説    教   詩篇88篇10〜13節  マタイ福音書27章62〜66節

「死にて葬られ」

2012・11・11(説教12461456)  主イエス・キリストの御降誕を覚えるクリスマスが近づいてきました。来月の2日(日)に はアドヴェントに入ります。週報にも「降誕前第7主日」と書かれています。古代教会では この季節を悔改めの時として過ごしました。悔い改めの時というのは、主なる神に大胆に立 ち帰る備えの時(決意を新たにする時)という意味です。その大切なこの時期に当たりまし て、今朝、私たちに与えられた御言葉はマタイ伝福音書27章62節以下です。ここに記され ていることは主イエス・キリストの十字架の死と葬りであります。  今朝もご一緒に歌いつつ告白しましたが、教会最古の信仰告白である使徒信条に、私たち はひとつの素朴な疑問を抱くのです。それは、こんなに短い使徒信条の中に、どうしてキリ ストの「死と葬り」の出来事が、かくも多く書き連ねられているのかということです。逆に 申しますなら、使徒信条は、主イエスがなさった説教や奇跡の御業についてはほとんど何も 語ってはおらず、ただ「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死に て葬られ、陰府にくだり」と、十字架と死と葬りの出来事のみに告白を集中している。しか も普通に考えるなら「十字架につけられ」だけでも充分に主イエスの死を語りえているはず なのに、そののちさらに「葬られ、陰府にくだり」と告白している。これでもかと畳みかけ るばかりに、使徒信条はキリストの「死と葬り」の事実を私たちに突き付けているのです。  そこで、私たち人間にとって「葬り」とは「死」の完成形にほかなりません。よく「棺を 覆ひて事定まれる」と申しますが、それは人間の自己満足(幻想)の世界にすぎません。私 たちにとって「死」とは絶対冷酷なる事実であり「葬り」はその「死」の絶対冷酷な勝利の しるしです。棺の蓋を閉めて、そこで「定まれる」ものは「この人は確実に死んでしまった」 という現実のみなのです。ある意味でこれは、クリスマスの光り輝く音信とは全く逆のもの ではないかとも思われるのです。  私には「葬り」について忘れがたい思い出があります。私が高校2年生の時、クラスで最 も親しくしていた友人が病気のために、わずか一週間の入院で亡くなったのです。陸上部の 選手をしていた17歳の青年でした。級友たちと共に大きな農家で行なわれた彼の葬儀に出 席しました。そのとき友人の亡骸は、今では時代劇でしか見ることはできない樽型の棺桶に 押込められていました。僧侶の読経のあとで、私は級友たちと共にその棺桶を担ぎ、数百メ ートル離れた墓地に葬りに行き、深い穴の中に友の亡骸を埋めました。それが私にとっての 「葬り」の原体験になりました。私はその時の経験が私を聖書を読む生活、そして教会へと 導いたのだと思っています。あの冷酷極まりない虚無の中に果たして人間の救いはあるの か?。その問いが私を神学の世界へと導いたのです。あの「葬り」なくして私は牧師になり えたであろうかとさえ思うのです。  それならば、まさしくそのような冷酷きわまりない「葬り」の現実のただ中にこそ、私た ちの主イエス・キリストは来て下さり、そこに「死にて、葬られ」という神の子にあるまじ き驚くべき福音の事実をもって身を横たえて下さった。これは私たち全ての者にとって計り 知れざる救いの福音そのものなのではないでしょうか。どんなに言葉を尽くしても語りえぬ 大いなる救いの恵みがそこには輝いています。私たちの主はまさしく「葬り」の冷酷な虚無 の中に、測り知れぬ悲しみの中に、みずから降って下さったかたなのです。まことにわれら の主は、私たちのために「死にて、葬られ」し救い主なのです。  カール・バルトという神学者が、この主の「葬り」についてこう語っています。「死と葬 り、実にこの絶対的な虚無の現実の中でこそ、我らの主イエスは最もたしかに、もっとも確 実に、私たちと一つになって下さった」。私たちは「死と葬り」というと、それは私たちが 生命(人生)から切り離されることだと思います。それは事実でしょう。たしかに私たちは 「死と葬り」によって、情け容赦なく全ての人間関係から切り離され、徹底的に孤独になり ます。私たちは孤独でしか死にえない存在だからです。しかし主イエスただお一人は違うの です。主イエスは私たちを、死の彼方においてさえも孤独にはなさらない。徹底的に私たち と共にいて下さるのです。それが主が「死にて、葬られ」たということです。  そのことは、実は既に使徒信条の中にもはっきりと示されています。主イエスのご生涯に ついて、「処女マリヤより生まれ」から「十字架につけられ」まで、全てその動詞の主語は 主イエスご自身です。これは取り替えるわけにはゆかない。「主」の代わりに「私」とか「私 たち」という言葉を入れることはできない。しかしその中にたったひとつ例外がある。それ が「死にて、葬られ」という告白です。この動詞だけはやがてかならず、私たちが主語にな る日が来るのです。「聖霊によりて」宿ったわけでもなく「十字架につけられ」たわけでも ない私たちが「死にて、葬られ」ということだけは、この私たちの身にもやがて確実に起こ ることを疑うことはできません。それならば主イエスはここで、私たちと共に「死と葬り」 とを徹底的に共有して下さった。そこで私たちに徹底的に連帯して下さったのです。  言い換えるなら、恐ろしい虚無と絶望でしかありえない私たちの「死と葬り」を、主イエ スが丸ごと贖い取って下さったということ。それが主みずから「死にて、葬られ」とあるこ との意味なのです。ですから、私たちの教会の大切な信仰の遺産であるハイデルベルク信仰 問答の問41にはこう記されています。「(問)なぜこのお方は『葬られ』たのですか」「(答) それによって、この方が本当に死なれたということを、証しするためです」。これはおそら く、ハイデルベルク信仰問答の数ある答えの中で最も単純明瞭な答えでしょう。キリストの 死は偽りの死(仮の死)などではなく、本当の死であったと事実を示しているのです。  今朝のマタイ伝27章62節以下を見ますと、その最後の66節のところで「そこで、彼ら (パリサイ人たち)は行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた」とあります。理 由は、主イエスの弟子たちが主イエスの「遺体」を墓から盗み出し、主イエスが「復活した」 と言いふらすのを阻止するためでした。しかし逆に言うなら、彼らはそこで「葬り」が「死」 の完成であることを形の上でも示そうとしたのです。だから重い墓石にわざわざ「封印」を し、番人を置いてまで、墓に人が近づけないようにしたのです。「封印」とは「二度とそこ は開かれることがない」という印です。それならば主イエスはまさに、その「封印」を開き たもうて復活されたのです。死の支配、否、死の完成(勝利)そのものである「葬り」の事 実に、主は最後の永遠の審きをお告げになったのです。「死よ、汝の針はいずこにかある。 死よ、汝の勝ちはいずこにかある」と。  主はまずご自身がまことの死を死なれ、そして墓に「葬られ」たもうたことによって、罪 によって滅びるほかはない私たちと徹底的に連帯して下さり、そして復活によって滅びの徴 である墓を、新しい「生命の門」に変えて下さったのです。死が支配するはずの墓に、永遠 の喜びの生命がもたらされたのです。キリストは墓を生命で覆ってしまわれたのです。死は 生命に(キリストの復活に)呑みこまれてしまったのです。それこそが、今日の御言葉には っきりと示されている福音です。私たちは信仰によって、教会生活を通して、主イエスの死 のさまに等しい者とされ、同時に主の復活のさまにも等しくされた群れなのです。その「死 にて、葬られ」し主の恵みの確かさ、そして復活の生命の確かさを、全ての人々に宣べ伝え るのがこの礼拝なのです。  私たちはなぜ毎週日曜日を「主の日」として礼拝を献げるのか。明確な理由があります。 それはこの日が主イエスが墓の「封印」を打ち破り、罪と死に勝利された復活の日だからで す。だからこそそれは「主の日」(主日)と呼ばれる。私たちを支配していた死の力を、キ リストのみがご自身の死によって覆され、ご自身の教会を通して、復活の喜びの生命へと招 いて下さったのです。私たちはこの主の教会に連なることによって、永遠に、罪と死の支配 のもとにではなく、聖霊と復活の生命のご支配のもとに生きる者とされているのです。  先ほどのカール・バルトが、ある説教の中でこういうことを語っています。幼子キリスト の周りをヨセフやマリア、そして羊飼いや東方の三博士らが取り囲む、あの夢のように美し いクリスマスの情景の背後に、私たちは十字架の「死と葬り」が二重写しのように現れてい るのではないか。幼子キリストが臥したもうた飼葉桶と十字架は、同じ森の木から作られた のではなかったろうか。そして語るのです。「まさにこのかたの死と葬りによって、私たち の上に『死の死』が成就したのである。教会によってキリストに真実に結ばれるならば、も はや誰も永遠に死に支配されることはなくなったのである。私たちは聴く『今よりのち、主 にありて死ぬ死人はさいわいなり』と。この御声をこそ我らは、永遠に確かな福音として聴 き、宣べ伝え続ける。我らは主イエスの死のさまに堅く結ばれ、同時に復活のさまに堅く結 ばれている。…このかたが私たちに代わって『死の死を死んで下さった』ことにより、私た ちの世界に絶対の救いが輝き現れたのである」。  私たちの教会の鎌倉霊園の墓地の墓石には「夜は夜もすがら泣き悲しむとも、あしたには 喜びうたはん」と、詩篇30篇5節の御言葉が刻まれています。「夜は夜もすがら泣き悲しむ とも」。たとえ私たちの人生が幾たび冷酷な「死」の現実に涙を注ぐものであろうとも、私 たちはいま私たちの永遠の主(十字架の主)キリストによって、すでに「喜びのあした」(復 活の朝)を迎えしめられている。死に打ち勝ちたもうた主イエスの絶対の恵みのもとでこそ、 私たちは愛する者たちの「葬り」を執り行う群れなのです。封印された墓はすでに主によっ て打ち開かれ、復活の生命を証しする“生命の門”に変えられたからです。やがて迎える私 たち自身の「死」と「葬り」においてさえ、この同じ救い主が支配したもうことを、全てに まさる喜びと慰めとして、私たちは宣べ伝えるのです。  私たちの教会は、ただひとつの永遠の確かさのみを語るのです。それは、私たちの「死と 葬り」という最も冷酷な現実のただ中にも「死にて、葬られ」たまいし主イエス・キリスト の恵みのご支配だけが永遠に確かであり続けることです。キリストの死に結ばれ、それゆえ 復活にも結ばれた者の限りない祝福の生命の確かさ。人間の魂の確かさでも行いの確かさで もなく、ただキリストの贖いの恵みの確かさのみが、私たちを生かしめ、勇気と平安を与え るのです。詩篇88篇12節に「あなたの奇跡は暗闇に、あなたの義は忘れの国に知られるで しょうか」とありました。この人類最古の問いに、主はもっとも確かで完全な答えを与えて 下さったのです。「しかり、わが生命の祝福は暗闇にこそ現れ、わが義は封印された墓の中 にも永遠の生命を与える」と!。この「死にて、葬られ」しキリストの救いの恵みに、私た ちは生命のかぎり、死を超えてまでも結ばれ、生かされているのです。