説     教   詩篇139篇7〜10節  第一ペテロ書3章18〜22節

「主は陰府に降りて」

2012・09・02(説教12361446)  もし使徒信条の言葉をばらばらに解きほぐし、その中から私たちが最も心を惹かれる言葉を 選ぶとしたらどうでしょうか。これは想像ですが、おそらく少なからぬ人が選ぶのは、主イエ ス・キリストが「陰府に降りたもうた」という告白ではないかと思うのです。しかしこの「(キ リストが)陰府に降りたもうた」という告白を使徒信条の中に入れるにあたっては、西暦4世 紀の古カトリック教会の時代に最後まで議論がありました。その名残とも言えるのでしょうが、 今でも私たちが目にする使徒信条の日本語訳、たとえば昭和5年に改訂された1890年「日本 基督教会信仰の告白」の中の使徒信条では、この部分だけが括弧で括られています。  信徒の人たちは案外こういうことをとても気にします。「どうして使徒信条の『陰府にくだ り』という部分にだけ括弧が付いているのですか?」。私は教会員から何度この質問を受けた かしれません。そのたびに「これは今から1600年以上も前に疑問視されていたので…」と言 っても意味のないことです。きちんと使徒信条の中に入っていて、しかも括弧に括られている のでは、信徒の人たちが疑問を抱くのは当然です。1890年(明治23年)の「日本基督教会信 仰の告白」の昭和5年の改定版に括弧があるのだからそのまま踏襲すべきという見解がありま す。しかしキリストが「陰府に降られた」という告白は非常に常用な信仰告白であり、括弧に 括るべきではないと思います。信仰告白は私たちの信仰の根幹に関わることです。言い換える なら、括弧つきの告白文で「あなたは殉教できますか?」ということです。  主イエス・キリストは私たちのために十字架に死なれ、私たちを罪から救うために永遠の贖 いを成し遂げて下さいました。いま私たちは聖霊降臨節の主日礼拝を献げています。聖霊降臨 節とは、最初のキリストの来臨(クリスマス)とやがて来たるキリストの来臨(再臨)との間 の「聖霊の時代」(教会の時代)の私たちの信仰の歩みを意味しています。それはキリストの 「十字架の死と葬りと復活と昇天」そして「再び世に来たりたもう主のご支配」を深く覚えつ つ、礼拝中心の信仰生活に励む時です。その恵みを知れば知るほど、私たちはやがて自分の身 にも確実に起こる「死と葬り」という事柄においても、なおそこでまずキリストご自身が「死 にて葬られ」た事実によりて私たちのもとに降って来て下さったこと。死の完成としての「葬 り」の彼方にさえ主は変わらぬ贖い主であられることを知るのではないでしょうか。ここに私 たちは「罪と死に勝利されたキリスト」による確かな慰めと救いを見いだすのです。  ところが、続いてキリストが「陰府にくだりて」と聴くとき、私たちにはいささか混乱が生 じるのではないか。「死と葬り」において私たちにぐっと近づいて下さった主が、また離れて 行ってしまわれるような思いがするのです。主イエスはまたもや私たちの思いを超えたところ に行ってしまわれた。少なくとも私たちは「陰府」という言葉が自分にとって「わかりやすい」 とは思えないからです。下手をすれば「この部分が括弧で括られたのは当然だ」などと感じか ねない私たちなのです。そもそも「陰府」という言葉じたい日常会話の中では用いられません。 せいぜい日本神話(古事記)の中でイザナギノミコトの「陰府の比良坂参り」を読むぐらいで す。だからこそ私たちに御言葉の正しい理解が求められています。外国語では(英語やドイツ 語などでは)「陰府」とははっきりと「地獄」と訳されています。だから使徒信条の告白はよ り激烈なものになります。「(キリストは)地獄に降りたもうて…」となるのです。まさしく 主イエスは、私たちを地獄(測り知れない罪と滅び)から救うために、みずから地獄のどん底 にまで降りたもうた救い主なのです。  もともと「陰府」を現すヘブライ語の原語「シェオール」は、神に呪われ捨てられた人間の 行き着くところと考えられていました。つまり救いの余地の全くない場所のことでした。もは やそこには神のご配慮も神の御手さえ届かず、永遠の暗黒と絶望だけが支配する世界、それが 「シェオール」(陰府)です。だから「地獄」と訳されたのは当然なのです。しかし私たちは 「地獄」と聞くと抵抗を感じるのです。それは特別な悪人の行く所だと思うからです。自分と は無関係だという思いがどこかにあるからです。聖書が語る「シェオール」(陰府)は私たち と無関係な場所ではありません。むしろ福音の光によって示されることは、私たちは全て例外 なく生ける聖なる神の御前に罪ある存在であることです。譬えて言うなら、私たち人間は「罪」 という泥沼の中で辛うじて人生を立ち上げているかに見える存在である。もがけばもがくほど 私たちは自分の重みによって深みに落ちてゆく。やがて滅びが私たちを覆ってしまう。そこか ら自力で救われる余地はありません。「シェオール」(陰府)とは「自力で救われる余地なき滅 び」を意味するのです。  まさにパウロの言う「ああわれ悩める人なるかな」です。だからそれは特別な場所でも何で もなく「陰府」はいつも私たちのただ中にあるのです。かつてわが国の武田泰淳という作家が 「地獄の地獄性は測り知ることができない。測り知りえないからこそ、それは地獄なのである」 と申しました。私たちは自分の罪をさえ知りえぬほどに暗黒に閉ざされている存在です。地獄 の地獄性は測り知ることができないのです。いっさいの人間の希望は、科学や哲学の営みも、 そこで終止符が打たれます。「この泥沼から自分を救う余地は皆無である」という現実の前に 果てしなき虚無だけが残るのです。まさにそこでこそ、その罪の泥沼にはまっている私たちを、 外から捉えて、掴んで、引き上げて下さるかたがおられる。否、このかたは「陰府に降りて」 泥沼の底に沈んで、下から私たちを持ち上げて救って下さり、ご自分は死んで下さった。そこ でいっさいの状況は変わって来るのです。それこそ人間の不可能という極限を超えて、神から もたらされる救いが十字架のキリストによる唯一の救です。いっさいの虚無はそこで終わりを 告げるのです。言い換えるなら、私たちは神を見失っているのですが、神は私たちを見失いた まわない。たとえ私たちは神を捨てていても、神は決して私たちを捨てたまわない。この現実 が私たちの福音として世界に現われたところ、それこそキリストが「陰府にくだり」たもうた という事実であり信仰告白です。すなわち「地獄の地獄性」としか呼べない私たちの現実に対 する救いのおとずれなのです。  カール・バルトという神学者がある本の中でこのようなことを語っています。それは1933 年、ドイツにおいてナチスがドイツ国会中288名の議席を獲得して大勝利をおさめ、ヒトラー が政権を掌握した年のことです。バルトはそこに「神を見失った現代の底知れぬ虚無」とその 虚無が引き起こした政治的変化を見ました。しかしそこでこそバルトはこう語るのです「神は キリストにおいて陰府にまで降りたもうたという福音の真理の前に、第三帝国(ヒトラーの政 権)は完全に滅び去るであろう」。歴史はこのバルトの洞察こそ真理であることを示しました。 主イエス・キリストは私たちの測り知れぬ罪の虚無をさえ「陰府に降りたもうた」ことによっ て担い取って下さった救い主であられる。近代社会はニーチェの「神は死んだ」という叫びに よって始まりました。しかし事実は、神はキリストにおいて「神は死んだと叫ばねばならない、 その人間の陰府にまでも主は降りたもうた」のです。  この神の恵みの福音の前に、もはや私たちの虚無は力を持ちえません。むしろその虚無はキ リストの恵みと祝福が鳴り響く器となるのです。近代社会が「神は死んだ」と宣言するよりも 遥かに深く真実な意味で、神は御子イエスを死に渡したまい、陰府にまで降られたかたなので す。私たちの虚無(私たちの地獄性)は私たちの人生の主であることを失いました。いまや十 字架の主のみが唯一永遠の「主」となられたのです。ギターやヴァイオリンの中身は空虚です。 しかしその空虚な部分が旋律を鳴り響かせる空間となるように、まことの主が私たちの虚無性 の中に降って来て下さったからには、もはやその虚無は主が御言葉と復活の生命によって満た して下さり、恵みと祝福を鳴り響かせる場所に変えられたのです。罪に死んだ私たちを、主と 共なる喜びの生命に甦らせて下さるために、主は測り知れぬ地獄のどん底にまでお降り下さっ たのです。  そのような明確な信仰の告白からでしょう、スコットランド国教会、これは私たちと同じ改 革長老教会ですが、その礼拝式文にある使徒信条の訳では従来の「地獄」という訳に替えて「死」 という言葉そのものを用いています。「(主は)死の中にお降りになった」と訳すのです。それ は「死人」とも訳すことができる言葉です。「(主は)死人の中にお降りになった」と訳すこと ができる。何のためでしょうか、そこで「死人」を贖われるためです。陰府の支配に閉ざされ ていた死者のもとにさえ、主イエスは限りない生命を現して下さった、そこに私たちの計り知 れぬ慰めがあります。今日の新約聖書ペテロ第一の手紙3章18節以下では、主イエスが「陰 府に降られた」恵みを明確に言いあらわしています。特に私たちは19節に「こうして、彼は 獄に捕われている霊どものところに下ってゆき、宣べ伝えることをされた」とあることを聴き 取りたいのです。罪による滅びが全ての人を捕らえ支配する「陰府」すなわち完全な「死」そ のものの中に主イエスはみずから降って下さった。ここに主が十字架にかかりたもうてから甦 られるまでの「三日間の消息」があると理解することもできます。しかもそれは過去の出来事 などではなく、いまここにおける私たちに対する主イエスの救いの恵みなのです。主は生命の 御言葉を「陰府」に!「死者」に!宣べ伝えて下さった。あのラザロを御言葉によって墓から 甦らせられたように、私たちにも御言葉によって永遠の生命を与えて下さるのです。  このキリストが来られたからには、神の御手が届かぬ「陰府」はもはや存在しないのです。 このキリストが十字架にかかられたからには、神の御言葉が宣べ伝えられない「陰府」も存在 しないのです。神の恵みの御支配の及ばないいかなる場所もないのです。それこそ「ここも神 の御国なれば」という世界に私たちは生かしめられています。「死」はキリストの生命に呑み こまれた。滅ぶべき者が全き救いの喜びを受け継ぐ群れの枝とされているのです。それこそ 「(主は)陰府にお降りになった」という告白が告げる福音なのです。そして同じ第一ペテロ 書3章20節を見ると、そこに「これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、 神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである」とあります。私たち はここに改めて、自分がどんなにキリストの恵みを過小評価していたかを痛切に思い知らされ ます。私たちが常識で判断して、ここには救いはないだろうと考える、その場所に既に主のご 支配がある。私たちが勝手に「ここには主はおられない」と判断するその場所に、主はすでに 降って来ておられる。私たちは不信仰を恥じ入るばかりです。「主よ、われ信ず、信なきわれ を助けたまえ」と祈らずにおれないのです。  最後に、この御言葉は私たち日本のキリスト者にとって、こよなく大きな慰めの音信です。 なぜなら私たちは誰もが思う。私たちは罪深きが故に率先して主の御救いに与った。ではつい に生前、キリストを信じないまま死んだ私たちの愛する者たちはどうなるのか。この問いを抱 かぬ日本人は一人もおりますまい。私たちはこの第一ペテロ書3章19節20節を与えられてい ます。ここにはっきりと告げられていることは、主なる神は私たちが愛する者を私たちの愛に 遥かにまさって愛し、その救いのために私たちの思いを超えた備えをしていて下さることです。 その主なる神のご支配とご配慮を私たちは信ずるものであります。それは、信仰がなくても救 われるとか、洗礼を受けなくても救いはあるのだ、などということではありません。そうでは なく、信仰を持たずして死んだ愛する者たちのことを、私たちが心配するよりもっと遥かに確 かに、主なる神みずからがキリストにおいてご配剤して下さることを私たちは信ずるのです。 それを私たちは少しも疑うことはできない。そこにも主か「陰府にくだり」たもうた福音のも うひとつの確かな祝福と慰めがあるのです。