説    教     詩篇71篇16〜18節   第二テモテ書4章1〜8節

「神の御前にて生きよ」

2012・08・12(説教12331443)  「テモテへの第二の手紙」は第一の手紙と同様にキリストの使徒パウロが生涯の最後にロー マの獄中より、愛する同労者・若きテモテにあてて書き送った手紙です。特にこの第二の手紙 はパウロの絶筆となったものだと考えられています。事実パウロはこの手紙を最後に数ヵ月後、 西暦68年ローマにおいて殉教の死をとげました。その意味でこの手紙はパウロの伝道への熱 意が漲る内容になっています。とりわけ今朝お読みした4章1節から8節の御言葉は、伝道の 戦いを最後まで忠実に担い続けてくれた同労者テモテに対するパウロの懇ろな勧めと共に、唯 一の贖い主イエス・キリストの御業、そしてキリストを世に遣わしたまいし父なる神に対する 限りなき感謝と讃美が満ち溢れているところです。  さて、この手紙の受取人であるテモテは、ガラテヤ州のリストラという町にギリシヤ人を父 ユダヤ人を母として生まれ、敬虔な信仰を持った母方の祖母ロイスのもとで先祖伝来の信仰の 賜物を受け継いだ人でした。そのことはこの手紙の1章3節以下にパウロによって次のように 記されていることでわかります。「わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出 しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。わたしは、あなたの涙 をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。また、あなたがい だいている偽りのない信仰を思い起こしている。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあな たの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している」。  そして同時にパウロはテモテにこのように勧めています。1章6節以下です。「こういうわけ で、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせ なさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの 霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人 であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力に支えられて、福音のた めに、わたしと苦しみを共にしてほしい。神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して 下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、 また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わ たしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである」。  ここにパウロはテモテの信仰を「偽りのない信仰」と呼んでいます。この「偽りがない」と は直訳すれば「裏表がない」という意味です。テモテの信仰生活は形式だけのものではなく、 生活のどこを切り取ってもそこに“キリストの愛と恵み”が見える、そのような信仰生活であ るとパウロはテモテを評しているのです。そして同時にパウロはいま自分がローマの獄中に囚 われていることで、伝道の働きが停滞してはならないとテモテに勧告しています。それは7節 にあるように「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」だ からです。だからこそパウロはテモテに「むしろ、神の力に支えられて、福音のために(いつも)、 わたしと苦しみを共にしてほしい」と勧めています。それは少しも私たちの能力や資格による ものではなく、ただ神が御子イエス・キリストにおいて与えて下さった測り知れない救いの出 来事による「神の賜物」なのだと力強く語っているわけです。  テモテという人は性格的にたいへん温和な穏やかな人であったようです。後年その穏やか過 ぎることがコリントの教会で問題視されたことがあったほどでした。激しい伝道の戦いには相 応しくないと考える人もいたのです。しかしパウロはテモテの内に秘められた伝道への燃える がごとき情熱を見抜いていました。使徒行伝14章19節に、パウロが第2回伝道旅行のおり、 ルステラにおいて迫害を受けたことが記されていますが、そのときパウロによってキリストを 信じ洗礼を受けたのがテモテの一家でした。 当時まだ少年であったテモテは、ガラテヤ教会 を母教会として大きく成長しまして、パウロの伝道を助ける忠実な同労者となり、マケドニア からコリント、コリントからエペソ、エペソからガラテヤへと、熾烈な伝道旅行の全行程をパ ウロと共に歩み、その「偽りのない信仰」によってキリストのみを証し御言葉のみを宣べ伝え、 あらゆる苦難を忍び、また私生活においては3章10節にあるように、常にパウロの「教え、 歩み、こころざし、信仰、寛容、忍耐」に倣い、その全生涯を人々の救いのため神の僕として 献げ抜いたのでした。そして使徒パウロの殉教ののちエペソ教会の初代監督となり、さらに22 年間にわたる伝道者としての働きののち、西暦90年にドミティアヌス帝の迫害のもと62歳で 殉教の死をとげたと伝えられているのです。  さて、そこで今朝の4章1節以下の御言葉ですが、特に5節までの大切な勧めの言葉におい て、パウロはこのようにテモテに語っています。「神のみまえと、生きている者と死んだ者と をさばくべきキリスト・イエスのまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命 じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよ く教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりのよい 話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを呼び集め、そして、真理から は耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎 み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」。  この御言葉はいつも私たちが襟を正して聴くべき御言葉です。ここにパウロは「神のみまえ」 という言葉を用いています。これはラテン語で申しますなら「コーラム・デオ」という言葉で、 宗教改革者カルヴァンが大切にした、私たちキリスト者の基本的な生きかたです。教会は世間 に取り入り、人の顔を見て右顧左眄するような群れであってはならないのです。いつも「神の みまえ」で生きる群れであり続けねばなりません。私たちの生活もまたそこにのみ本当の自由 と平安と喜びがあります。私たち人間はいくら豊かな生活をしても、罪の問題の解決なくして は決して平安と喜びはないからです。創世記の第3章において、神の御言葉に叛いたアダムと エバは神の御顔を避けて隠れる者になりました。神の御前にあるべき生活から離れ、神との関 係を喪失した孤独な生活になったことに、私たち人間の罪の本質があるのです。  それならば、ここでパウロが勧めている「神の御前に」とは、すでにそのこと自体が私たち の限りなき救いであり平安であることがわかるのです。私たちは神の御前にあるどころか、神 から離れてしか生きえなかった存在です。神の御前に立ちえざる者でした。その私たちが、十 字架のキリストによる全き罪の贖いによって、神の御前に生きる真の喜びと平安を「神の賜物」 として戴いたこと、それが教会に結ばれて私たちに与えられた救いの出来事です。まさに「イ ンマヌエル」(神われらと共にいます)出来事が、私たちの測り知れぬ罪のどん底に来たりたも うた十字架の主イエス・キリストによって私たち全ての者の救いとして現われたのです。  だからパウロはこの4章1節で「生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエス のみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる」と語っています。この 「キリストの出現」とは、ただ単に神が私たちにご自身を現わしたもうたということではなく、 まさに全ての人々の救いのために、あのベツレヘムの馬小屋にお生まれになり、世界で最も低 く貧しく暗いところ、すなわち私たちの罪のどん底に来たりたもうた救主イエス・キリストの 来臨の出来事をさしているのです。私たちを支配する罪と死の現実がどんなに強くとも、この 「キリストの出現」の恵み、 「キリストがあなたのために世に来られた」という福音に打ち勝つ力はありえないのです。主 は私たちの罪と死の現実のただ中に復活の永遠の生命を現わして下さったのです。私たちはそ れを教会において豊かに戴いているのです。だからキリストによる救いは人間の罪によって限 界づけられることはない。死の支配さえも打ち砕き、罪に囚われたる私たちを甦らせて下さる のです。  私たちの信仰の生命はキリストにあります。言いかえるなら、私たちの信仰生活の中心は教 会なのです。聖書のどこを見ても、信仰生活の中心はキリストであり教会であって、私たちの 個人的な経験や熱心さではありません。言い換えるなら、私たちの救いの確かさは、私たちの ために人となられしキリストの恵みの確かさであり、十字架による贖いの確かさなのです。そ して教会は聖霊によって御言葉を通して、そのキリスト御臨在の恵み、いまここにおいて私た ちを救いたもう主の御業が私たち一人びとりの上に現わされる場所なのです。  それなら、キリスト者として生きることは、私たちが聖人君子になることではありません。 私たち自身を顧みるなら、数え切れないほどの欠点や弱さや破れがあるのです。しかしそのよ うな私たちが、そのあるがままにキリストを信じキリストに従うのです。本当にここに自分の 全てを罪から贖って下さった救い主がおられることを告白し、喜びと感謝をもって礼拝の群れ とされるのです。そこにはじめて礼拝に出席した人たちにも消えることのない印象が与えられ ます。「ここには世の中のいかなるものも与ええない本物の救いがある」との印象です。その とき私たちのこの礼拝そのものが、「キリストの出現」を物語るものとされるのです。「神のみ まえに」生きる私たちとされているのです。  そしてパウロは今朝の御言葉の6節以下において、自分の殉教の時が近づいていることを予 感しつつ、しかしそこにキリストの僕として「神のみまえに」生きる者とされた救いの確かさ を讃美しています。「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべ き時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとお した。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主 が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいた すべての人にも授けて下さるであろう」。  パウロは、いや、私たちもまた、この確信と喜びにいま満たされているのではないでしょう か。この「義の冠」とは贖主キリストの救いの恵みそのものです。それがこの罪人のかしらな る私のために備えられている。それならば神はその「義の冠」をば、主の出現(キリストによ る救い)を心から待ち望んでいた全ての人にも授けて下さる。パウロは過ぎこし伝道の生涯を 顧みるとき、それは全て自分の罪を贖い新たになして用いて下さったキリストの恵みの御業で あったことを思い、ただ主を讃美し感謝しつつ主の御手に自分の全てを委ねているのです。  思えばテモテよ、あの険しかった山々、あの深い谷を行くときにも、焼け付く砂漠の旅路も、 荒れ狂う海を超えたことも、全てを主は導き祝福へと変えて下さった。この私たちの地上の旅 路は、私たちを待つ永遠の御国・朽ちぬ生命へと私たちを導くかけがえのない旅路です。その ことを思いつつ、たとえ今日神のみもとに召されようとも、私は限りなき讃美と感謝を御前に 献げつつ参ります。そのようにパウロは、否、私たちは歌い主を讃美しつつ「神のみまえに」 生きる者とされているのです。その祝福は永遠に変わらないのです。そのことを私たちは今朝 の御言葉を通して確かに知らしめられているのです。