説     教    エレミヤ書31章4節  エペソ書4章25〜30節

「聖霊の証印」

2012・11・04(説教12451455)  「こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語 りなさい」。今朝のエペソ書4章25節以下はまずこの御言葉によって始まっています。これ はただ単に「あなたは嘘をついてはならない」という道徳訓などではありません。なにより も主なる神は私たちに信仰を求めておられるのです。神への信仰が「真実」であってこそ、 私たちは隣人に対しても「真実を語る」ものとされるからです。その「信仰が真実である」 とは、私たちのために十字架にかかられた主イエス・キリストの恵みに喜び感謝しつつ応え ることです。真の礼拝者として歩むことです。  旧約聖書・箴言20章6節に「自分は真実だと言う人は多い、しかしだれが忠信な人に会 うであろうか」とあります。私たちは「自分は真実である」と隣人に対しては言えても、主 なる神に対しては言えないのではないでしょうか。「忠信」とは「忠実な信仰」と書きます。 ヘブライ語でもそのままの意味です。もし私たちが生ける神の御前に「忠実な信仰」を問わ れるなら、誰が健やかに立ちうるでしょうか。「神の前における真実」を私たちは持ちうる でしょうか。  そこで、この「真実」という言葉は同じエペソ書の4章21節にある「イエスにある真理」 という字と同じ言葉です。つまり私たちは自分の力では少しも生ける神の前に「真実」であ ることはできませんが「イエスにある真理をそのままに学ぶ」ことによってのみ、つまり教 会のかしらなるキリストに堅く結ばれることによってのみ、キリストの「真理」が私たちを あるがままに覆って下さる、生命の幸いに生きる者とされるのです。それが私たちに日々の 勇気と平安を与え、隣人に「真実を語る」祝福を与えるのです。私たちは自分の力によって ではなく、ただキリストの「真理」に教会によって堅く結ばれることによって「真実」とさ れる。それを箴言は「忠信」という言葉で、エペソ書は「真実」という言葉であらわすので す。  そういたしますと、今朝の25節以下に「隣り人に対して、真実を語りなさい」とある戒 めは、私たちがただキリストの「真理」に結ばれてのみなしうるということがわかるのです。 私たちは自分が「真実」だと思うことを、主もまた「真実」だと認めて下さるかどうか、言 い換えるなら、いつも御言葉に生かされ支えられ導かれた生活をしていることが大切なので す。それこそ主への「信仰」のみが問われているのです。だからそれは道徳的な清さに遥か にまさることです。だからこそ同じエペソ書4章22節にはこう勧められています「すなわ ち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深 みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべき である」。  ここにパウロは「新しき人を着なさい」と勧めています。この「新しき人」とは、私たち の罪の贖い主なるイエス・キリストのことです。つまり私たちは「キリストを着た者」とな りなさいと勧められているのです。「着る」とは自分のあるがままにキリストを受け入れる ことです。キリストを信じキリストの身体なる教会に連なって生きることです。自分の清さ や正しさを誇る生活をするのではなく(自分に小細工をするのではなく)何よりもキリスト があなたのためにして下さった御業をあるがままに受けいれなさい(忠実に信じなさい)と 勧められているのです。そのようにしてはじめて私たちは「おのおの隣り人に対して、真実 を」語る器とされるからです。だから繰り返して申しますが、これは信仰への招きなのです。  そのようにして、今朝の25節には「わたしたちは、お互いに肢体なのであるから」と、 驚くべき恵みが告げられています。私たちは主の教会(主の御身体)に連なる「枝」とされ ている。この確かな祝福の上に26節以下が続くのです。「怒ることがあっても、罪を犯して はならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与え てはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるよ うになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。当時のエペソの教会には「盗み」の 罪を犯した人もいたのです。教会生活(信仰生活)と現実の生活が乖離していた人がいたの です。するとそれは私たちとも無関係ではありえないのではないか。私たちはいまキリスト を着た者としてここに集うています。しかし礼拝が終わって家路についたなら、私たちはそ こでキリストを脱いでしまうことはないでしょうか。エペソの教会にはそういう人がいたの です。私たちは「盗み」はしないかもしれない。しかし神の前に「忠信」な生活をしていな いのなら、私たちもまた「キリストの死にたまえるを虚しく」しているのではないでしょう か。  ここにパウロは明確に語ります。「キリストを着る」とは、いま私たちが教会によってキ リストに永遠に結ばれている「恵み」そのものである。この恵みに生かされるとき、たとえ 人のものを盗んでいた人も、今後は盗まずに喜んで生きてゆくことができる。キリストが私 たちの罪を贖い取って下さったからだ。「情欲に迷って滅び行く古き人」を私たちは「キリ ストを着る」ことによって脱ぎ捨てたからだ。だから「悪魔に機会を与えてはいけない」と 告げられているのです。パウロはさらに29節以下にこう語ります「悪い言葉をいっさい、 あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言 葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」。  ここに至りますと、私たちは申し開きが立たないのではないか。「悪い言葉」を一度も口 にしたことがないという人がいるでしょうか。「人の徳を高めるのに役立つような言葉」と は「主の教会を立てる祝福の言葉」という意味です。私たちはそのような祝福を語り合う(喜 び合う)者とされているにもかかわらず、その恵みを見失っていることはないでしょうか。 まさにそこでこそ主の恵みを「盗んで」いる私たちではないでしょうか。  同じ新約聖書のマタイ伝18章21節以下に、主イエスが語られた譬話があります。シモン・ ペテロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。 七たびまでですか」と訊ねたとき、主イエスは「わたしは七たびまでとは言わない。七たび を七十倍するまで赦しなさい」と言われて次の譬を語られました。ある所に王がいた。その 王に一万タラントの負債があった人がいた。「一万タラント」とは今日の金額に換算するな ら約600億円という途方もない金額です。もちろんその人はこの莫大な借金を返済すること などできません。そこで憐れに思った王は、この莫大な負債を全て赦して(免除して)やっ たのでした。問題はその帰り道に起こりました。負債を赦されたその人は、家に帰る途中で 「百デナリ」の金を貸した隣人に出会います。「百デナリ」とは50万円ほどの金額です。一 万タラント(600億円)に較べれば12万分の1の額です。しかしこの人はその隣人が「百 デナリ」を返せないことを怒って、この隣人を牢屋に入れてしまうのです。そのことを聴い た王は烈火のごとくに怒りました。そしてこの人を呼び寄せて言いました。「悪い僕、わた しに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったよう に、あの仲間をもあわれんでやるべきではなかったか」。そして王はこの人を負債の全てを 返すまで牢に閉じこめるよう命じたのでした。  この譬話の真意は、私たちはみな例外なく「王なる神」の御前に、この無慈悲な人のよう な存在なのだということにあります。王なる神に対する罪、つまり想像もつかぬほどの莫大 な罪の負債を神に赦して戴いたにもかかわらず、その大きな恵みを帰り道で(つまり人生の 中で)もう忘れて、隣人の僅かな負債をも赦すことはできないのが私たちなのです。本来な らこの譬話の結末のように、私たちは神に対する負債全部を返し終えるまでは赦されない存 在なのです。それならば、その私たちの莫大な「罪」という負債を主イエス・キリストは十 字架において、ご自分の生命を献げて支払って下さった。しかも私たちが自分の罪を全く認 めないでいる時に、主は限りない愛と恵みによって、私たちのためにご自分の全てを献げ尽 くして下さったのです。  だからパウロは第一コリント書6章20節にこう語っています「あなたがたは代価を払っ て買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい」。こ の「代価を払って買いとられた」と訳された“アポリュトローシス”というギリシヤ語が「贖 い」という言葉の元になりました。私たちはキリストの十字架の恵みによって新たな生命を 与えられた者なのです。それだから私たちは自分の「からだ」すなわち存在と生活の全体を 通して(人生そのものをもって)キリストの愛と恵みに応える者とされているのです。神の 限りない愛と自由に生きる生活を与えられているのです。  そこでエペソ書の4章に戻ります。今朝の30節に結論として、とても大切な御言葉が告 げられているのです。それは「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがない の日のために、聖霊の証印を受けたのである」とあることです。ここに「聖霊の証印」とい う言葉が出てきます。この「証印」とは「消えざる印章」(永遠に有効な印鑑)という意味 です。ラテン語で「カラクトゥール・インデレビリス」と言います。「インデレビリス」と は「永遠に効力を持つ」という意味です。つまり私たちが主に贖い取られた者(主の復活の 御身体に結ばれた者)であることを、神の聖霊みずからが証明して下さる。主ご自身が私た ちに永遠に有効な印鑑を捺して下さったのです。それを現すのが洗礼の恵みであり、また聖 餐の食卓である。言い換えるならば、主ご自身が贖いとなられたことだ。代価を払って私た ちを罪と死の支配から自由にして下さったことだ。いま私たちに聖霊が与えられ、ここに主 の教会が建てられていることが、私たちに「消えざる印章」が捺されていることの証拠なの です。だから同じエペソ書1章13節にはこうあります「あなたがたもまた、キリストにあ って(教会によってキリストに結ばれて)真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音 を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、 わたしたちが神の国をつぐことの保障であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神 の栄光をほめたたえるに至るためである」。  まことに驚くべき恵みです。罪の塊のような「滅びの子」たる私たちが、いまキリストの 十字架の贖いにより「約束された聖霊の証印」を捺して戴いた。それこそ「わたしたちが神 の国をつぐことの保障」なのです。だから私たちは主に従う歩みを感謝をもってなしうる。 今朝の32節に告げられているとおりです「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリ ストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」。 キリストの贖いのもとに生きること、そこにのみ本当の自由の生活があるのです。私たちは 今も後も永遠に、キリストの救いの主権のもとにあるのです。私たちはいかなるときにも「神 の国の民」とされている。「聖霊の証印」を捺されている。永遠にキリストの愛に堅く結ば れているのです。