説    教   申命記21章22〜23節  第一コリント書1章22〜25節

「十字架の主のみ」

2012・09・16(説教12381448)  使徒パウロはイエス・キリストの十字架について「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人 には愚かなものである」と語っています。第一コリント書1章23節です。しかし同時にパウ ロは「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリスト(のみ)を宣べ伝える」と語ってい ます。なぜでしょうか。十字架のキリストにのみ、私たちの、そして全世界の唯一の真の救い があるからです。  私たちは「イエス・キリストを宣べ伝える」という場合、そしてまた「イエス・キリストを 信じる」という場合、それは私たちのために十字架にかかられたイエス・キリストを「宣べ伝 え」十字架の主なるキリストのみを信ずるのです。それがたとえ「ユダヤ人にはつまずき、異 邦人には愚か」であろうとも、それ以外のキリストを決して宣べ伝えないのが私たちの教会で す。私たちの教会は十字架の主イエス・キリストのみを信じ告白し、全世界に宣べ伝える群れ です。  現代ドイツを代表するある優れた聖書学者が、その名も「十字架」という著書の中で興味ぶ かいことを語っています。「十字架は当時の古代世界において最も残酷な恐ろしい刑罰であり、 神に呪われ遺棄された罪人の象徴であった。十字架にかけられた者にはいかなる救いの望みも ないと考えられていた。当時、どんなに親しく打ち解けた仲間どうしの会話でさえ、冗談にせ よ決して口にできない破壊的な言葉は『十字架』であった。『お前など十字架にかかってしま え』これは相手に対する最大の呪いであり、あらゆる人間関係を破壊する最後通牒であった。 『十字架』とはかくもおぞましき呪いであったゆえに、神の御子が十字架にかかって死んだと いうニュースは、ユダヤ人にとっては神への冒涜であり、ギリシヤ人にとっては笑止千万な戯 れごとにしか聞こえなかったのは当然であった」。  顧みて、私たちの教会の屋根の上には十字架が立っています。私は12年前に私たちがこの 新しい礼拝堂を主にお献げしたとき、この教会の塔の上に十字架が立てられた日のことを鮮や かに思い出します。川崎のアルミ鋳物成型工場で作られた十字架です。縦横の比率(プロポー ション)まで厳密に計算されています。下から見ると小さく見えますが、高さ2メートル重さ 約60キロあります。その十字架を鋳物工場の人が肩に背負ってこの坂道を登ってきた。私は 思わず「クレネ人シモンが来た」と言いました。重い十字架を背負って登って来るその姿で、 ゴルゴタに向かわれる主の十字架を代わって背負わされたクレネ人シモンを思い起こしたの でした。  とにもかくにも、私たちの教会は十字架を重んじます。もちろん目に見える十字架のことだ けではありません。何よりも十字架の福音を重んじ、ただそこにのみ私たちはこの世界の本当 の救い、私たち全ての者に対する主なる神の極みなき愛の御業を見るのです。最近では葉山に も十字架を掲げる建物がふえてきました。むろん教会ではありません。結婚式場です。私たち の仲間である東海連合長老会のある教会が、近所の結婚式場とよく混同されると嘆いていまし た。どうも結婚式場のほうが十字架が大きいらしい。そこの牧師先生は苦笑して私に語られま した。「はじめて来る人たちは、まずその結婚式場が教会だと思い、それから間違ったとわか って改めて教会を探してきます」。私たちはそこでも改めて顧みずにはおれません。  十字架のいわば“本家本元”であるキリストを信ずる私たちが、ではいつでも健やかに十字 架の福音のみに堅く立ち続けているかどうか。結婚式場の十字架は単なる看板にすぎません。 では私たちの教会の十字架はどうなのか。ともすれば私たちもまたそれを“単なる看板”にし てしまっていることは「ない」と言い切れるのか。使徒パウロは、世間の人々が重んずる知恵 や、人当たりのよい言葉ばかりを求めるコリントの人々に対して「わたしはイエス・キリスト、 しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心 した」と申しました。文語訳では「心に定めたり」です。継続する宣教の堅い決意です。「そ れは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」と 言うのです。その「継続する宣教の堅い決意」を、いつも健やかに共有している私たちであり えているかが問われています。  私の好きな作家にドイツのアルプレヒト・ゲースという人がいます。残念ながら作品はほと んど日本語に訳されていません。実はゲースは牧師でありまして、第二次世界大戦中はカー ル・バルトやボンヘッファーといったドイツ告白教会の神学者たちと共にナチスのユダヤ人迫 害に対して果敢な信仰の戦いを挑んだ人です。この人がある本の中で、キリストの十字架につ いてこういうことを語っています。「われらの主はまことに『十字架につけられ』たもうた。 この事実は何を意味するのだろうか。それは、私たちは、私たち自身が知っているよりも、遥 かに多く救われているということである」。これはいくぶん訳しにくい言葉ですが、その意味 はこういうことです。「私たちは、自分が救われていると感じているよりも、もっと遥かに多 く、遥かに確かに、十字架の主によって救われているのだ」。  私たちは、自分がキリストによって救われているという事実を、いろいろな方法によって確 かめようとします。たとえば「自分はキリストを信じる以前には、喜びがなかった。しかし今 はこういう喜びがある」。あるいは「自分には以前には平安がなかったけれども、教会に連な るようになってからは、こういう平安が与えられた」。またあるいは「人生の戦いがどんなに 厳しいときにも、キリストは私の救い主でいて下さる。そのこと自体が大きな喜びだ」。表現 の多少の差こそあれ、私たちはこうした「救いの確信」を得ようとしているのではないでしょ うか。しかし、ともすると私たちは「救いの確信」を自分の内側に求めています。そして、自 分に対して失望したり絶望したりするのです。「救いの実感がない」と嘆くのです。それを無 理にでも得ようとするあまり、自分には信仰がないのだと自分で決めつけたりしてしまうので す。  「教理を学ぶ会」でもよくお話しすることですが、聖書には「信心」という言葉はほとんど 出てきません。テモテ書やテトス書には少しだけ「信心」という言葉が出てきますが、それは みな「教会生活」という意味であり、私たちが普通に考える「信じる心の熱心さ度合い」とい うことではありません。そういう言葉は聖書には無いのです。そうではなく、当然ですが、聖 書に出てくるのは「信仰」という言葉です。信仰とは「信じて仰ぐ」と書くのです。そのよう に、私たちは救いの確かさを私たち自身の中にではなく、仰がれるべきかた、すなわち十字架 の主イエス・キリストにのみ見出すのです。そのことをアルプレヒト・ゲースは「私たちは、 私たち自身が知っているよりも、遥かに多く救われている」と言い表しているのです。  私たちが自分を顧みて、自分の救いはこれこれ、これぐらいだろうと判断するのはみんな間 違いです。そんなものは十字架の主の救いの確かさの前に吹き飛んでしまう。もっと大きくも っと遥かに確かに、私たちは、私のために十字架におかかりになった主によって救われている のです。教会はその目に見える証拠です。この教会のかしらなる十字架の主のみを仰いで生き ることが「信仰」です。言い換えるなら、私たちはいつでも「十字架の主」を過小評価してい るのです。実際に私たちに与えられている救いよりも、遥かに小さな救いだと決めつけている のです。そして自分の信仰の生活を狭苦しいものにしてしまっているのです。私たちはもっと 大胆に、十字架の主キリストにのみ拠り頼む者にならねばなりません。  使徒パウロは、今朝のガラテヤ書第3章11節以下の御言葉の中で、繰り返し「のろい」と いう言葉を用いています。この「呪い」とは、私たちの罪の結果を現わします。私たち自身の 中にこそ「呪い」は存在するのです。「律法ののろい」とあっても、ユダヤ教の律法が私たち を呪う、というのではなく、何よりも私たち自身が罪によって呪いの中に留まっているのです。 ですからその「呪い」とは神との関係を失うことです。私たちの身体の中には血液が流れてい ます。もし血管がどこかで詰まって血流が止まれば、それより先の部分は死んで(壊死して) しまいます。それと同じように、造り主なる神との関係が罪によって阻害されるとき、私たち の存在は根底から生命を失い、絶望と虚無に陥らざるをえないのです。それこそ今日の世界が 置かれている情況です。人間にとって最も根本的な神との関係が修復されずして、他のいかな る手段も人間の救いとはなりえないのです。  それならば、十字架の主が私たちのためになして下さったことは、今朝の御言葉の3章13 節にあるとおりなのです。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを 律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に『木にかけられる者は、すべてのろわれる』 と書いてある」。この後半の括弧の中の言葉は、申命記21章23節の言葉です。この「木」と いうのは十字架のことです。キリストが「木」すなわち「十字架」にかかられたのは、私たち の罪の結果である「のろい」を、ご自分の身に引き受けて下さるためであった。私たちは何を 引き受けると言っても「のろい」を引き受けることほど嫌なことはありません。しかし主は、 ご自分は何の罪もないかたであるにもかかわらず、罪人なる私たちの「のろい」を全て引き受 けて下さった。神なき者の絶望の死を、十字架の主のみがことごとく担い取って下さったので す。  主は私たちの滅びを、ご自身の死によって覆い包み、祝福の生命に変えて下さるために、十 字架の滅びを引き受けて下さったのです。それほどの限りなき救いを私たちは与えられている のです。そのことを私たちはいつも、わきまえているでしょうか。いつも健やかに十字架の主 のみを仰いでいるでしょうか。ご自身の復活の身体である教会に連ならせて下さった主の恵み を、全てにまさる確かな救いとして感謝し喜んでいるでしょうか。ルターは「のろい」という 言葉を「遺棄」(神に捨てられること)と訳しました。それならば、神との交わりの内に留ま りえない「のろい」そのものである私たちを、神との永遠の交わりの内に生かしめ、永遠の生 命を与えて下さるために、主は私たちの「のろい」を身に負うて、滅びとしての十字架の死を 死んで下さったのです。  私たち人間には誰にでも、少しは人に誇れるものがあります。人に見せても恥ずかしくない 部分があります。そのような、私たちの内にある僅かばかりの清さを担保として主は私たちを 救って下さったのではない。そうではなく「呪い」としか呼びようがないほどの、どうにもな らないほど醜く、しぶとく、絶望的な私たちの罪のあるがままを、ことごとく十字架に担い取 って下さったのです。私たちの測り知れぬ罪のどん底において、主は私たちの存在そのものを 贖い取って下さったのです。それこそ、私たちが「自分の救いはこれぐらいだろう」と判断す る、それよりも遥かに大きく確かな救いを、主は十字架において与えて下さったのです。  まさにこのキリストの恵みのゆえに、最後の14節に驚くべき祝福が告げられています。「そ れは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって、異邦人に及ぶためであり、約 束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである」。「アブラハム」はイスラエル の父であり、異邦人には無関係だと考えられていました。しかしそうではない。いまやキリス トが全ての人のために十字架に死なれたのであるから、キリストを信ずる全ての人がアブラハ ムの受けた祝福の契約を受け継ぐのだとパウロは言うのです。「アブラハムの神、イサクの神、 ヤコブの神」その名の次に、私たち自身の名が加えられるのです。「哲学者の神にあらず」と パスカルは言いました。私たちの救い主は永遠に変わることのない十字架の主なるイエス・キ リストのみです。この主のみを私たちはキリスト(救い主)と告白し、宣べ伝え、証しをなし、 ここに礼拝の民とされているのです。