもしれない。しかしそうすると、この「恵みと平安」という祝福は一種の社 交辞令になります。パウロはギリシヤ人とヘブライ人の両方に気を遣っているのだ、という 程度のことになってしまうのです。  その程度のことではないはずです。私たちは何よりもこの「恵みと平安」という祝福が、 主イエス・キリストご自身を現していることを知るべきです。それをはっきりと示すのがヨ ハネ伝1章14節です。「そして言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたち はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちて いた」。ここには明確にキリストの「栄光」について、それは「めぐみとまこととに満ちて いた」と告げられている。「恵みと平安」という表現とは少し違いますが、この「めぐみと まこと」の「まこと」とは「神による救いの確かさ」という意味ですから、それは私たちの ため、この全世界の救いのために、キリストが成して下さった全ての御業をさしているので す。だからこそヨハネ伝は、それが「キリストの栄光」と一体であると告げている。この「キ リストの栄光」とは何をさすかと言えば十字架の出来事です。つまり、今朝のガラテヤ書1 章3節の「祝福」の内容は、十字架の主イエス・キリストによる罪からの贖い(救い)の恵 みそのものなのです。  それは何よりも、主イエスご自身が語っておられることです。ヨハネ伝17章1節です。「こ れらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、『父よ、時がきました。あな たの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわしてください』」(少し飛ばして 4節)「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなた の栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、 今み前にわたしを輝かせて下さい」。そして少しヨハネ伝を戻りまして12章23節「すると、 イエスは答えて言われた、『人の子が栄光を受ける時が来た。よく、よく、あなたがたに言 っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、も し死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』」。これらの主の御言葉から明らかなように、主 イエスはご自分が受けるべき十字架のことを「栄光」とお呼びになった。つまり主の「栄光」 とは私たち全ての者の救いの出来事です。私たちの救いのため、神の子みずからご自身の全 てを献げて下さったとです。主が呪いの十字架にかかられ、肉を裂き血を流し、生命を献げ て私たちの罪の永遠の贖いを成し遂げて下さったことです。それを主はご自身の「栄光」と お呼びになった。ギリシヤ語の文法には「最上級の最上級」という特殊なものがあるのです が、それこそ「最上級の最上級」をもってしか現わしえない永遠の「恵みとまこと」がここ に告げられているのです。  そういたしますと、今朝のガラテヤ書1章3節の「恵みと平安」とは、まさに主イエス・ キリストの最上級の最上級たる「栄光」そのものを現わしていることがわかるのです。それ はキリストご自身を(私たちの救いのためになされたキリストの全ての御業を)現わしてい るからです。この祝福が「力と慰め」そのものであるのはそのためです。「神の国は、言葉 ではなく、力」なのです。この「恵みと平安」は私たちのため、この全世界のために、神の 子イエス・キリストが成し遂げて下さった十字架による永遠の救いの出来事を現わしている のです。だからそれは、この祝福を受ける私たち全ての者に新たな生命を与える「力と慰め」 そのものなのです。真の教会を建てしむる聖霊なる神の「力」なのです。  私たちはこのガラテヤ書を読み進むにつれて、そこに数々の深刻な問題が現われているの を知るでしょう。ペテロでさえ“異なった福音”に陥ってしまった事実が告げられているの です。そこで、すでに今朝の御言葉において事柄の本質が現われているのです。ガラテヤの 諸教会は、まさに今朝の御言葉に告げられているキリストの祝福(御業)が見えなくなると ころから信仰上の過ちに陥りました。それは私たちも同じです。私たちもまたキリストの「恵 みと平安」を見失うとき、信仰の喜びと確信を失わざるをえないからです。だからガラテヤ 書は今朝の1章3節以下で、このキリストとはどのようなかたであるかを明確に告げていま す。主が私たちのために何をなして下さったかを告げているのです。原文では4節は3節の 「主イエス・キリスト」という御言葉に密着して「すなわちご自身を与えられたかた、わた したちの罪のために」となっています。「恵みと平安」を告げる祝福の言葉はまさに、この 唯一の主キリストによる救いの確かさを私たちに与える「力と慰め」なのです。  「神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛された」とヨハネ伝3章16節は告げてい ます。この熾烈なまでの神の愛が私たちに注がれていることを改めて教えられているのです。 私たちに向かって、まさにあなたの救いのために、この全世界の救いのために御子をも惜し まず献げたもうた一所懸命な神の愛こそが「恵みと平安」という祝福の内容なのです。「こ こに愛がある」「それによってわたしたちは、愛ということを知った」とまでヨハネが語る、 まさにその限りない神の愛によって、私たちは、ここに新たな信仰の生命を与えられ、教会 によって主の復活の生命にあずかり、新しい週のキリストと共なる人生の歩みへと遣わされ て参ります。私たちはいつも聖なる教会(聖徒の交わり)にありて神の賜わる「恵みと平安」 に生かされ、祝福の内を心を高く上げて歩む者とされているのです。「わたしたちの父なる 神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」。