説    教    イザヤ書41章8〜10節   ガラテヤ書1章1〜2節

「ガラテヤ教会への挨拶」

 ガラテヤ書講解(1) 2012・11・18(説教12471457)  本日からご一緒に、ガラテヤ人への手紙を通して福音の御言葉を聴いて参ります。全部で 約50回の連続講解説教になる予定です。さて、この「ガラテヤ人への手紙」は使徒パウロ の書いた手紙の中では比較的早く、テサロニケ人への第一、第二の手紙に続いて、西暦57 年頃に書かれたものです。パウロの伝道活動のごく初期に書かれた手紙のひとつです。しか しすでにこのガラテヤ書の中には、それ以降のパウロの手紙、あるいはパウロの伝道者とし ての生きかたを貫く、変わることのないひとすじの流れを見ることができるのです。既にそ れは今朝ご一緒にお読みしたこの手紙の冒頭1章1節2節に遺憾なく現われています。  それは何かと申しますと、主イエスは弟子たちを伝道旅行へと遣わされるにあたり「道で 誰にも挨拶をするな」とお教えになりました。今朝の説教の題が「ガラテヤ教会への挨拶」 ですから、この主イエスの御言葉を引用すると、みなさんは不思議に想われるかもしれませ ん。しかし主イエスが弟子たちに「道で誰にも挨拶をするな」と言われた意味は「本当の挨 拶(神の祝福)のみを語る者となりなさい」という意味です。人の顔色を伺い、人に媚びへ つらって、見かけだけの挨拶をする教会(キリスト者)になるなということです。誰に対し ても真に語るべき祝福の言葉をこそ、あなたは持っているではないか。ただそれだけを「本 当の挨拶」(祝福)として語る者になりなさいと、主はお命じになったのです。  言い換えるなら、それは来るべき「主の日」に備えつつ、主の御前に、主と共に歩む者に なる喜びと幸いです。いつどのような時にも、神の前に神の僕として神と共に歩む、そうい うあなたであり続けなさいということです。そのような恵みを、私たちはいま豊かに戴いて いるではないか。その幸いにいつも歩む者とされているではないか。だから私たちは、人に 向かって社交辞令の挨拶に生きる群れではない。どのような相手に対しても、語るべき「本 当の挨拶」(祝福)を携えゆく群れなのです。そのように主イエスは弟子たちに、否、私た ちにお教えになったのです。  そこで、使徒パウロはこの手紙をガラテヤ教会に書き送るにあたり、まずこのように挨拶 をするのです。「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の 中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ…」。これはパウロの自己 紹介です。この「使徒」という字は「神によって遣わされた者」という意味です。遣わされ たというからには、そこには神から授かった「使命」があります。それは、十字架の主イエ ス・キリストの福音のみを全ての人(全世界)に遍く宣べ伝えることです。その使命のため にこそパウロは「使徒」として立てられたのです。だから、その使徒たる権威(使命を担う 務め)は「人々からでも、人によってでも」ありません。それはただ「イエス・キリストと 彼を死人の中からよみがえらせた父なる神」から与えられた使命なのです。そのことを私た ちは、また私たちの教会は、いつも正しく自覚しておらねばなりません。それこそ「道で虚 しい挨拶をする」群れであってはならない。どのような人々にも、あらゆる時代に、いかな る状況の中でも、私たちは十字架の主イエス・キリストの福音のみを、語るべき「本当の挨 拶」として語り続けるのです。ただそこにのみ、全ての人間の真の唯一の救いがあるからで す。  もうすぐ待降節(アドヴェント)に入ります。キリストの御降誕(クリスマス)のおとず れは、教会によってキリストの御身体に連なる全ての人々の罪と死からの贖いと解放の音信 です。それならパウロがここ1章1節で「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・ キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」と 語るとき、パウロは何よりも自分自身を、キリストの御降誕の恵みにあずかり、死者の中か ら(罪の支配から)甦らせて戴いた者として紹介しているのです。まぎれもないこの私が、 復活の主によって救われた者なのだと語っているのです。  私たちは、自分が信ずる福音の喜びを何とかして他の人たちにも宣べ伝えたいと願います。 一人でも多くの人が教会に来て欲しいと願います。しかしそのとき、私たちは意図せずして こういうことをしていないか。あるいはこういうことを語っていないでしょうか。「私は駄 目なキリスト者だから、私のことは見ないで、ただキリストだけを見て、キリストだけを信 じる人になって下さい」。ある意味でこれは正しいでしょう。私たちが語るのはキリストの 福音のみであって自分自身ではないからです。しかしよく考えてみるなら、そのような時の 私たちは実はキリストをではなく、むしろ自分の弱さを中心に据えているのです。つまりそ のとき、私たちはやはり「道で挨拶をしている」のです。人の顔色のみを伺い、福音の喜び に生きていないのです。あるいはそういう後ろめたさから、私たちは他の「信仰の偉人」と 呼ばれる人々を代理に立てることをします。たとえばひと昔前なら、アルベルト・シュヴァ イツアーやマザーテレサの働きがよく引用されたものです。  しかし、パウロはここでどのように語っているでしょうか。パウロは「イエス・キリスト と彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」と、はっき りと自分を通して「救い」を語っているのです。パウロも自分の弱さを知る人でした。おそ らく私たちの誰よりも強くパウロは自分の弱さを知っていたでしょう。何よりもパウロは、 かつてパリサイ人として教会を迫害した人間でした。だからパウロは自分のことを「使徒と 呼ばれる値うちのない者」と申しています。しかしそのような者を主なる神は「ただ恵みに よって選び、使徒として立てて下さった」と語るのです。ガラテヤ書でもその姿勢は些かも 変わりません。自分という人間は測り知れぬ弱さと破れを持つ罪人のかしらに過ぎない。し かしまさにその私が十字架と復活の主イエス・キリストによって限りない「救い」にあずか らせて戴いたのだ。だから私が「使徒」として「立てられた」のは「人々からでもなく、人 によって」でもない。それはただ「イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父 なる神」によるのである。そのように、みずからに与えられた恵みの証しをなしつつ、パウ ロは「罪人のかしら」なる自分に与えられた測り知れぬキリストの救いの出来事を全ての 人々への自己紹介とするのです。「この私を見なさい。そして、この私に与えられた限りな い救いに、あなたも、あなたも、あずかる人になって下さい」と語るのです。そう語らざる をえない者こそが「使徒」なのです。  それこそ第一コリント書4章16節にパウロが「わたしにならう者となりなさい」と語っ ている理由です。自分が立派で清い者だからではありません。そうではなく、自分に与えら れたキリストの救いが素晴らしく、完全なものだからです。幼い子供が素晴らしいものを手 に入れて、それを誰彼となく見せびらかすように、いまや使徒パウロは、自分に与えられた 大いなるキリストの救いを全ての人に証しせずには止まなかったのです。「わたしにならう 者となりなさい」とまで断言しているのです。これをこそガラテヤ諸教会の人々に対する心 からの「挨拶」(祝福)として語らざるをえなかったのです。  パウロは、こうした恵みの「挨拶」を共有する喜びと感謝の内に、信仰の仲間たちをもこ こに紹介しています。すなわち2節にあるように「ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同 から、ガラテヤの諸教会へ」とあることです。この「わたしと共にいる兄弟たち」とは、パ ウロと共に伝道旅行の苦労を共にした同労者たち、あるいはパウロの働きを、祈りと献金と 奉仕者を送ることによって支え続けたアンテオケの教会のことを指しているのでしょう。い ずれにせよその人々、または教会もまた「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・ キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた」ものだとパウ ロは語っているのです。そして同時にこの手紙を読む全ての人々に、あなたもまた同じ神の 恵みの内に生かしめられているのだと明らかにしているのです。あなたもまた同じ救いにあ ずかる者とされているのだと宣言しているのです。  最後に「ガラテヤの諸教会」とありますが、この「諸教会」というのがガラテヤ書の具体 的な宛先ですが、この「諸教会」とはかなり大きな範囲に分散していたガラテヤ地方の小さ な教会(家の教会)の集まりをさしています。ガラテヤというのはコリントやローマのよう な街の名前ではなく、神奈川県の湘南地方というような、かなり広い範囲の地域全体の名称 なのです。その広い地域の至るところに小さな「家の教会」が次々に生まれつつあった。そ の全ての諸教会を指してパウロは「ガラテヤの諸教会」と呼んでいるわけです。ここにこの ガラテヤ書の大きな特色があります。パウロの他の手紙のように、あるひとつの街の教会、 あるいは個人に宛てられた手紙というよりは、今日の私たちの東海連合長老会のような、相 当に広い地域の諸教会に宛てて書かれた手紙なのです。  その意味で、このガラテヤ書を私たちが学ぶことは、プレスビテリー(中会)の形成とい う大切な務めにも豊かな導きを受けることです。それは政治的な地域の連合体、まして行政 区画のような教会群などではなく、何よりも同質の信仰告白によって結ばれ、復活の主によ って立てられた、かけがえのない「諸教会」であるということを私たちは教えられているの です。そして新約聖書のもとの言葉では、この「諸教会」も同じ「教会」を意味する“エク レシア”という言葉です。その意味は「神によって選ばれ、招かれ、立てられた群れ」です。 つまり今朝の御言葉で使徒パウロが、限りない喜びをもって全ての人々に宣べ伝えている福 音の確かさは、キリストによって贖われ立てられた教会の確かさ、その主の御身体である教 会と中会に連なる私たちの「救いの確かさ」でもあるのです。  ここに私たちは、使徒パウロ、また世々の聖徒らと共に「人々からでもなく、人によって でもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神」による救いの確 かさと信仰告白の豊かさを、みずからに与えられた永遠の喜びとなし、その確かな救いの恵 みを自分を通して証ししてゆく者とされていることを覚えたいと思います。