説    教    申命記6章4〜9節   エペソ書6章1〜4節

「希望の指針」

2012・10・28(説教12441454)  使徒パウロはエペソ人への手紙の中で、私たちが人生において直面するあらゆる人間関係 について、それはキリストの福音によって祝福へと変えられてゆくことを宣べ伝えています。 特に今朝の御言葉であるエペソ書6章1節以下において、まず親子の関係(家族の関係)に ついて御言葉が語られているのです。  あらゆる伝道の中で、家族(身内の者)に対する伝道こそいちばん難しいと言われます。 それは私たちにも思い当たるのではないでしょうか。身近な人であればあるほど福音を宣べ 伝えるのはより難しく、また教会に誘うのも容易ではない。それはひとつには、身近な人間 であればあるほど、その人の良い面も悪い面もすべて知り尽くされているからです。  私の友人である、ある牧師先生が日曜日の夜、家族と一緒にファミリーレストランで食事 をしました。その店はずいぶん混雑していた。注文した料理が出てきたとき、牧師である彼 は「それじゃめいめい黙祷して食べようね」と言った。すると子供たちが一斉に反論したと いうのです。「お父さん、家ではいつも大きな声でお祈りをするのに、どうしてここでは黙 祷なの?」。これには「参った」とその先生が語っていました。そのお子さんは今では神奈 川連合長老会の教会の副牧師として活躍しておられます。信徒に対しては立派な牧師先生で あっても、自分の子供や家族にはあんがいこうした弱みを見せてしまうのが人間なのです。 実は私たちもこのような経験を意外にたくさん持っているのではないでしょうか。  普段の信仰の姿勢が、身近なところでテストされることがあるのです。否、むしろそれ以 前だという声すら聞こえて来る私たちの現実があるのではないか。ある信徒の人が天に召さ れて教会で葬儀が行われたとき、参列した町内会や職場の人たちが「あの人がクリスチャン だったとは今日はじめて知りました」と語った話を聞いたことがあります。これはもはや伝 道以前の問題です。信仰を公に言い表すことを「恥」とし、社会的な「隠れキリシタン」に なってしまっているのです。それと同じことが私たちにも全くないと言い切れるでしょうか。 ことさらに信仰を大上段に振りかざす必要はないでしょう。問題は、何十年も同じ町内会・ 同じ職場にいる人たちに、クリスチャンだと気づかれないような生活とは、いったい何なの かということです。  そこで今朝の御言葉・エペソ書6章1節から4節ですが、ここにはまず「子たる者よ、主 にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」と教えられています。実はこれほど 広い射程距離を持った御言葉はないと言えます。なぜなら私たちは老若男女を問わず、必ず 誰かの「子」としてこの世に生まれてきた存在だからです。この事実は決して変わることは ない。だからこそパウロはここに「親」に対して語るよりも先にまず「子たる者よ」と、全 ての人に対して御言葉を語るのです。あるいはこうも言えるでしょう。私たちが誰かの「親」 になるということももちろんそうですが、私たちが誰かの「子」として存在するということ は、それは自分の意思を超えた恵みの出来事です。夫婦の関係は場合によっては中断するこ ともありますが、親子の関係はそれができない。だからこそ親子の関係はより難しいとも言 えます。人間にとって必然性(絶対性)が伴う関係ほど難しいものはないからです。何か問 題があって拗れたとき収拾の仕様がなくなるのです。「あなたは親なのだから」「あなたは子 なのだから」という必然的事実が幾らでも大義名分になる。そこで「親」も「子」も立ち上 がれなくなるほど傷つくことがあるのです。  北海道にある、あるキリスト教主義の教護院で、犯罪を犯した少年たちの更生のために生 涯を献げた一人の教師が、ある本の中でこういうことを語りました。社会の中で重大な罪を 犯して教護院に送られてくる少年たち、その少年たちのほとんど全員が、家庭の中に(特に 親子関係に)深刻な問題を抱えた子供たちだと言うのです。子供の行動から家庭が見えてく るのです。父に対して、母に対して、鋭い憎しみの刃を剥き出しにする少年たちの姿がある。 自分の父親について訊ねられたとき、身を震わせるように「あいつだけは絶対に許せない」 と吐き捨てるように語った少年がいたそうです。父親への憎しみの中で育ったその少年は、 やがて悪い仲間に誘われて暴力団に入り、殺人事件を起して教護院に送られてきたのでした。 そうした心の深い傷を負って呻く少年たち、みずからも罪を犯して他者を傷つけた少年たち に、この教師は「まず自分の運命を愛せよ」と教えます。たとえ過去にどんな心の傷を受け たとしても、それを自分が犯した罪の理由としてはならない。それは「甘え」だとはっきり と語るのです。それよりも、受けた心の傷も含めて、まず自分の運命を愛せよ。ここでこの 教師は「運命」という、キリスト教ではほとんど使わない言葉を敢えて用います。そして語 るのです。「愛することは戦うことだ」と…。戦いなくして自分の運命を愛することはでき ない。だからその「戦い」から逃げてはいけない。  一本の樹が生長するのにも多くの戦いがある。樹は自分が置かれた場所から逃げることは できない。幹に深い傷を受けても、やがてその傷を包みこんで上へ上へと成長してゆく。諸 君もそのような人になって欲しいと語るのです。この教護院の生活の中心は365日一日も休 まず毎朝ささげられる礼拝です。神の御言葉を聴くことから、運命を愛するための戦いを始 めるのです。信仰とは事実に逆らってなお希望を抱くことです。人が人に絶望し、自分に見 切りをつけ、他者をも審こうとするところで、なお私たちをあるがままに招いていて下さる キリストの愛を見いだし、そこに存在の全てを賭けて歩んでゆくことです。立ちえず、歩み えず、望みえない人生の暗黒の中で、なおも事実に逆らって望みを抱き、キリストの愛の内 に立ち上がることが信仰です。  だからこそパウロは、今朝の御言葉の中で「子たる者よ、主にあって両親に従いなさい」 と私たちに勧めます。この「主にあって」とは「(既に)主に結ばれている者として」とい う意味です。あなたは既にいま、教会によって、あなたのために十字架にかかって下さった イエス・キリストの恵みに堅く結ばれているではないか。そのようにパウロははっきりと告 げるのです。たとえあなたの親が人間としてどんなに欠点があり不完全な者であっても、あ なたのために十字架を担って下さった主の恵みにおいて、あなたは親と共に生きる生活を重 んじることができる。罪の贖い主なるキリストの恵みに結ばれて、あなたは何度でも新たに 立ち上がることができる。自分の運命をさえ愛することができる…。それこそ「これは正し いことである」とパウロは語るのです。この「正しいこと」と訳された言葉の元々の意味は 「神に義とされること」です。人がどう評価するかではない、神があなたと共におられ、あ なたを極みまでも愛し、あなたの存在と生涯の全部を祝福して下さる。あなたをあるがまま に御国の民としていて下さる。その神の顧みの内に健やかに生き続けること、それこそ「正 しいこと」なのです。  そして、同じようにパウロは4節に「父たる者よ、子供をおこらせないで、主の薫陶と訓 戒とによって、彼らを育てなさい」と勧めます。もちろん「母たる者」にも同じように語ら れています。ずいぶん以前のことですが、ある人が私に「先生、聖書ってずいぶん子供に甘 いんですね」と言われたことがあります。私が「どうしてですか?」と訊ねますと、そのか たが示された御言葉がこのエペソ書6章4節でした。なるほどそういう読みかたもあるのか と、ちょっと意外に思いました。もちろん、ここでパウロは「子供のご機嫌を取りなさい」 と勧めているのではありません。「子供を怒らせないで…」とはそういう意味ではないので す。ここで「おこらせないで」と訳された元々のギリシヤ語は「迷わせないで」という意味 の言葉です。そこから「苛立たせない」とか「悲しませない」という意味にもなりました。 かなり奥行きのある言葉なのです。ですから直訳するとこうなります「父たる者よ、子供を 迷わせたり、悲しませたりしてはならない。むしろあなたの子供たちを、主の薫陶と訓戒に よって育てなさい」。  それでは、どういうときに子供は「迷う」のでしょうか。この「迷う」と訳されたギリシ ヤ語をもう少し詳しく見ますと、そこには「道を見失う」という意味があることがわかりま す。つまり子供たちは、否、私たち人間は、進むべき「道が見えなくなる」とき「迷う」の です。それこそ「苛立ち」「悲しむ」のです。この「道」とは単なる人生行路のことではな く、主が言われる「永遠の御国に至る道」です。人間が人間たりうるために歩むべきまこと の「道」です。それこそ「運命を愛する道」と言って良い。それが見えなくなるとき、私た ちは本当に「迷う」のです。だから「父たる者よ、子供を迷わせないで…」とは「子供に永 遠の御国に至る道を示す父(また母)でありなさい」ということです。それが「主の薫陶と 訓戒によって」ということなのです。  私たち人間は、物質だけで満ち足りうる存在ではありません。かけがえのない人格(魂) こそ私たちの存在の本質です。そしてこの人格(魂)は、ただまことの神との生きた永遠の 交わりにおいてのみ満たされるものです。それこそ4世紀の教父アウグスティヌスの語るよ うに「主よ、あなたは私たちを、ただあなたへと向けてお造りになった。それゆえ、私たち の魂はあなたのもとに憩うまでは、決して平安をえることはない」のです。ある新聞社の調 査によりますと、いま全世界の中学生・高校生の中で、日本の子供たちがいちばん、未来に 対する希望がなく、人生の目的を見いだせず、自分の幸福だけを求める傾向にあるそうです。 しかしこれは転じてみれば、大人たちの世相をそのまま反映しているのではないでしょうか。 青少年の犯罪はすべからく大人社会の鏡なのです。「主の薫陶と訓戒」を持たないならば、 その社会は大人も子供も、羅針盤を持たぬ船のように「生命の道」を失い、迷走を続けるだ けなのです。  まさにそこでこそ、聖書は明確に「主の薫陶と訓戒」という羅針盤のあることを私たちに 告げるのです。そこに私たちは立ち続けているのです。はっきりとした“希望の指針”がこ こにあるのです。この「主の薫陶と訓戒」とは、ただキリストを道徳的な模範として仰ぎな さいという意味ではありません。そうではなく、贖い主なる十字架のキリストを信じて教会 に連なる者となりなさい、まことの礼拝者として生き続けなさいという意味です。つまり、 この「主の薫陶と訓戒」とは過去のものではないのです。御言葉と聖霊によって、教会(キ リストの永遠の御身体)に連なる私たち一人びとりに、日々豊かに与えられている導きであ り、限りない祝福なのです。すなわちこれは「あなたのいっさいの罪を贖って下さった、救 い主キリストと共に生き続けなさい」との勧めであり信仰への招きなのです。  イギリスの詩人ジョン・ミルトンは、度重なる病気と闘いついに失明してしまいますが、 その困難のただ中であの「失楽園」(パラディース・ロスト)を書き上げます。その中でミ ルトンは「汝の心の鎖を天に繋ぐべし。されば汝、いかなる嵐にても動かさるることなから ん」と歌っています。私たちはいつも礼拝第一(キリスト第一)の生活をしているでしょう か。「主の薫陶と訓戒」のもとに立ち続けているでしょうか。もっとも身近な親と子の関係、 またそこに始まる全ての人間関係の中で、私たちが最も必要としているのは、生けるまこと の神との関係を正しく持つことです。そのために十字架に死んで下さったキリストを信じる ことです。そのとき私たちの存在と人生の全体が、測り知れない祝福を証しするものとされ るのです。「汝の心の鎖を天に繋ぐべし。されば汝、いかなる嵐にても動かさるることなか らん」。  私たちのための贖いの小羊なるキリストは、すでに十字架にかかりたもうたのです。そし て甦られ、天の御父のみもとにおられるのです。私たちと共に、いつどのような時にも揺る がぬ千歳の岩となって下さった救い主なのです。このキリストのもとに、主の御身体なる教 会に結ばれて、私たちはいまここに、主の御心が成就し、主の愛が勝利する世界であること を、確信をもって信仰の歩みに遣わされてゆきます。主が生命を注いで勝利して下さったそ の勝利に、私たちはいま連なって生きる者とされています。パウロが語る「主の薫陶と訓戒」 とは、まさにこの十字架の勝利の主と共にある教会生活です。そして全ての人を、主はその 限りない生命の祝福へと招いておられるのです。