説     教   出エジプト記35章29節  ピリピ書4章10〜13節

「奉献の感謝」

2012・09・23(説教12391449)  使徒パウロは今朝のピリピ書4章10節において、愛するピリピの教会の人々に対してこの ように語っています。「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、 あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心 にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである」。この「主にあって大いに喜んでい る」とは、ピリピの教会の人々が神への“感謝の献げもの”においていよいよ熱心な群れに成 長し、主の御業に仕え、御栄えを現わすようになったことを、主にありて心から喜んでいると いう意味です。ここに伝道者パウロの尽きぬ喜びと感謝がありました。  そこで、少しあとの17節以下を読むとこうもあります。「わたしは、贈り物を求めているの ではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしてゆく果実なのである」。パ ウロの切なる願いは、献げもの(献金)を通してピリピの教会が成長し強められることでした。 だから続く18節にはこうあります「わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エ パフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいか おりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」。そして最後にパウロの感謝は神への頌 栄と讃美をもって終わっています。19節です「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あ なたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。わたした ちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。  ここに「エパフロデト」という青年の名が出てきます。エパフロデトはエペソの牢獄に囚わ れの身となっていたパウロを助けるために、ピリピの教会からの献金を携えてパウロのもとに 遣わされた青年でした。もしかしたら彼はヨーロッパ最初の信者・ルデヤの息子であったかも しれないと推測されています。しかしパウロの伝道を手助けするはずであったエパフロデトは、 長旅の無理が原因で重い病気になってしまい、パウロを助けるどころか逆にパウロに看護され る身になってしまった。純粋なエパフロデトにとってそれは耐え難いことでした。このままで はピリピの人たちに顔向けができないと悩んだのです。この主の忠実な僕エパフロデトに、パ ウロは獄中で書いた「ピリピ人への手紙」を持たせてピリピに送り返します。事実パウロはピ リピ書の中で「(エパフロデトは)キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになった」 のである。このような人こそ重んじられねばならない。どうか彼を私自身だと思って喜び迎え 入れて欲しいと懇願しています。つまりパウロは、このエパフロデトの献身と、彼を獄中のパ ウロのもとに遣わしてくれたピリピの教会の志を、何よりも尊い献げものとして主に感謝して いるのです。  この喜びに支えられてこそ、パウロは、このピリピ書2章17節に「たとい、あなたがたの 信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あな たがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」 と語っています。この手紙が「喜びの手紙」と呼ばれるゆえんです。私たちが献金を献げて「感 謝の祈祷」をささげるのも、ここに根拠があるといって良いのです。献金は献げること自体が 私たちにとって大きな感謝であり喜びなのです。そこで、今朝の御言葉を注意ぶかく読むとき、 私たちはここにパウロがピリピの教会への人間的・直接的な感謝の表明を敢えて避けているこ とに気がつきます。「私はあなたがたから多くの献げ物を戴いたことを心から感謝する」とい った文言はどこにも出てこないのです。パウロは意図的に人間的な感謝の言葉を避けています。 だからある神学者はここを「感謝なき感謝」であると語りました。パウロは人への感謝を表さ なかった人ではありません。むしろパウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことの できる人でした。ですから獄中にある自分の「窮乏を補なわんとする」ピリピ教会の「贈り物」 をも、深い感謝の念をもって受け取ったに違いないのです。その上で敢えてパウロは10節に 「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは」と語っているのです。それはパウロに与 えられた「贈り物」が人間の栄光ではなく、ただ主なる神の栄光を現すものであったからです。 だからパウロは「惜しみなく」主の御業に献げんとする志をピリピの教会の人々が「主にあり て」抱くようになったことを全てに勝って喜んでいるのです。  パウロはいつも、自分を「キリスト・イエスの僕、使徒、そして御言葉の宣教者」であると 自覚していました。それ以外に自分を現わすことをしませんでした。もしパウロに名詞を作ら せたなら、パウロはそこに「キリストの使徒・伝道者パウロ」と記したことでしょう。神の言 葉に生かされ、神の御言葉を宣べ伝えることほど素晴らしい務めはないのです。この素晴らし さをこそ、私たちの教会はいつも主から与えられているのではないでしょうか。それならパウ ロは、それがどのようなものであれ、神の僕である自分の働きのための「献げ物」を決して自 分個人へのプレゼントとして捉えることをしなかった。できなかった。そこに、神の恵みによ って共に生かされ、新たにされ、罪を贖われた僕として、その恵みに対する感謝の応答として、 最も素晴らしい務めである伝道者パウロの働きを支えるために「窮乏を補う」献げものを送っ てくれるピリピ教会の、否、私たちの教会の献げもののありかたが改めて示されています。そ れは、私たちが献げものをもって救い主なるキリストの御業にお仕えすることは感謝そのもの だということです。神への献身のしるしなのです。だからこそパウロは、それを個人的な感謝 の次元などで受け止めることはできなかった。そうではなく、その感謝の献げものが向かって いる究極的な目標である「神の栄光」との関係においてのみそれを受け止め、ただ主にのみ感 謝を献げているのです。  私は葉山教会に赴任して18年目になります。私が以前牧師として仕えていた東京の千歳教 会の前任者・上与二郎という先生は、先年天に召された上良康牧師の父上であり、戦前、日本 基督教会台湾中会の議長を長く務めたかたでした。今でも台北の目抜き通りに、かつての日本 基督台北教会、現在の台湾基督長老教会・台北経南街教会の堂々たるアングロノルマン風の煉 瓦造りの会堂が建っています。その広い礼拝堂を年に5回ほど教会の青年たちが大掃除をした。 礼拝堂の椅子をみな屋外に運び出し、ホースで水をかけて大理石の床をブラシで磨いたそうで す。その奉仕の様子をときどき上先生が見に来られる。しかし「ありがとう」とも「お疲れさ ま」とも言われず、ただ黙って見ておられる。当時の青年であった早坂礼吾さん(宮城学院の 院長を長く務めた人)が不思議に思って、あるとき上先生に訊ねた。「先生はどうして私たち が奉仕しているとき“ありがとう”と言って下さらないのですか?」。すると上先生は早坂青 年にこう言われたそうです。「君たちは神のため、教会のために奉仕しているのだから、私が “ありがとう”と言う道理ではない」。この上先生のひと言がそれ以後の早坂さんの信仰生活 を決定的なものにしました。そうだ、自分は神のため、主の教会のために、感謝をもって奉仕 させて戴いているのだ。人の評価が目標ではなく、神の前に歩む信仰生活をしなくてはならな い。  改めて10節を見てみましょう「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたし を思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わた しのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである」。ここにパウロは「わ たしを思う心」と語っていますが、それはパウロ個人のための奉仕のことではありません。パ ウロの使命である「神の言葉の宣教のため」という意味です。言い換えるなら“神に仕える奉 仕のわざ”です。その「心」が「今またついに芽ばえてきた」というのは、ピリピの教会は最 初の奉仕の志を失いかけていたということです。感謝の「献げ物」への熱心さを失いかけてい た。その背景には、パウロがピリピを去った後に入りこんできた「偽教師」たちによる教会の 混乱があったと考えられています。とまれ、それがエパフロデトの病気という、人間的には不 幸な出来事を通して「今またついに芽ばえてきた」ことを、私は主に感謝せずにはおれないと パウロは語るのです。そうした教会の志によって献げられる「献げ物」は、贈り手と受け手の 関係(ギブアンドテイクの関係)に終わるようなものではない。その「献げ物」が向かってい る自明な目標があるのです。それは共に主の御業に仕え、主の御栄えを現わさんとする聖徒た ちの志です。その意味で私たち一人びとりが「献金」を通して使徒たるわざに仕えているので す。そのような志を教会に(自分に)与えて下さった主なる神に、私たちもまた感謝を献げず におれないのではないでしょうか。それは主の御業のための聖なる「果実」が現われたことで ある。だから17節にパウロは「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしてゆく 果実なのである」と語っています。これは文語訳では「唯なんぢらの益となる実の繁からんこ とを求むるなり」です。  私たちは献金によって、教会のわざに単に協力しているのではありません。献金は教会の共 同出資金や会費、または維持運営管理費ではありません。“教会の働きを少しばかりお手伝い している”という次元のことではないのです。そうではなく、献金は神の恵みの主権に対する 私たちの従順と献身の奉仕であり、神の御業に感謝をもって仕える喜びです。だからこそ私た ちは献金を献げるたびごとに、献金感謝の祈りにおいて「この献金を献げる喜びを与えて下さ った主に感謝します。この献金と共に私たち自身をお献げします」と祈るのです。それは初代 教会以来の奉献感謝の伝統です。また献金感謝の讃美歌においては「ささげまつる、ものはす べて、みてよりうけたる、たまものなり」と歌います。単に「金品による協力」を私たちはし ているのではない。この私という存在そのものを、私たちの全存在・全生涯を、主よあなたの 尊い御用のためにお用い下さいと祈りつつ献げるのです。改めてそのことを今朝のピリピ書を 通して私たちは示されているのです。  今朝、あわせてお読みした、出エジプト記35章29節に「このようにイスラエルの人々は自 発のささげ物を主に携えてきた」とあります。「自発の」とは、心からなる献身のことです。 その心が、ピリピの教会から一時期、見えなくなっていたこともあった。しかしいま、主なる 神がその機会を得させて下さって、教会に連なる全ての人々の心に、自発のささげ物を携え来 たる思いを芽生えさせて下さった。そのことをパウロは限りなく主に感謝すると同時に、いよ いよ私たちが心をひとつにして、あらゆる境遇において、順境にも、逆境にも、健やかなとき にも、病むときにも、変わることなく、礼拝者として、主を讃美しつつ歩む者として、キリス トにあがなわれたる僕として、心を高く上げて歩んでゆこう。そしてここに、キリストの主権 のみをあらわすまことなる教会に連なり、共に主の御業に仕えてゆく僕たらんとする祈りと志 において、いよいよ感謝と讃美とを新たになしているわけです。御自身の独り子をさえ、私た ちのためにお与えになった神は、私たちをいっさいの良き賜物において、祝福において、限り なく富ましめていて下さるのです。19節をもう一度拝読しましょう。「わたしの神は、ご自身 の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下 さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように。アァメン」。