説     教   列王記下4章42〜44節  マルコ福音書8章1〜10節

「主の賜いし糧」

2012・08・05(説教12321442)  主イエス・キリストが行なわれた奇跡で私たちに最も印象ぶかいことのひとつに、何千人も の人々にパンを与え養いたもうた「給食の奇跡」があります。今朝お読みしたマルコ伝にも6 章30節以下と8章1節以下の2箇所にこの奇跡が詳しく告げられています。そのいずれもガ リラヤ湖畔のデカポリスで行われた奇跡でした。今日でもそうですが、主イエスのおられた時 代の「デカポリス」は本当に淋しい場所でした。人の住む町などはなく、ただ崖の窪みに見捨 てられた墓地などがありました。主イエスは私たちの魂の淋しく見捨てられた「辺境地帯」を もお訪ね下さるかたです。そして主は一度ならず二度までもこの「魂の辺境地帯」で「給食の 奇跡」を現して下さいました。だからマタイ伝にも「五千人」と「四千人」という人数の違い こそあれ、ほとんど同じ2つの奇跡が少しも省略されず丁寧に書き記されています。それは既 に初代教会の人々が、礼拝のたびごとにこの「給食の奇跡」を深く心にとめていたことを示す ものです。  何よりも主イエスご自身が、私たちとの食事を大きな喜びとして下さいました。「わたしが 来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて救うためである」と主は宣言して下さいま した。あの取税人ザアカイの物語においても、その食卓において主はザアカイに救いの御業を 現わして下さいました。失われていた者が見いだされ、死んでいた者が復活の生命にあずかっ たのは、主が共に囲んで下さった食卓においてでした。十字架の出来事ののち、エマオへの道 を急ぐ2人の弟子に御姿を現わして下さったのも夕べの食卓においてでした。主の復活の証人 となった弟子たちにも主は幾度もご自身を現わしたまい、そこでも食卓を共にして下さいまし た。主イエスと共に食卓を囲むことは、主イエスに贖われ主イエスの賜いし糧にあずかり、主 イエスと共に生きる教会の交わり(聖徒の交わり)を具体的に現すものです。  カール・バルトという神学者は、教会の礼拝堂には一個のテーブルと人数分の椅子があれば 十分であると語りました。事実、復活の主の証人となった弟子たちが最初に整えた初代教会の 礼拝において、礼拝堂の中心に置かれたものはまさに聖餐の食卓(一個のテーブル)のみでし た。そこから聖書(神の言葉) が朗読され、説教(御言葉の解き明かし)がなされ、パンと 葡萄酒(主の御身体と御血)が配られたのです。私たちの聖餐式と同じように、初代教会にお いても全会衆が主の食卓を取り囲んで「生命の糧」なる神の言葉にあずかったのです。そこで、 初代教会の人々がこのように“主の食卓”を囲んで喜びと感謝の礼拝を献げたとき、その中に はかつてこのデカポリスにおける「給食の奇跡」を実際に経験した人が幾人も含まれていたこ とでしょう。それらの人々はそれこそ幾度でも、主の御手から親しく生命のパンを戴いたあの 日のことを生き生きと語ったに違いない。また、かつて主の弟子であった使徒たちは聖餐の食 卓に仕える喜びの中で、主の御手から配るようにと委ねられたパンや魚の感触を繰返し思い起 こしたことでありましょう。  私たちが礼拝で聖餐にあずかるとき、聖餐制定の御言葉として第一コリント書11章23節以 下をかならず朗読します。「主イエス渡されたまふ夜、パンを取り、祝してこれを裂き、しか して言ひたまふ。これは汝らのためのわが身体なり。わが記念としてこれを行なへ」。お気づ きになった人もあると思いますが、今朝お読みしましたマルコ伝8章6節にもこれとほぼ同じ 御言葉があります。「そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子 たちに渡されると、弟子たちはそれを群集に配った」。ここに改めて示されている幸いは、私 たちが教会において共にあずかる御言葉の生命の糧は、それは主御自身が祝福し、与えていて 下さるものだということです。そしてその祝福の基こそ、主が私たちの罪のために担われた十 字架にほかなりません。主イエスは何よりもみずからを“贖いの犠牲”として献げ尽くされる ことにより、ご自身そのものを私たちの受くべき「生命のパン」としてお裂きになったのです。 聖餐のパンは私たちのために裂かれた主の御身体であり、ぶどう酒は私たちのために流されし 主の御血です。この事実はデカポリスが墓場であったことを改めて私たちの心に示します。つ まり私たちがそこで戴く“生命の糧”は主の厳かな十字架の贖い(神の傷ましき手続き)に裏 付けられているのです。  何よりもそれは、この奇跡の御業に接する私たち一人びとりが主イエスから問われているこ とではないでしょうか。なによりも今朝の御言葉を終わりの21節まで読むとはっきりわかり ます。この中で主は繰返し「なぜ悟らないのか」と弟子たちに問うておられます。特に最後の 21節は「まだ悟らないのか」という鋭い問いです。弟子たちにとってまことに厳しい思い出と 結びついている出来事こそがこの「給食の奇跡」なのです。振り返ってマルコ伝を俯瞰すれば、 すでに4章において主イエスは「種まきの譬」を弟子たちに説き明かされ、その中で主は11 節に弟子たちに「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべ てが譬で語られる。それは、彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い 改めてゆるされることがないためである」と語られました。ここにも「聞くには聞くが、悟ら ない」という言葉が出てきます。つまり今朝の8節に至って主イエスは「あなたがたも、ほか の人たちのように、悟らない者なのか」と弟子たちに(私たちに)問うておられるのです。  大切なことは、この「悟り」という言葉は「信仰」を意味することです。つまり主が最も大 切なこととして私たちに求めたもうのは「信仰」なのです。それこそ預言者イザヤが言う本当 の幸い、自分の耳で、自分の目で、自分の心で、私たちは救いを得るのではない。唯一まこと の救いはただ主なる神から「福音」として(御子イエス・キリストとして)私たちのもとに来 ているものだ。私たちはそのキリストをわが主・贖い主と信じて主の教会に連なって生きる礼 拝者とされて、はじめて主の問いに(主の招きに)応える者とされるのです。だからこそ主は 今朝の8章17節から18節にもこう問いたまいます。「なぜ、パンがないからだと論じ合って いるのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目が あっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。また思い出さないのか」。私たちはこ れを感謝をもって聴かねばなりません。これほどの厳しい問責を主が私たちになされるのは、 あなたはただパンを食べて空腹を満たすだけの人生であってはならない、パリサイ人のような 生活ではなく、御言葉による本当の自由と幸いの人生を、あなたは歩む者とされているではな いかと、主ははっきり宣言していて下さるのです。  主は弟子たちを「みもと」に呼び寄せて語りかけられ、食物がないままに荒野の中で弱り果 てている群集を限りなく憐れみたまい、弟子たちに「この群集がかわいそうである。もう三日 間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせる なら、途中で弱りきってしまうであろう」と言われました。主は人々の魂の飢えを放置なさら ない。文語訳の聖書では「我この群集を憐れむ」となっています。まことに主は「大勢の群集 をご覧になって、飼う者のない羊の群れのような、その有様を深く憐れまれた」のです。すで に主イエスのご生涯が大いなる憐れみの現われでした。その「憐れみ」がいまここにも現われ ているのです。旧約聖書のエレミヤ書では「憐れみ」とは、愛する者の滅びをわが身に引き受 けることを意味します。腸(はらわた)を引き裂くほどの激しい愛が「憐れみ」です。失われ た者を見いだすために、死せる者を甦らせるために、自分の存在の全てを注ぎ尽くすこと、そ れを聖書では「憐れみ」と呼ぶのです。  あのルカ伝10章25節以下の「よきサマリヤ人の譬」の中でも、傷つき倒れ、死に瀕したユ ダヤ人(敵でしかない者)を救うために、一人のサマリヤ人が「憐れに思って近づき」その人 に救いの手を差し伸べました。このサマリヤ人の姿こそ主キリストの私たちに対する無限の愛 と憐れみを語るものです。その主の「憐れみ」が歴史の中に受肉と十字架とを通して現わされ るとき、そこにまごうことなき私たちの「救い」が起ります。神から離れ失われていた私たち が見いだされ、復活の主の生命を戴いた者として、新しい慰めと平安の人生がそこに始まるの です。主は私たちを断じて空腹のまま帰らせたまわない。ご自身の生命そのものを、私たちの 生命の御糧として与え尽くして下さるのです。そのためにこそ弟子たち(私たち)を御用のた めにお遣わしになるのです。主の大いなる「憐れみ」に仕える僕として。  弟子たちから(私たちから)見れば、自分たちが持っているものは「パンが七つ」にすぎま せんでした。飢えた大群衆を前に何の役に立つかと思ったのです。言い換えるなら、主イエス の約束、主イエスの憐れみ、主イエスの御言葉よりも、弟子たちは(私たちは)自分の価値判 断を優先したのでした。自分たちの乏しさと周囲の状況の不利なことだけを見、自分たちの可 能性だけに囚われ「これではダメだ」と不平不満を呟くのです。十字架の贖いの主が、勝利の キリストが、共にいます恵みを見失っているのです。自分たちの力だけに頼って、主の御力に 頼もうとはしないのです。「まだ悟らないのか」と主が問われるのはそのためなのです。本当 に私たちこそ、御言葉を聴き続ける生活の中で、しかしいつの間にか御言葉の力を侮り、自分 の現実はどうしようもないと、不平不満を呟きはじめるのではないでしょうか。キリストが 「主」であられることを忘れてしまうのです。信仰が口先だけのものになるのです。キリスト を傍観する立場に自分を置き、悔改めなしに御言葉を聴いてしまう私たちではないでしょうか。  それならば、まさにそでこそ私たちは今朝の御言葉の全てを戴いています。まず主が限りな い「憐れみ」をもって私たちを覆い包んで下さる幸いに、私たちはいま生き始めるのです。ま さに私たちの現実のただ中で「まだ悟らないのか」と語って下さる主のみが、私たちをご自身 に招き、私たちの一切の罪を背負うて十字架への道を歩んで下さったのです。だからこそ、主 は私たち一人びとりに明確に語って下さいます。「いまあなたのために、私は永遠の生命の食 卓をここに備えている」と。まさに主はこの生命の食卓を備えるために十字架におかかり下さ った。この食卓の主は十字架と復活のキリストご自身です。だから大切なことは、ただキリス トのみを信じて歩むことです。あなたの弱さも、破れも、悩みも、悲しみも、そのあるがまま に、あなたは私のもとに来なさい。そして生命のパンを受けなさいと、主ははっきり語ってい て下さるのです。  どうか私たちはいま、私たちの一切の悟りなき心、弱さ、破れ、悲しみのあるがままに、主 イエスが生命を献げて備えて下さったこの「生命の糧」に連なろうではありませんか。私たち の生きるかぎり、否、死を超えてまでも、十字架と復活の主に連なり続け、キリスト者の道を 全うして参りましょう。