説     教     ヨシュア記13章1節   ピレモン書8〜13節

「ピレモン書の福音」

2012・07・29(説教12311441)  ピレモンへの手紙は、コロサイ教会の長老であったピレモンという人に対して使徒パウロが書 き送った僅か25節からなる短い手紙です。この手紙が書かれたのには理由がありました。それ はこのピレモンの家の使用人であったオネシモという若い奴隷が逃亡したのです。逃亡の理由は わかりませんが、ともかくこのオネシモはコロサイからローマまでかなりの距離を歩いて獄中に ある使徒パウロのもとに身を寄せたのです。そしてオネシモはパウロによって福音を聴いて信じ、 パウロから洗礼を受けてキリスト者となり、さらには獄中にあるパウロの伝道を助け教会に仕え る、立派なキリストの僕へと成長したのでした。 この経緯を愛する兄弟ピレモンに伝え、また この逃亡奴隷オネシモを同労者テキコに委ねてピレモンのもとに送り返すにあたり、パウロはこ のこの手紙の中に自らの見解を述べ、どうかオネシモを「奴隷以上のもの、愛する兄弟として」 迎え入れてやって欲しい。「もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に 彼を受けいれてほしい」と願っているのです。それが今朝お読みしましたピレモン書8節以下の 部分です。  「ローマ帝国衰亡史」の著者である歴史家ギボンは、古代ローマ帝国の滅亡の原因が奴隷制度 にあると見抜いています。ローマ帝国という国家は奴隷制度の上に辛くも成り立っていたいびつ な国家であった。つまり生産者である奴隷の働きの上に消費者であるローマ市民の生活権が成り 立っていたわけです。そこで、私たちは「奴隷」と聴くと足に鎖を付けられたような人を思い描 きますが、そうではなく、ローマ帝国における奴隷は外見上は自由人と区別がつきませんでした。 しかも、征服した周辺諸国の知識人や技術者などが奴隷とされたケースも多く、学校の教師、専 門技術職、学者や哲学者などにも、奴隷の占める割合が多かったのです。しかし、その奴隷が主 人(つまり所有者)のもとから逃亡したとなりますと話は別でした。その奴隷にはたちまち「逃 亡奴隷」の罪の烙印が押され、円形劇場の剣闘士に売り飛ばされるなど厳しい制裁が加えられた のです。場合によっては死刑になることさえ珍しくありませんでした。言い換えるなら、奴隷が 主人のもとから逃げるにはよほどの理由があったとも言えるのです。  そこで、このピレモン書を読みますと、どうもこの逃亡奴隷オネシモは少年と言っても良い年 頃の若者であったらしい。もちろん専門技術者などではなく、主人ピレモンのもとで下働きなど をしていた若者であったのでしょう。このオネシモがどういう理由で逃亡したかはわかりません が、もしかしたらパウロに会いたい一心で(つまり洗礼を受けたいという願いから)逃亡したの かもしれません。そうでなければコロサイから約1000キロ離れたローマの獄中にわざわさパウ ロを訪ねる理由はないと思います。もちろんオネシモは主人ピレモンの家で使徒パウロとすでに 面識があったわけです。彼はおそらくパウロを通して福音を、主イエス・キリストによるまこと の救いの音信(おとずれ)を聴いていたことでしょう。オネシモはパウロを尊敬していた。だか ら主人ピレモンのもとから逃亡してでも獄中のパウロのもとを訪ねたかったのです。ただ困った ことに、オネシモは主人ピレモンから幾ばくかの金銭を盗んで逃亡したらしい。実際ローマまで の旅には相当の旅費が必要だった。だから切羽詰まった盗みだったのでしょう。しかしこのこと は当時のローマの法律によれば死刑になっても仕方のない罪でした。  この手紙の11節に、パウロはオネシモについて「彼は以前は、あなたにとって無益な者であ ったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった」と語っています。これはオネシモ という名がギリシヤ語で「有益な者」という意味であることによるのですが、それ以上に、オネ シモが法律によれば死刑にされても仕方のない者、つまり「無益な者」であったのに、いまや洗 礼を受けてキリスト者となり、伝道の助け手(キリストの僕)として「有益な者」になったのだ ということを、パウロはピレモンに訴えているわけです。  もともとパウロという人は、伝道のための同労者を選ぶのに安易な妥協をしなかった人です。 使徒行伝15章36節以下には、パウロがマケドニアへの伝道に出発するにあたり、マルコとい う弟子を同行させないことにした(理由は、マルコが一度だけ主に対して婦忠実なことをしたか らでした)その処遇を巡ってバルナバと物別れになったことが記されています。そのようなパウ ロがあだやお世辞で「彼(オネシモ)はわたしの心である」(12節)または「わたしは彼(オネ シモ)を身近に引きとめておいて、わたしが福音のために捕われている間、あなたに代わって仕 えてもらいたかったのである」(13節)と語ったはずはないのです。つまり洗礼を受けたオネシ モは、過去の罪を悔改め、パウロをして「彼はわたしの心である」と言わしめるほどの真実なキ リストの僕へと成長し、パウロの伝道の大切な助け手となったのです。  だからこそパウロは改めてピレモンに願っています。これはパウロの熱き祈りでもありました。 この世の法律や社会通念でオネシモを審くのではなく、キリストにありて新しい者(有益な人) となったオネシモを、どうか「わたし同様に受けいれてほしい」とパウロは願うのです。「キリ ストにある愛のゆえに」「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として」迎 えて欲しいと懇願するのです。そして18節を見ますとパウロはピレモンに対して「もし、彼(オ ネシモ)があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それをわたしの 借りにしておいてほしい」とまで語っています。「このパウロが手ずからしるす。わたしがそれ を返済する」とまで言っています。ピレモンが盗んだ金子についても、どうか寛大な処置をして 欲しいと願っているのです。そして「この際、あなた(ピレモン)が、あなた自身をわたしに負 うていることについては、何も言うまい」と語っています。つまり、ピレモンも使徒を通してキ リストに導かれたという「負債」があるはずだ。同じようにオネシモの「負債」をも寛大に計ら ってほしいと願っているのです。しかももはやオネシモは逃亡奴隷などではなく、主にある「愛 する兄弟」のはずではないかと語っているのです。  オネシモだけではなく、パウロもピレモンも、そして私たちもまた、十字架の主イエス・キリ ストの贖いによって救われ、教会に加えられるまでは、神の御前に「無益な者」つまり「罪人の かしら」にすぎなかったのです。私たちは一人の例外もなく、主かお播きになった御言葉の種に 対して「道ばた」であり「石地」であり「いばらの中」であったにすぎない。私たちこそ「無益 な者」なのです。その私たちをあるがままに主イエスが訪れて下さった。そして私たちをかき抱 くようにしてご自分の祝福の生命に連ならせて下さった。死せる者、滅びるほかない者に、永遠 の生命(死に打ち勝つまことの生命)を与えて下さったのです。「無益な者」を「有益な者」に 生まれ変わらせるために、主は十字架にかかられ、永遠の贖いとなられたのです。そして私たち すべての者を、御言葉を聴いて信じる「良い地」に変えて下さったのです。  パウロはさらに、今朝の御言葉において、実に驚くべきことを語っています。それは15節で す「彼(オネシモ)がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めて おくためであったかもしれない」。これは新約聖書の中でも特に翻訳が難しい御言葉です。しか しあえて直訳するならこのようになるでありましょう。「彼(オネシモ)がしばらくの間あなた (ピレモン)から離れていたのは、あなたが彼(オネシモ)を奴隷としてではなく、主にある兄 弟として、永遠に留めておくための神のご配慮であった」。そのようにパウロは語っているので す。  私たちは思いがけない出来事に遭遇したとき、信仰も何もかも忘れて周章狼狽し、御言葉以外 のものに解決を委ねてしまうことがあります。自分にも社会にも苛立ちしか感じなくなる時があ る。そのような私たちにこそ今朝のピレモン書は、いつも大胆に御言葉を聴いて生きる者になり なさいと、本当の自由と幸いの生活を告げているのです。あなたは御言葉に全てを委ねて生きる ことができる。キリストの変わらぬ御支配の内に進むべき真実の道を見いだすことができる。そ のように告げているのが今朝のピレモン書です。ですから今朝のこの手紙は、ただ単に一人の罪 人の成長の記録ではない。単なる回心物語ではない。ここに告げられている事柄は、死すべき私 たちに現わされた新しい創造の御業であり、御言葉と御霊によって新たにされ造り変えられた者 の永遠に変わらぬ喜びと祝福です。それは人間の内なる可能性の延長にある救いなどではなく、 罪と死という決定的な限界のただ中に、ただキリストによって与えられた確かな救いの音信であ り、永遠の生命の輝きなのです。  だからこそ、使徒パウロはコロサイ書3章11節に「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人 割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、 すべてのもののうちにいますのである」と語っています。「主によって召された奴隷は、主によ って自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷」なのです。私たちにも、 同じ恵みがいつも豊かに与えられています。キリストに結ばれ贖われた者として、私たちは真の 兄弟姉妹なのです。いま私たち一人びとりが主の訪れを受けている、すでにその恵みにおいて「良 き地」とされているのです。限りない実りが、祝福が、私たち一人びとりの人生に現れている。 キリストの愛の内を歩む者とされている。それは決して変わることはないのです。