説    教    イザヤ書43章10節  マルコ福音書3章13〜19a節

「主の弟子たる理由」

2012・08・26(説教12351445)  京都に竜安寺という、枯山水の庭で有名な臨済宗の寺があります。その石庭には15個の石 が配されているのですが、実はその石は特別なものでも何でもない、京都周辺の山に普通にあ る鴨川石というありふれた石にすぎないのです。しかしこの普通の石が選ばれて竜安寺の枯山 水に置かれたとき、それは特別な価値を持つものとなりました。石でさえそうであるなら、ま してや人間においてはなおさらでありましょう。私たちの人生は“神によって招かれ(選ばれ た)人生である”という事実にまさる祝福はないのです。だから古代教会の時代以来、私たち の教会を「主に招かれたる者たちの集い」を意味する“エクレシア”という言葉で現しました。 私たちは教会に連なることにより、生きるにも死ぬにも十字架のキリストに堅く結ばれた、か けがえのない唯一絶対の存在(汝)とならせて戴いているのです。礼拝を中心として生きる私 たちの生活は、いつどこにあっても、神によって選ばれ招かれた“遣わされた者”としての生 活です。その大きな恵みを私たちは今朝のマルコ伝3章13節以下の御言葉に知ることができ るのです。  主イエス・キリストに関する噂があまねく世に伝わるにつれて、ユダヤやガリラヤ地方だけ ではなく遠く異邦の国々からも大勢の群集が主イエスのもとに押し寄せるようになりました。 マタイ伝9章36節によれば、主はこれらの群集が「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒 れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」と記されています。そしてペテロ、 アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人を顧みたもうて、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、 収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」と勧告され たのでした。なによりも、それは主イエスご自身の祈りでした。なぜならそのすぐ後に、今朝 のマルコ伝では3章13節以下、マタイ伝では10章1節以下において、主イエスみずから十二 人の弟子たちをお選びになった(お招きになった)出来事が告げているからです。しかも同じ 御言葉を伝えたルカ伝6章12節以下を見ますと「このころ、イエスは祈るために山へ行き、 夜を徹して神に祈られた」と記されています。この徹夜の祈りののち、夜が明けると同時に、 主は弟子たちを呼び寄せられ、その中から十二名をお選びになって「これに使徒という名をお 与えになった」のでした。それならば、今朝の13節にあるように、主イエスが山に登られた のはまさしく「夜を徹して」祈りの時を過ごされるためでした。私たちは主イエスのこの“徹 夜の祈り”があって選ばれたことを忘れてはならないのです。  ところで、私たちは普通、主イエスほどのかたが弟子を選ばれるのなら、大勢の群集の中か らそれこそ、他に抜きん出て能力のある人、立派な非の打ちどころのない人を選ぶのが当然で あろうと考えます。むしろそういう人だから主イエスの選抜試験を突破できるのだと考えるの です。しかし事実は全く違いました。むしろ主イエスの献げたもうた「徹夜の祈り」こそ、弟 子たちの選びのただひとつの理由であり、使徒たるべき招きの始まりであったのです。だから 私たちは、今朝の13節の「さて、イエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せ られた」という、この一見単純な御言葉の中に、いかに測り知れぬ主イエスの熱き祈りが、そ して恵みの選びが輝いているかを読み落としてはならないのです。そもそも主イエスの弟子と された十二名は、いかなる理由で主イエスの選び(御招き)にあずかりえたのでしょうか。そ れこそ実は「みこころにかなった者たち」という今朝の13節の御言葉の意味を知ることです。 つまり主イエスの「みこころにかなう」者たちとは、いったいどのような者たちなのでしょう か。  もし私たちが真正面から、あるがままに、主なる神の御前に「相応しさ」を問われるなら、 神の御前に立ちうる者(招きに相応しい者)は一人もいないでありましょう。あの預言者イザ ヤでさえ、聖なる神の御臨在の一端に触れただけで「ああ、われ滅びるばかりなり」と自分が 全く神の選びに相応しくない者であることを告白したのです。まして私たちはなおさらではな いでしょうか。私たちの社会はある意味でメンバーシップを求める社会です。社会人であるこ とはメンバーシップ(肩書き)と共に生きることです。そこには資格と条件が伴ないます。も しその人に相応しい資格と条件がなければ、その人に社会は「肩書き」を与えることはありま せん。そうした選別方法の価値観というものが私たちの社会を隅々まで支配しています。私た ちもそれを当然のように思っているのです。  しかし主イエスは、そうではありませんでした。というより、もし「主イエスの弟子たる理 由」が私たちの側に求められる資格や条件であったなら、私たちは誰一人として主の弟子とは なりえなかったはずです。何よりもそれは十二弟子のことを見れば一目瞭然です。今朝の御言 葉の16節以下に十二弟子たちのリストが出てきます。まず「シモン」と呼ばれたペテロとそ の兄弟「アンデレ」、そして同じくガリラヤのカペナウム出身の「ヤコブ」と「ヨハネ」の兄 弟について見てみましょう。彼らはこの世の尺度で言うなら、本当に普通の庶民の一人にすぎ ませんでした。彼らの職業はガリラヤ湖の漁師であり、彼らの友人であった「ピリポ」と「バ ルトロマイ」も同じくガリラヤ湖の漁師でした。言い換えるなら、魚を獲ること以外には肩書 きも資格も学問も地位も何もなかった人たちです。特に最初の4人は「ボアネルゲ」(雷の子) という渾名で呼ばれていた。騒々しく声の大きな人たちであったはずです。  十二弟子の中で多少とも学問があったと思しき人は「マタイ」です。しかしこのマタイはユ ダヤ人全体から蛇蝎のごとく嫌われ、罪人として蔑まれていた取税人でした。当時のユダヤは ローマの植民地でしたが、宗主国ローマのために人頭税を徴収する役目をしていたのが取税人 です。だから「取税人」はローマの手先である売国奴として蔑まれていました。そうかと思え ば主イエスは同じ十二弟子の中に、そうしたマタイのような売国奴を暗殺することを使命とし ていた熱心党の「シモン」を選んでおられます。同じ十二弟子の中に不倶戴天の敵どうしがい たのです。もし主イエスがチームワークを「弟子たるの理由」とされるなら、決してこのよう な人選をなさらなかったはずです。  それでは、残りの4人はどうでしょうか?。「トマス」「アルパヨの子ヤコブ」「タダイ」そ して「イスカリオテのユダ」です。これらの人たちも同じように、貧しく名もない庶民の出身 でした。地位も身分も財産も業績もなく、律法の専門家でもなければ祭司でもなく、要するに 誇りとなすべきものは何ひとつ無かった人たちです。それでは主イエスは彼らを、他の人々よ りも「性格が良かったから」「人柄に好感が持てたから」お選びになったのでしょうか?…私 たち日本人には、聖徳太子の十七条の憲法以来「和を以って尊しとなす」という価値観があり ます。対立を好まず和を重んじます。たとえ個人的に見れば能力や資格がなくても、グループ が強調して力を合わせるとき、思わぬ能力を発揮することがある。しかし、それもまた違うと 言わざるをえないのです。たとえばペテロなど、どんなに多くの性格的な欠点を持ち、調和性 を欠き、失敗の連続であったことか。他の弟子たちも同様でした。彼らはしばしば些細なこと で対立し争っています。出世を目論んで抜け駆けのようなことまでしています。それこそ「ボ アネルゲ」(雷の子)と呼ばれた所以です。そこには協調性など微塵も見られないのです。  それならば、主イエスが十二弟子をお選びになった理由として、考えられる最後の可能性と して、このような基準があるのではないか。たとえ弟子たちに学問や能力がなく、人格の美点 も協調性もなかったとしても、彼らには主イエスに対する「忠誠心」だけはあったのではない か…。ほかに何の取柄がなくても、主イエスに対する燃えるがごとき忠誠心があったればこそ、 彼らは主イエスの選抜試験を通過することができたのではないでしょうか?。しかし実はこの 最後の問いさえも、私たちは否定するほかはないのです。と申しますのは、弟子たちの筆頭格 であったペテロでさえ、十字架を目前にして主イエスの御名を3度も拒んだのでした。「たと えあなたと一緒に死なねばならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」 と誓った他の弟子たちも同じように主を裏切って逃げ去ったのです。いや、なによりもこの十 二人の中に「イスカリオテのユダ」の名があります。主イエスを裏切ったユダの罪は、他の弟 子たちにも共通したものであり、それは同時に、私たち自身の罪であります。このように考え ますとき、私たちは、主イエスの「みこころにかなう」いかなる外的な条件も、弟子たちの中 には見出せないと結論せざるをえないのです。  それでは、今朝の御言葉に告げられている「みここにかなう」とはどういうことなのでしょ うか?。私たちはここで改めて13節の御言葉を深く心に留めたい。「さてイエスは山に登り、 みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた」。これはただ、私た ち相応しからぬ者たち(神の御前に立ちえざる者たち)に対するキリストの限りない無条件の 「選びの恵み」だけを語っているのです。私たちに対する主の測り知れない愛と恵みだけを告 げているのです。ただそれだけが、キリストの「選びの恵み」だけが、私たちを「相応しい者」 「みこころにかなった者」として下さったのです。それだけが私たちが「主の弟子たるの理由」 なのです。それ以外のいかなる理由もないのです。そこでは、私たちの側の条件や資格は何ひ とつ問われていません。私たちがキリストの「選びの恵み」にあずかり、主の御身体なる教会 に連なり、御国の民とされたのは、ただキリストの限りない選びの恵みによるのです。  私たちは、パウロが語るように「義とされえぬ罪人」です。私たちの心の中にこそイスカリ オテのユダが存在するのです。それならば、その私たちの中のユダをも含めて、キリストは限 りない「選びの恵み」という唯一の理由によって、十字架の贖いの恵みによって、私たちをあ るがままに選び召して弟子として下さったのです。主を裏切り十字架につけた私たちの罪を、 その呪いもろともに、ことごとく十字架に担い取って下さったのです。その十字架の真実によ って、私たちは選ばれ招かれて、ここに主の御栄えのみを現わすまことの教会(エクレシア) を形成しているのです。そこにのみ、主が言われる「みこころにかなった者」が存在するので す。私たちはただキリストの義に生かされた者たちです。  この無上の恵みを思うとき、私たちは限りない感謝と讃美を御前に献げるほかはありません。 全く相応しからぬ私たちをあるがままに「みこころにかなう者」となして下さった主の真実に、 私たちは感謝と喜びをもって礼拝者たる歩みを貫き、主の義を纏うた僕として、ただ信仰によ る従順の歩みを献げまつる者たちになりたいと思います。十字架の主イエス・キリストを、永 遠のわが主・救い主と告白する信仰に生かされて、主の御身体なる教会に連なり、教会に仕え、 教会によって真の礼拝者として、私たちの全存在を御前に献げる歩みをなしてゆきたいもので す。  主が弟子たちを、私たちを、みもとにお招きになったのは、14節にあるように「彼らをご自 分のそばに置くため」でした。この「ご自分のそばに置くため」とは、私たちがそのあるがま まに、キリストにお仕えして生きる者となす光栄です。主は恵みによって選ばれた私たちを、 かけがえのない神の御国の働き人としてお立て下さいます。いま私たち一人びとりがキリスト の使徒(遣わされたる者)とされているのです。いま主が私たちを招きたまい、名を呼ばれ、 永遠に共にいて下さるのです。