説    教    イザヤ書25章6〜9節  ヨハネ福音書20章26〜29節

「トマスの信仰告白」

2012・09・09(説教12371447)  主イエス・キリストがよみがえられたとき、弟子の中でトマスただ一人がそこに居りません でした。しかし今朝の御言葉であるヨハネ福音書20章26節を見ますと「八日ののち、イエス の弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた」と記されています。この「八日ののち」 というのは、主が復活された日曜日の次の日曜日のことです。つまり今日のこの出来事は、最 初のイースター(復活日)のすぐあとの日曜日の出来事なのです。  トマスはそのあいだの一週間を、どこでどのようにして過ごしていたのでしょうか。おそら く彼は、主イエスの十字架の出来事に打ちのめされ、自分の行く末に絶望していたのではなか ったでしょうか。主イエスの十字架の死を前にして、それがイザヤの告げた「世を救うまこと の神の子・キリスト」であると信じられる者はおそらく一人もいなかったからです。十字架は 神に呪われた者の永遠の滅びの徴でした。このことはトマスの魂を粉々に打ち砕いたのです。 大きな恐れがトマスの心を捕らえ、絶望させていたことは疑う余地はありません。  トマスにしてみれば、主イエスを裏切ったのが、なんと仲間の一人イスカリオテのユダであ ったということも大きな衝撃でした。何よりもトマスは自分自身を許せなかったのです。自分 もまた十字架の主イエスを見捨てて逃げた者の一人だったからです。そして残された十一人は 全く無力です。いまや世界中でキリストの弟子たちほど惨めで無力な存在はないとトマスは思 いました。他の弟子たちが「戸を」全て閉ざして一室に閉じ籠っていたのもその惨めさと恐れ ゆえにでした。  そこにトマスは帰ってきた。帰って来てみると弟子たちが興奮している。彼らは口々にトマ スに「主イエスが復活された」「主がおいでになった」と言うのです。しかしトマスは冷静で した。いや私はそんなことは信じない。君たちもあの十字架を見たではないか。自分は実際に 主の御傷にこの腕をさし入れ、またその掌の釘跡に指をさし入れてみなくては決して信じない と言い張ったのでした。正直と言えば正直ですが、乱暴と言えばこれほど乱暴な言葉もありま せん。ともかくそういうことをトマスは申しました。  そして「八日目」が、次の安息日の朝が来たのです。復活の主イエスは再び弟子たちのもと に現れたまい、トマスも含めて弟子たち皆が集まっているところに入っておいでになった。26 節には「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言わ れた」とあります。主は「安かれ」と弟子たちに限りない「平安」を告げられました。恐れし かないところ、絶望の支配するところ、私たちの惨めな無力さの中に、主は変わらぬご自身の 「平安」を与えて下さるのです。この「平安」とはヘブライ語で「主なる神の生命に満たされ ること」を意味する“シャローム”という言葉です。主はご自身の生命による真の救いを私た ちに与えて下さいます。しかも主イエスは今度はトマスただ一人に向き合われ、そして言われ ました。今朝の27節です。「(トマスよ)あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。 手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になり なさい」。  主イエスは、私たちひとり一人にかけがえのない「あなた」としてのみ御声をかけて下さい ます。この場面で申しますなら、いちばん信仰の弱いトマス、最も大きな恐れに取り付かれ、 絶望していたトマスに、主はまっすぐに向き合って下さるのです。復活の主は、人間の強さと 確信が満ち溢れたところではなく、私たちが「自分にはなんの強さもない」「希望も明日もな い」と嘆き悲しむ、まさにその場所に、その人のもとに来て下さるのです。しかし、このとき の主イエスの御心はどんなに激しかったことでしょうか。「戸はみな閉ざされていたが」と26 節にありますが、私たちは主イエスは「神の子」だから、窓も戸も全て閉ざされた部屋にすっ とお入りになれたのだ、などと安易に考えてはなりません。これは主イエスが、どんなに私た ちを限りない愛をもって愛して下さったかを示しています。どんなものが妨げようとも、復活 の主イエスの愛の御業を妨げることはできないのです。  私たちにいちばん身近なことで申しますなら、私たちのいちばん弱い気持、私たちのいちば ん信じようとしない思い、いつまで経っても信仰へと進まない鈍い心、そういうもので自分の 魂を鎧ってしまっている私たち、そういう疑いの部屋の中に閉じ籠もり自分の中に蹲っている、 そこに小さな安心を見つけて「自分の人生はこれで良いのだ」と自己満足している、そういう 私たちの堅く閉ざされた「疑い」という名の「戸」を主イエスは打ち破り、私たちの中にお立 ち下さるのです。そこで「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰せになるの です。  トマスは、この復活の主にお目にかかって、もう主イエスに触れる必要はありませんでした。 むしろトマスは主イエスの御前に喜びをもってひざまずいたのです。彼の口から出た言葉は 「わが主よ、わが神よ」という信仰告白でした。私たち人間は愚かなものですから、主イエス が復活したというのなら、何か具体的な証拠が欲しいと言うのです。今日の科学的な常識、あ るいは医学的な常識、人間一般の常識に照らし合わせて納得のゆく説明が欲しいと思うのです。 けれども復活の出来事は教会の存在にまさる証拠はないのです。更に言うなら、この礼拝がい ま献げられている、私たちが礼拝者とされている、それ自体が主の復活の最も確かな証拠なの です。教会は十字架と復活の主の御身体です。復活のないところにどうして身体があるでしょ うか。  使徒行伝26章を見ますと、パウロがアグリッパ王に対して弁明している説教があります。 その8節でパウロは「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信 じられないことと思えるのでしょうか」と言っています。実に堂々たる説教です。神が死人を 甦らせたまわないなら、そういうかたがまことの神でないなら、私たち人間には決して「救い」 はないと言うのです。この「死人」とは、ただ肉体において死んだ者のことだけではなく、罪 によって死んでいた全ての人間をさしています。神は御子イエスの復活によって、罪に支配さ れていた私たちに永遠の生命(まことの神との永遠の交わり)を与えて下さったのです。ボン ヘッファーという、ナチス・ドイツの時代に殉教した優れたドイツの神学者がこういうことを 語っています。「トマスは、主イエスに触れようとしなかった。それは、トマスは、もはや、 自分の手も、自分の目も、信じなかったからである。トマスはただ、イエス・キリストだけを 信じたのである」。トマスは復活の主の前に、もはや自分の手の確かさも、自分の目の確かさ も、虚しいもに過ぎないと知ったのです。いま自分に相対していて下さる復活の主こそ、どん なに確かな救いであるかを知ったのです。  私たちは、自分の日常生活の中でそういう経験をするのではないか。どうにもならない苦し みや悲しみに出会うたびに、私たちは今まで確かだと思っていた自分が、実はどんなに矛盾と 弱さと不確かさに満ちたものであるかを思い知らされるからです。拠り頼んでいたものが、実 はどんなに虚しいかを知るのです。信じていたものに裏切られる。本物だと思っていたものが 実はそうではなかった。この病気になって自分の本当の弱さを知った。この失敗をして自分の 不確かさに気付いた。そういう経験を、私たちは数え切れないほどするのです。  言い換えれるなら、私たちの手で確かめたものも、目で確かめたものも、なにひとつとして 確実なものはないのです。だから聖書がこの安息日に、私たちに語っていることは、そのある がままの不確かな世界、人間の存在と人生全体が「あなたはキリストによっていま、この安息 日において、確かな祝福を、救いを与えられているのだ」という福音の宣言なのです。アグリ ッパに対するパウロの問いは、まさに私たち一人びとりへの問いなのです。あなたはどちらを 選ぶのかと問われています。ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスはこうお語りになってお られます。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聴いて戸 を開けるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするで あろう」。この「食を共にする」とは、神の生命に与る者とされる、ということです。御国の 祝宴に連なる者とされるということです。  トマスが他の弟子たちのもとに、信ずる者たちのところに帰ってきたということは、言い換 えるなら「教会に帰ってきた」ことです。そこでは「わが主よ、わが神よ」という信仰告白と 共に礼拝が献げられるのです。私たちがここに礼拝を献げていることは、復活の主にお目にか かっていることです。復活の主による救いの確かさの中に、自分自身をも、自分の周りの人々 をも、そして世界をも、新しく受け取る者とされているのです。このことについて第一ペテロ 書1章8節に大切な御言葉があります。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはない が、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉に尽くせない、輝きに満ち た喜びにあふれている」。これは、やはり弟子の一人であったペテロが、教会におけるキリス トの現臨の確かさを驚きをもって告白している言葉です。その「輝きに満ちた喜び」の中に私 たちも入れられているのです。  「わが主よ、わが神よ」というトマスの告白は、それ以降の教会のあらゆる信仰告白の原型 になりました。もちろん私たちもこのトマスの告白に連なっているのです。何よりもトマスは これを「主よ、信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(主よ、われ信ず、信なきわ れを助けたまえ)との祈りをもって告白しています。いちばん弱く疑い深かったトマスが、世々 の教会を代表する信仰告白の原点となったのです。私たちはここに神のなさる驚くべき奇跡を 観るのです。これは聖霊なる神の御業です。そして教会は聖霊なる神が全世界に対して建てら れた救いの宮なのです。  トマスはこのあと、弟子たちの中でいちばん遠く、インドまで伝道したと言われています。 今日でもインドにはトマスの名を冠した教会(使徒トマス教会)が残っています。インドで教 会と言えば「トマスの教会」と呼ばれるほどであります。いちばん弱かった人間が、いちばん 主に用いられたのです。復活の主はいつでも、弱い者、躓く者、確かさを求めて彷徨う者、不 安なところ、絶望する心、まさにそのような人のもとに現れて下さり、平安を告げ、限りない 救いと生命を約束して下さるのです。