説    教    申命記10章17〜19節   エペソ書6章5〜9節

「主に従うごとく」

2012・10・14(説教12421452)  使徒パウロが心血を注いで伝道した教会の中で、特にエペソの教会の問題は難しいもので した。当時のローマ帝国の中にありまして、キリスト教は奴隷階級の人々の間に急速に拡ま ってゆきました。ローマ帝国は奴隷制度、つまり制度的・身分的な労使関係の上に成り立っ ていた国家です。多数派である奴隷階級の生み出す富を、少数派のローマ公民が消費するこ とによって成り立っていた社会でした。もっとも、ローマ帝国における奴隷というのは私た ちが想像する屈辱的な奴隷ではなく、外見上は自由人と何ら変わることはありませんでした。 専門技術職や学校の教師にも奴隷階級の人たちが大勢いたのです。それはローマにより征服 された周辺諸国の国民が奴隷されたからです。しかしいくら緩やかであるとはいえ、奴隷は 主人の所有物であることに変わりはありません。生殺与奪の権限を主人の手に握られていた。 その意味で奴隷に人間としての自由はありませんでした。生存権すらも主人の手中に握られ ていたのです。  そこで、当時のエペソ教会の中に起った問題というのは、家では“主人と奴隷”の関係で あっても、教会の中では対等の信徒どうしである。この当然のことに奴隷の所有者である主 人の側が不満を持ったことでした。もともと主人と奴隷の関係についてパウロの教えはまこ とに明確でした。第一コリント書7章22節に「主にあって召された奴隷は、主によって自由 人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである」とあるとおりで す。ここに奴隷と主人の問題に対する聖書の基本的な教えがあります。つまり、奴隷であっ ても自由人であっても(今日の社会における如何なる経済的・身分的相違があっても)主イ エスによって召されて教会に結ばれた人々はキリストの御前に対等な兄弟姉妹であり、とも に神の栄光を現わすべく召されているのです。  ですから同じ第一コリント書の6章20節に「あなたがたは、代価を払って買いとられたの だ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」と教えられています。 この「代価を払って買いとられた」とあるのは「(主に)贖われた」という意味の言葉です。 主イエス・キリストが私たちの全存在を測り知れない罪もろとも十字架において贖い取って 下さった。だからキリストのものとされた奴隷はキリストにおける自由人であり、逆にキリ ストに結ばれた自由人はキリストの奴隷(代価を払って買い取られた僕)とされているので す。その意味で、たとえ社会にあって奴隷と主人との関係でありましても、教会の礼拝にお いては主の御前に全く対等な“主にある兄弟姉妹”であり“キリストの僕”であり“ともに 御国の御業に仕える者たち”なのです。  ですから、そもそも不平や不満が起ることがおかしいのです。しかし人間は礼拝の場にさ えも、教会の中にさえ自分の価値観を持ちこもうとする、まことに愚かしい存在です。パウ ロの確信は、どのような人間関係も神の御手から離れてはありえないということでした。だ からパウロは「奴隷と主人」という制度的な労使関係をも神の御手から新しく受けとる幸い を私たちは与えられていると教えているのです。労使関係の難しさはそこに偏った見方が支 配することです。主人は常に支配者の立場で奴隷を支配しようとしますし、逆に奴隷は屈辱 を受けた側の立場で主人を批判しようとするわけです。そこでパウロは今朝のエペソ書の6 章5節以下において、その双方に福音による新しい生活を改めて宣べ伝えています。「僕たる 者よ、キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさ い。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の 御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい」。そして、主人たる者に対し ては9節以下にこのように勧告しています。「主人たる者よ、僕たちに対して、同様にしなさ い。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたと の主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである」。  ここで大切なことは2つの言葉です。第一に5節にある「キリストに従うように、恐れお ののきつつ、真心をこめて」とあることです。これは「奴隷と主人」の両方に、つまり当時 の全ての人々に語られている福音です。つまり私たち一人びとりへの勧告なのです。私たち はどのような人間関係の中でどのような仕事をするにしても、いつのまにかそれが自分の利 益を第一とするものになって、その結果、偏った効率主義・功績主義に陥ってしまうことは ないでしょうか。成果が上がれば自分の功績のように看做し、自分を偉い者のように自惚れ、 逆に成果が上がらなければ失敗だったと落ちこみ、自信を失い、自分をも他人を審くことに なるのです。  まさにそこでこそ聖書は、自分を基準にして成果を問う私たちの頑なな価値観を、いまキ リストに明け渡してしまいなさいと勧めます。それが「キリストに従うように…」というこ とです。そして「恐れおののきつつ、真心をこめて」というのは、十字架の主のみを見上げ るまなざし(キリスト告白)を持って、という意味です。何よりもまず、主なる神が私たち を常に変わらず見つめていて下さる。その神のまなざしの中でこそはじめて私たちは、頑な な自分を主の御手に委ねることができるのです。自分の思いや価値観を絶対化してそれに従 うのではなく、どのような仕事をするにしても、どのような人間関係においても、私たちは そこで心から「キリストに従う」歩みをなすことができるのです。その場合、職種は全く関 係ありません。どのような職業であれ、私たちはその仕事を通して、キリストに仕える歩み をなす僕とされているのです。  もうひとつ大切な御言葉は、最後の9節にある「彼らとあなたがたとの主は天にいますの であり、かつ人をかたより見ることをなさらない」とあることです。これも私たち全ての者 に告げられている福音の御言葉です。もともとこの「主は…人をかたより見られない」とは 旧約聖書・申命記10章17節から来ています。そこには「イスラエルよ、心をつくし、精神 をつくしてあなたの神、主に仕えよ」と命じられた後で、このように告げられているのです。 「あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、 人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行 い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物とを与えられるからである。それゆえ、あなた がたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった」。  私たちは人を偏り見ることしかできない存在ですが、主なる神は絶対に人を偏り見たまわ ないのです。父・御子・聖霊なる三位一体なる聖なる神、私たちの救主なる神だけが、人を 偏り見たまわぬ唯一のかたなのです。この「偏り見る」と訳されたところをドイツ語のルタ ー訳の聖書では「名声を博する」(ansehen)と訳しています。つまりルターは、「人を偏り 見る」とは、その人自身の人格をではなく、その人の「名声」を見ることだと定義している。 そして、そのような人の評価(名声)だけを人生の基準とするとき、私たちはついに絶望に 陥るよりほかはないのです。自分をも他人をも「偏り見る」ことしかできなくなるのです。 まさに労使関係においてはそのような「評価」だけが独り歩きしやすい。そこに人間の存在 の意味と理由が見失われてゆくことになります。人間の存在そのものではなく、業績や能力 だけが評価されるとき、私たちはその人を「偏り見る」ことしかできなくなるのです。「偏り 見る」とはそういう意味です。自分は人を偏り見てなどいない、正しい評価をしているのだ と思いこむから、なおさら危険なのです。  その思いこみは結局は、自分もそのように評価されたいという自己願望の裏返しなのです。 人を測るその秤で自分も測り返されているに過ぎないのです。そのような私たちに対して、 今朝の聖書ははっきりと告げています。あなたは主イエス・キリストが生命をかけて贖い取 り、教会の活きた枝として下さった者ではないか。主はすでにあなたの存在と人生全体の重 みを、その罪もろとも十字架において担い取って下さったではないか。あなたはその贖いの 恵みによってキリストのもの(キリストの奴隷)とされているではないか。キリストが十字 架という「代価を払って買い取った」者とされているではないか。それならば、あなたもま た、いや、あなたこそ、キリストに結ばれて限りない生命を与えられた人である。主の御身 体なる教会に結ばれ、御国の民とならせて戴いている私たちである。その私たちにもはや自 由人・奴隷の区別はない。主にあって(主に結ばれて)私たち皆が主の御業に仕える者とさ れているではないか。  だからパウロははっきりと語ります。コロサイ書の3章11節です。「そこには、もはやギ リシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」。また第一コリント書の12 章13節にはこう告げられています「なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、 奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そし て皆一つの御霊を飲んだからである」。  私たちは全て、キリストによって罪を贖われるまでは「罪の奴隷」に過ぎなかったのです。 その「罪の奴隷」であった私たちを解放し、真の自由を与え、尽きぬ生命を与えるために、 主はみずからの全てを十字架において献げ尽くして下さったのです。この十字架の主の測り 知れぬ恵みによって、私たちはここにひとつの主の御身体とせられ、主の御業に共に仕え、 キリストを唯一のかしらとして、勝利の主に結ばれて、それぞれの務めへと召し出だされて いるのです。