説     教   詩篇46篇1節  マタイ福音書11章28〜32節

「われに来たれ」

2012・08・19(説教12341444)  誰でも重荷を負うことは嫌です。しかし私たちの人生には、しばしば私たちの意思に反し て様々な苦労が絶えません。人間関係や仕事上の苦労、健康の悩みや不安、家庭での問題や 近所付き合い、子育ての苦労もあります。親しい人に裏切られることもあります。数え上げ るならきりがないでしょう。そうした数々の重荷を負うことで、私たちはいつも“疲れ”を 感じています。現代社会を象徴する重要なキーワードは「疲れ」です。しかも現代は休むこ とすらままならぬ厳しい状況があります。休みも取れず重荷を負い、ただ「疲れ」だけが重 なってゆく現実の中で、しかもそこでこそ私たちは本当の「休み」を求めてやみません。現 代ほど人間が本当の「休み」を求めている時代はないのです。  主イエス・キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。 あなたがたを休ませてあげよう」と言われました。「重荷を負うて苦労して」いない人間は一 人もおりませんから、主イエスはここで全ての人々を無条件に招いておられるのです。しか し私たちはこの御言葉を表面だけで理解したような気になっていないでしょうか。続く29節 をよく見ますと「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と主は語っておられる。 ここに「くびき」という言葉が出て来るのです。「くびき」とは牛や馬に鋤を着けて田畑を耕 させるための道具です。そうしますと、それこそ「くびき」は「重荷」の象徴なのではない でしょうか。主イエスは「あなたがたを休ませてあげよう」と言われたはずです。それなの に一方では「わたしのくびきを負いなさい」と私たちに命じておられる。私たちはこのこと をどう理解したらよいのでしょうか。  私ごとですが、私は神学校に入る以前、農学校で学んでいました。その農学校に広い農場 がありまして、私はそこで「くびき」を馬に着けて鋤で田畑を耕す経験をしました。ボトム・ プラウという50キロ以上もある重い鋤を2頭の馬に曳かせるのです。この「くびき」の装着 の仕方が悪いと馬はすぐに疲れてしまいます。よくテレビなどで東南アジアあたりの農村で 家畜に「くびき」を着けて田畑を耕している光景を観ますが、あれは大変に高度な技術を要 する熟練の技なのです。  なぜ私たちの主イエスは、敢えて「くびき」という言葉をお用いになったのでしょうか。「わ たしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えら れる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と主は言われました。 この言葉を聴いた当時のユダヤの人々は体感的に理解できたのだと思います。「そうだ、主イ エスの言われるとおりだ。私たちの人生は重い“くびき”を曳いて歩むようなものだ。しか しこのかた(キリスト)の“くびき”は『負いやすく、軽い』のだ」。心からそう思ったに違 いないのです。つまり主イエスは私たちの人生を「くびき」を負って歩むようなものだと教 えておられるのです。そのとおりではないでしょうか。それこそ徳川家康の家訓ではありま せんが「人生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし」です。そこでこそ「くびき」という 言葉が現実味を帯びて参ります。私たちは心から願うことはないでしょうか。この「くびき」 さえなかったら自分の人生はどんなに楽だろうか。この「くびき」あるがために自分はどん なに苦労していることか。「くびき」とは“無いほうが良いもの”です。“あって欲しくない もの”です。私たちを拘束し、苦しめ、疲れさせるものが「くびき」である、私たちは例外 なくそう思っています。いま仮に「くびき」という言葉を「苦労」「失敗」「病気」「挫折」「悩 み」そういう言葉に置き換えてみればよくわかります。そのような「くびき」のない人生を、 私たちはどんなに願っていることでしょうか。  そういたしますと、いよいよ今朝のこのマタイ伝11章28節以下は実に驚くべき御言葉で す。主イエスは全ての人々に本当の「休み」(平安)を与えることを約束されました。しかも それは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」という招きとひとつのものなので す。私たちは「くびき」の無いところにこそ「休み」があると思っている。しかし主イエス は違うのです。本当の「休み」は「主イエスのくびき」を負うところにのみあるのだと主は 言われるのです。そしてこの「主イエスのくびき」とは何かと申しますと「主イエスと共に 担うくびき」です。つまり「わたしのくびき」と主が言われるとき、それは、主イエスが私 たちの人生の重荷(くびき)を共に担って下さる救いの恵みそのものへの招きなのです。そ の意味でこそ「くびき」は私たちの人生そのものの譬えなのです。主は私たちの人生と存在 そのものを担って下さる。それを「わたしのくびき」と言って下さるのです。  そういたしますと、もはやその「くびき」は私たちの表面的な「苦労」の問題だけではあ りません。主イエスの御眼には私たちの「疲れ」の本質が見えているのです。私たちのある がままの姿、偽らざる魂の状態が、主イエスの御目には白日のごとくに明らかです。それを 主は「養う者を失った羊の群れ」と言われました。全ての人間が神から離れた孤独の内にあ ることを、主イエスのまなざしだけが見抜いて下さいます。そこにこそ私たちの本当の「疲 れ」の原因がある。それこそ聖書が「罪」と呼ぶ全ての人間の魂の最奥に潜む「重荷」であ ることを主は見抜いておられるのです。私たちは神に限りなく愛された存在であるにもかか わらず、生命の源なる神から離れ神に叛き「養う者を失った羊の群れ」となっているのです。  今から1500年ほど前のアウグスティヌスという人は、まことの神を求めて迷い続けた自分 の若き日の経験を「告白」という本に綴りました。その最初にこう記されています「神よ、 あなたは私たちを、ただあなたに向けてお造りになった。それゆえ、あなたのもとに憩うま では、私たちは決して真の休みを得ることはない」。ここに「あなたに向けて」とあるのは「神 の愛に応えて生きる存在として」という意味です。愛なくして子供は育ちえません。子供に 不可欠絶対のものは親の愛です。それと同じように、私たちは神の愛の中でのみ、人間とし て本当に健やかな生命の祝福に生きうるのです。人間として最も不幸な「くびき」はこの「神 の愛」を知らずに生きることです。主なる神から離れ、叛いたままで、私たち人間にはいか なる真の「休み」もありえません。この世のどのような富や人間関係も、仕事も趣味も娯楽 も友人関係も、魂の孤独と疲れを癒す手立てにはなりえません。ただ主イエス・キリストの みが、失われていた私たちを見いだして父なる神のもとに回復して下さる唯一の救主なので す。この主のみが、私たちに永遠の生命を与えて下さり、私たちの「疲れ」を根底から癒し、 本当の「休み」を与えて下さるのです。現代社会のあらゆる問題と悲惨は、人間が「養う者 を失った羊の群れ」であることにあります。この根本問題の解決なくして私たちに真の幸い と「休み」はなく、世界にも本当の平和はありえないのです。  だからこそ、主イエスは私たちにはっきりと言われます「すべて重荷を負うて苦労してい る者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへ りくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あ なたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽 いからである」。どうぞ思い起こして下さい。この「くびき」は2頭の馬が曳くものです。主 イエスが「わたしのくびき」と言われるとき、そこには私たちの人生そのものを担って下さ る主がおられるのです。主はそれを「わたしのくびき」とさえ呼んで下さり、そして言われ ます。重く、辛く、苦しい人生の「くびき」に疲れたる人は誰でも私のもとに来なさい。そ のあなたの「くびき」のいっさいを私に委ねなさい。そのとき「あなたの魂に休みが与えら れる」。あなたの人生のその重い「くびき」は、私が担うゆえに「負いやすく、軽やかなくび き」となる。私があなたの全存在を最後まで、死を超えてまで担う。まさにそれが主の十字 架なのです。  主はここに、十字架の恵みをもって全ての人にはっきり告げていて下さるのです。 「私 はあなたの『くびき』を『わたしのくびき』とした」と!。私があなたの「くびき」を担っ たと!。そのとき、それはもはやあなたを押し潰す「重荷」とはならず、むしろあなたに真 の「休み」(生命)を与える祝福(限りない神の恵み)となってあなたを支える。そのように 主ははっきりと約束して下さるのです。永遠の神の御子なる主が、私たちの存在の重みを十 字架において担い取って下さった、まさにその十字架の恵みによってこそ、主は私たちの全 存在をご自身の「くびき」として下さった。だから私たちの魂に本当の「休み」が、救いの 平安と喜びが与えられているのです。私たちは自分の人生にまつわるいかなる苦労も悩みも、 あるがままに主の御手に委ねる者とされているのです。その私たちの平安を奪いうるものは ないと主は約束して下さいます。「くびき」を負う2頭の馬が決して離れることがないように、 主イエスは私たちと決して離れることはないのです。  神の御子なる主イエスみずから、私たち「罪人のかしら」と同じ「くびき」を負うかたに なって下さった。これこそ限りない救いの恵みではないでしょうか。聖書には罪をおかすこ とを「釣り合わないくびき」に譬えています。私たちは神に対して「釣り合わないくびき」 しか負いえなかったはずです。しかし主イエスがその「くびき」を負って下さることによっ て、それは「釣り合うくびき」となったのです。それは私たちを疲れさせない。生命と喜び と慰めを与える祝福の「くびき」となって私たちを死を超えてまでも守り支えるのです。だ からこそ主は十字架の恵みによりて私たちに宣言して下さいました。「子よ、汝の罪、赦され たり」と!。あなたの罪は、わたしが贖った」と!。この十字架の主がいま私たちを祝福の 「くびき」へと招いておられるゆえに、私たちはいま心からの従順(信仰)をもって主にお 従いいたします。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなた がたを休ませてあげよう」。