説    教   詩篇32篇5〜6節  第二コリント書5章16〜19節

「救済の福音」

2012・10・07(説教12411451)  私たちの教会には十字架が掲げられています。単なる飾りではありません。私たちの教会 は十字架の主イエス・キリストの福音のみを宣べ伝える群れです。十字架の主によって全て の罪を贖われ、赦され、復活の生命に結ばれて、新しくされた聖徒の群れが教会です。この 恵みは「救い」そのものであり、私たちはそれを感謝し讃美し、全ての人々に証しするため に、ここに礼拝を献げているのです。  いつのまにかクリスマスを意識する季節になりました。一年が経つのは早いものです。そ れは何よりも使徒信条の中に端的にあらわれています。私たちは「主は聖霊によりて宿り、 処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」と 告白しました。つまり、主の御降誕(クリスマス)の出来事は「ポンテオ・ピラトのもとで 苦しみを受け、十字架につけられ」という、主の十字架の出来事(救済の福音)とひとつな のです。  これは、主イエスの御生涯がその最初から、十字架を負うご生涯であられたことを示して います。まさにこのことを記念してこそ初代教会は待降節(アドヴェント)の期間を過ごし ました。初代教会のキリスト者たちは、全世界の救いのために人となりしキリストの御前に 感謝と畏れをもってひざまずき、十字架による全き「罪の赦しの永遠の喜び」を感謝し讃え 祝いつつアドヴェントの期間ほとんど毎日教会に集い礼拝と祈祷会を献げたのです。一日の 仕事を終えて、夜になってから集まったのです。当時はまだ日曜日も休日ではなかった。す でにローマ帝国によるキリスト教会への大規模な迫害が始まっていました。そこで信徒たち はカタコンベと呼ばれる地下の共同墓地に密かに集まり、そこで蝋燭を灯して礼拝を献げ、 みずからを迫害する人々に対する執成しの祈りを献げ、想像を絶する困難の中で福音宣教に 励んだのです。教会は最初から十字架の主のみを宣べ伝える群れとして立ち続けてきたので す。  かつて石原謙という教会史の碩学がおられました。私は高校2年生の時に洗礼を受けて、 最初に買って読んだ本が、そのころ出版されたばかりのこの石原謙の「キリスト教の源流」 という本でした。今から考えると無謀な読書でしたが、結果的にこの本は私の信仰を養い、 教会を大切にする生活へと導いたのです。かつて東京神学大学でも教会史の講義を担当され たこの石原謙先生は98歳で天に召されるのですが、このかたは、本当に「慄き」という言 葉でしか言い表せないほど、それほど非常に深く死の彼方にある審きを恐れたと申します。 ご自分が死によって主なる神の前に立たしめられることに、限りない畏れを抱いたのでした。 そうした事情をよく弁えなかった人が病床の石原謙に対して「先生ほど信仰の深いかたでも 死ぬことは怖いのですか?」と訊ねた。すると石原謙はその人にこう答えた。「あなたは人 間の罪の深さ、罪の恐ろしさというものを、まだ知らないから、そんなことが言えるのです」。 人間の罪、否、自分の罪の深さ、恐ろしさというものを知れば知るほど、死はどんなに恐れ ても足らぬほど恐ろしいものなのだ。私はこれもまた、この偉大な学者が遺した大切な遺言 であり、生きた信仰の証しであると思っています。  実は、この石原謙という人は、ただ死を恐れ、罪を畏れつつ死なれたのではない。その恐 れが真実であったのは、唯一の救い主イエス・キリストに拠り頼む信仰の真実のゆえにでし た。ある人はその先生の姿を「キリストのもとに駆け寄る幼子」に譬えました。この一人の 老神学者の死に際して、そこに輝き現れたものは、文化勲章受章者の名誉でも、世界的な教 会史家としての栄光でもなかった。ただひたすらに十字架の主イエス・キリストにのみ拠り 頼み、キリストによって全ての罪を贖われた者として生かされた一人の信仰者の姿のみを、 この人は証されたのでした。ただ十字架の主の「救済の福音」のみを指し示したのです。一 人のキリスト者の全生涯を通して、ただ十字架のキリストの限りない愛と救いの恵みが燦然 と輝き現われた。そして主に全てを委ねた平安と感謝と希望のうちに天に召されたのでした。 私たちもまた同じ十字架の主の救済の福音にあずかり、生かしめられ、そして死にゆく幸い を与えられているのではないでしょうか。言い換えるなら、十字架のキリストのみが罪と死 に打ち勝ちたもうた唯一永遠の救い主であられる。この確信と平和に私たちはいま共に生か しめられているのです。  それゆえヨハネは「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなた がつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」とヨハネ伝17章3節に語って います。そして何よりもパウロは今朝の御言葉第二コリント書5章16節以下に「それだか ら、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によ って知っていたとしても、今はもうそのような知りかたをすまい」と告げているのです。続 く17節にはこうも語られます。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた 者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。  ここでパウロが言う「肉によってキリストを知る」とは、信仰によってではなく、単なる 知識としてキリストを知るということです。私たちはどうしても知識から信仰という順序に 拘りやすいのです。まず知識があってその後に「信ずること」が起るのだと考えやすい。し かしパウロは「それは逆だ」と言うのです。福音の真理はまず私たちに「信ずること」を求 めるのです。そうした後にはじめて「キリストを真に知る」者とされるのです。パウロはコ リントの教会に、この点において重大な間違いがあることを指摘しています。コリントの 人々は知識欲が非常に旺盛であった。知識を重んずるあまり、それは経験を重んずること(神 の言葉ではなく、自分の経験を第一にすること)に傾いてゆきました。そこからコリントの 教会の中に、いつの間にか経験主義(律法主義)が忍びこんできたのです。キリストについ ても、実際にキリストの弟子であったペテロのような使徒と、そうではなかったパウロとを 区別して「肉によりてキリストを知らない」パウロには御言葉を語る権威がないのだと主張 していたのです。  このような誤った福音理解に対してパウロは、私たちがキリストを「知る」のは「肉によ って」(つまり知識によって)ではなく「信仰によって」であることを明らかにしました。 つまり私たちは御言葉と聖霊によってのみキリストを真に「知る者」とされるのです。もし 知識を問われるなら、パウロもまたキリストを「肉によって」知っていた人でした。キリス トに会ったことがある人でした。しかし「かつてはキリストを肉によって知っていたとして も、今はもうそのような知りかたをすまい」とパウロは語るのです。  言い換えるなら、洗礼は受けたけれども、いつのまにか信仰が知識だけのものになってし まう私たちがある。いつの間にか「信仰」が自分の心の状態のことになってしまって、十字 架のキリストを信ずるものではなくなってしまう。「キリストのもとに駆け寄る幼子」では なくなってしまう。そうした危険を私たちは持っているのです。だからこれは私たち一人び とりへの大切な御言葉です。ここでは唯一の救いの御名のみが明らかにされています。単な る信仰の心構えの問題ではない。この救いの御名(十字架の主イエス・キリスト)を私たち は「肉によらず、信仰によって」「知る」者とされているではないか。すなわち「だれでも キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、 すべてが新しくなったのである」と告げられていることが大切なのです。この「新しさ」に 私たちが本当に生きた群れになっているか否かということです。  それこそ、私たち一人びとりが、十字架の主イエス・キリストによる「罪の赦しによる永 遠の喜び」に生かされていることが大切です。キリストはこの罪人のかしらなる自分をすら 救い、贖い、そして「すべてを新しくして」下さった。それなら、もはや私たちもまた、誰 をも「肉によって知ることをすまい」と主に対する喜びをもって決意する新しい生活へと導 かれているのです。そこに本当の自由の生活が、主の教会に結ばれて生きる礼拝者の生活が 造られてゆくのです。  思えば、私たちは他者を「知る」ときにも、ただ「肉によって」「知っている」と思いこ んでいるだけのことがいかに多いことでしょう。私たちは心の中に他者に対するレッテルを 密かに貼って、そのレッテルを通してだけその人を「知っている」と思いこむことがいかに 多いことか。言い換えるなら、キリストへの信仰がないところ、神に対する関係が修復され ないところに、本当の人間関係は決して成り立たないのです。  あるキリスト教主義の教護院、昔で言う少年院で長年働いてきたある人が、少年たちと共 に献げる礼拝の中でこういうことを語りました。「私たちは、自分がどんなに醜い、けちな 人間に過ぎないかを知っています。身のおきどころがない思いに責められることさえあるの です。それはまことに辛く苦しい自覚です。絶対者の前に立たされて、自分がいかにみじめ な存在であるかを知るのです。…しかし、同時に私たちは神に赦されている、救われている という喜びを感じています。信仰者は、時に、人々の想像を超えて、しぶとく、強く、勇気 に満ちているのです。普通の人がへこたれても、参らないのです。希望を失わないのです。 …人間がお互いに知り合えることは限りがあり、偏りがあると思うのです。だから、誤解が あり、執着があり、裏切ることもあるのです。…神の前に立たされて、自分が丸のまま見据 えられていると思うとき、恥ずかしさと安堵とを同時に覚えるのです。私たちはそこに、生 きてゆく上での土台を置くのです」。  そのとおりではないでしょうか。私たちは譬えて言うなら、自分が病気であることを自覚 していない病人のようなものです。神の前に自分は病気なんかではないと思っているから、 人間に対しても傲慢なのです。あの「罪の女」と町でレッテルを貼られた女性が、パリサイ 人シモンの家に入ってきて、主イエスの御頭に香油を注ぎ、涙で主イエスの足を濡らして自 分の髪の毛で拭ったとき、自分は病気ではなく健康だと自惚れていた人々はみな、心の中で この女性を審いたのです。汚れた人間が入ってきたと審いたのです。この人々に主イエスは 厳かに言われました。「この女がどんなに多くの罪を赦されたかは、彼女が示したその愛の 大きさでわかるではないか」と。ルカ伝7章36節以下の御言葉です。主イエスはシモンに 「あなたはこの女性を見ていないのか」と言われました。目があっても観ていないものがあ る。彼はただレッテルだけを見ていたからです。同じように、私たちもキリストを「肉によ って」だけ「(充分に)知った」と思いこんではいなかったでしょうか。まさにそこから、 他者をも同じようにレッテルだけで観てはいなかったでしょうか。主はこの女性に、否、私 たち一人びとりにはっきりと宣言して下さいます。「あなたの信仰があなたを救った。わた しの平安の中を歩みなさい」と…。  人間を真実にかけがえのない人格たらしめ、神と共なる新しい自由の人生と幸い、永遠の 喜びを与えるものは、十字架の主イエス・キリストによる「救済の福音(罪の贖いと永遠の 喜び)のみです。人間はたとえ全世界を所有しようとも、聖なる神の前に罪の赦しなくて決 して人間たりえないからです。虚しい存在でしかないのです。そのような私たちに、永遠の 生命を、復活の喜びの生命を与えて下さるために、そして永遠に主に結ばれて歩む者として 下さるために、主は十字架にかかってご自分を贖いとして献げ尽くして下さった。ヨハネも パウロも、石原謙も私たちも、この恵みに生かされているのです。それゆえにパウロは明確 に告げています。  「だれでもキリストにあるならば(教会によってキリストに結ばれているならば)その人 は新しく造られた者である」と。「すべてこれらの事は、神から出ている」とパウロは強調 しました。少しも私たち自身の力などではない。ただ十字架のキリストによりてのみ、私た ちは「新しく造られた者」とされ、主の復活の生命に堅く結ばれ、贖われた者の平安と喜び と自由の歩みを続ける者とされるのです。そこに私たちの、また全ての人々の、変わること のない、永遠の喜びと慰めがあるのです。