説    教    箴言25章11〜14節  エペソ書6章21〜24節

「忠実なるテキコ」

2012・09・30(説教12401450)  今日の説教題は誰しも「忠実(ちゅうじつ)なるテキコ」と読まれることと思います。しか しこの「忠実」という漢字は文語訳の聖書では「まめやか」と読みます。すなわち文語では今 朝のエペソ書6章21節以下はこのように記されるのです。「愛する兄弟、主に在りて忠実(ま めやか)なる役者テキコ、我が情況(ありさま)わが為す所のことを、具(つぶさ)に汝らに 知らせん。われ彼を遣はすは、我が事を汝らに知らせて、汝らの心を慰めしめん為なり」。パ ウロはここに、愛するエペソの教会に同労者である若きテキコを遣わすにあたり、パウロの伝 道の様子がエペソの教会につぶさに報告され、そのことによって教会がいっそうキリストのも とに強められ、慰さめを受け、主を讃美する群れとなるように祈っているのです。  そこで「忠実」なことと「まめやか」なこととは、似ていますが少なからず違うのです。「ま めやか」とは主イエスが言われたように「小事に忠実なる者は大事にも忠実なり」の「小事」 すなわち日常全ての事柄において陰日向なく主に仕えるキリスト者の姿勢です。テキコは若い ながら、その点において「まめやか」な主の仕え人であったのです。だからこそパウロは今朝 の御言葉で「主に在りてまめやかなる役者テキコ」と語っている。この「役者」とは福音の宣 教者「御言葉に仕える者」のことです。おのれを伝えずしてただ御言葉のみを宣べ伝える主の 僕のことです。福音宣教者には自由が必要です。何物にも囚われることなく御言葉を全ての人 に宣べ伝える自由。その本当の自由はキリストにありてこそ得られるのです。  パウロはこのエペソ人への手紙を獄中の囚われの身で書きました。パウロが書いた手紙のう ちエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書の4つは「獄中書簡」と呼ばれます。古代の 牢獄には自由は全くなく、環境の劣悪さは目を覆わしめるものがありました。私はカイザリヤ で古代の牢獄の跡を見ましたが、実に想像を絶する過酷なものです。パウロが投獄された理由 は、イエス・キリストを救い主として宣べ伝えたからです。しかし鎖も神の言葉を縛ることは できなかった。その獄中よりパウロは若きテキコをエペソに遣わして、ただ救いの福音を宣べ 伝えさせているのです。だからパウロはエペソの教会に、自分がいかに酷い扱いを受け、惨め な思いをし、乏しさと不自由の中にあるかを少しも語ってはいません。ここで私たちは改めて 今日の御言葉の「まめやか」という言葉に心を留めたいのです。  この「まめやか」という言葉は、すでにこのエペソ書冒頭の1章1節に出てくるのです。「神 の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって 忠実な聖徒たちへ」とあるのがそれです。つまりパウロはキリストを証しすることにおいて「忠 実」(まめやか)な「聖徒」の群れであるエペソの教会に対して、まさにその群れの中で生ま れ育まれた若き伝道者テキコを、同じように「まめやかな」主の僕として遣わすと語っている のです。これはパウロにとって限りない喜びでした。なぜならこの「まめやか」さとは、生き て今ここに救いの御業をなしておられるキリストに仕え、キリストのみを指し示す信仰の姿勢 だからです。パウロの祈りは、いつでもどこでも、いかなる境遇にあっても、ただキリストの 救いの御業の全ての人に現われんことにありました。自分自身のことは少しも眼中になかった。 主に仕えることに本当の自由があるのです。ですから今朝の御言葉の少し前の19節以下にパ ウロはこう語っています。「また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福 音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。わたしはこの福音のた めの使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には 大胆に語れるように祈ってほしい」。  同じように、獄中書簡であるピリピ書1章12節にはこう記されています。「さて、兄弟たち よ、わたしの身に起ったことが、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがた に知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、 兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、 わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るよ うになった」。このことをパウロは限りなく主に感謝しているのです。宗教改革者カルヴァン は、今朝の御言葉の22節について「たとえ目前に迫った死の危険すらも、彼(パウロ)が遠 くにある兄弟姉妹たちのことを思い、魂の配慮をしようとする、主にある牧会のわざを、少し も妨げることはできなかった」と語っています。  パウロが小アジヤ(今日のトルコ南西部)に伝道し、エペソに最初の教会を設立したのは西 暦54年から56年にかけてのことでした。エペソ書が書かれるおよそ5年前のことです。パウ ロは約3年間エペソに滞在しましたが、それはパウロにしては異例の長さでした。それだけエ ペソ伝道は難しかったのです。しかもその滞在期間の後半をパウロは獄中で過ごすことになり ます。そこからピリピの教会に対して“ピリピ人への手紙”を書き送っているのです。この獄 中のパウロの牧会のわざを命がけで支えたのは、ほかならぬエペソの教会の人々でした。教会 は教会でしか世に与ええないもの、神の言葉を全ての人に宣べ伝えるために主がお建てになっ た恵みの器であり、聖霊の宮です。主はご自身の御身体なるこの教会を通して、全ての人を御 言葉による唯一永遠の救いへと招いておられ、世界に救いの御業を成就して下さいます。この ことを離れて、他の人間的な交わりをいかに盛んにしようとも、決して真の教会は建ちません。 それでいかに人をふやしても、それは本当の教勢ではないのです。真の教会の交わりは御言葉 と聖霊において現臨したもうキリストとの交わりです。その中からテキコのような「まめやか な」主の仕え人が育てられてゆく「聖徒の交わり」です。それがいかに限りない慰めであり励 ましであり、また喜びであるかを、今朝の御言葉ははっきりと示しているのです。  さて、パウロはエペソ伝道から5年を経て、いまやローマの獄中に捕われの身となりました。 そこからエペソ教会の出身である「主にありて忠実なるテキコ」をエペソに遣わし、かつて自 分の投獄によって「主にある確信」を与えられた教会の兄弟姉妹たちに対して、あのとき主か ら賜わったのと同じ確信を抱き続けて欲しい、そして福音に堅く立ち続ける群れとなるように と、励まし勧めているわけです。遠く千数百キロも離れたローマの獄中からテキコを遣わした 理由は第二コリント1章6節と同じです。私たちが主にありて受ける苦難は、他の兄弟たちの 「慰めと救いのため」に働くことを知る幸いのゆえにです。テキコもまた危険な旅路をものと もせず、万難を冒してエペソの教会に主にある慰めと励ましを届けたのです。私たちが洗礼を 受けて「主のもの」とされたことは、生きるにも死ぬにも、決して主の恵みの御手から離れる ことのない者とされたことです。それゆえにこそ、私たちが主にありて出遭ういかなる苦難も、 悩みも、病気さえも、それは救いと平安へと導き、主の恵みを証する器となって働くのです。 その大きな慰めと幸いに私たちはいま生かされているのです。  パウロも同じでした。私たちもそうです。何の値もなくして、ただキリストの贖いの恵みに より教会に結ばれ、主の復活の生命にあずかる者とされている。だからこの手紙を読み、礼拝 を献げ、キリストをかしらとして歩む私たちも、その信仰生活そのものが十字架と復活の主を 物語るものとされているのです。実に2000年の時空を超えて、聖霊により、同じ主の救いの 御業が、同じ主の弟子たちによって証しされている。これはなんと驚くべき恵みであり、感謝 すべき主の御業でありましょう。それならば、私たちの主にある責任もまた、まことに喜ばし く感謝すべきものだと申さねばなりません。私たちもまた自分を顧みて、主の御前に「主にあ りて(主に結ばれて)まめやかな」僕とせられたいと心から願います。私たちの葉山教会は「主 にありて忠実な聖徒たち」と称えられる群れとされているのです。それは私たちのわざではな く、キリストの贖いの恵みによってです。その贖いの恵みに生きる私たちであることこそ、私 たちが共に担う喜びと祝福の務めなのです。  「忠実」であること。「まめやか」であること。それは現代人にはいささか古臭い、人気の ない言葉でしょう。もっとスマートで機転のきいた、格好のいい、要領のよい生きかたが好ま れる時代です。安近短と申しますが、手っ取り早く楽に生きたいと誰もが願っています。しか しそこには人間のエゴイズムしか現われません。むしろ本当に大切な仕事ができ、人にも本当 に信頼される人は、主なる神に対してこそ陰日向のない人ではないでしょうか。「小事に忠実 なる者は大事にもまた忠実なり。小事に不忠実なる者は大事にもまた不忠実なり」と主は教え たまいました。私たちの生活のどんなに小さな一部分にも、キリストの祝福の御業は現われる のです。たとえ体裁が悪くても、不恰好であっても、愚直なまでに「まめやか」にひとすじに、 信仰に生きる私たちでありたいと思います。  最後に、今朝のエペソ書6章23節24節をお読みしましょう。「父なる神とわたしたちの主 イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。変わらない真実 をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように」。 私たちはいつもこの祝福と幸いの内に、現臨したもう主に堅く結ばれているのです。「信仰に 伴う愛」とは十字架のキリストに現された神の愛です。だからルターは「信仰とひとつなる愛」 と訳しました。まさに「信仰とひとつでしかありえない愛」をもって、私たちは「聖徒の交わ り」をここに造る者たちとされています。その愛こそ私たちも語りうる。否、その愛をこそ私 たちは語らずにはおれない。測り知れない罪なる私たちを極みまでも愛しとおされ、十字架へ の道を歩みたもうた主イエスの愛。矛盾と破局に満ちた私たちの存在を、かき抱くように包ん で下さり、私たちの存在の全てを担って十字架にかかって下さった。罪の結果である永遠の死 を、主が担い取って下さった。このキリストの測り知れない愛を、私たちはいま“永遠の共通 財産”として戴いている。このキリストの恵みにおいて、世界に主の御業が現され完成するこ とを知る者とされている。だから私たちは「いつも全力を尽くして主の御業に励む」者とされ ている。この信仰と希望と愛において、私たちは堅く結ばれ「まめやか」に主に仕える者とさ れているのです。「変わらない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべ ての人々に、恵みがあるように」。