説     教   出エジプト記3章1〜6節  エペソ書2章1〜10節

「ただ恩恵によりて」

2012・07・22(説教12301440)  エペソ人への手紙を書いた使徒パウロには絶えざる祈りがありました。与えられた生涯をた だキリストの証し人として歩み抜き、主の御身体なる真の教会を建て、主に委ねられた伝道と 牧会の使命を忠実に果たすことです。使徒行伝20章にはエーゲ海に面した港町ミレトにおけ るパウロの決別の説教が記されています。エルサレムに向かう最後の伝道旅行への船出にあた り、パウロはミレトから50キロ離れたエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、そこ最後の説教を 語ったのでした。パウロはこの説教の中で「わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜 わった、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし得さえしたら、このいのちは自分にとって、 少しも惜しいとは思わない」と語っています。そしてエペソ教会の長老たちに「どうか、あな たがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子 の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立て になったのである」と教えているのです。  この「すべての群れに気をくばる」とは、大牧者なるキリストのもと委ねられた群れ全体を “正しく導く”という意味です。エペソに限らず初代教会の時代はひとつの街に幾つもの小さ な「群れ」がありその全体を「教会」と呼んでいました。今日で言う中会(プレスビテリー) の起源を見るのです。その「すべての群れ」に「気をくばる」とは中会の牧会をも委ねたとい うことです。この「気を配る」という言葉は「魂の看取り」という意味で「牧会」という言葉 の元になりました。ここからもわかるように、良い牧会は健全な中会形成とひとつなのです。 だからパウロは教会形成イコール中会形成の務めを長老会に委ねたのです。  さて、パウロは教会を語るとき、それは何より「神が御子の血であがない取られた神の教会」 であると教えています。ここにパウロがエペソで語り続けた福音の核心がありました。私たち はただ恵みによって招かれ、御子イエスの血によって「あがない取られた神の教会」に連なる 僕たちです。そこでは私たちに何が起こったのでしょうか?。それをパウロは今朝のエペソ書 2章1節以下にこう語るのです「(私たちは)かつては自分の罪過と罪とによって(神の前に) 死んでいた者」であった。そのような私たちを4節にあるように「しかるに、あわれみに富む 神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたした ちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリス ト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。  ここでパウロが明らかにしていることは、私たちのこの教会は「神が御子の血により贖い取 られた神の教会」である。だからそこに連なる私たち一人びとりに“罪の全き赦し”と“永遠 の生命”が与えられているという事実です。なによりも主イエスみずから、教会と私たちとの 関係、すなわちご自身と私たちとの繋がりを“ぶどうの樹”に譬えられました。私たちが教会 に連なることは、キリストがご自身の血によって「あがない取って」下さった永遠の生命に、 幹に連なる“ぶどうの枝”のように結ばれることです。私たちは教会に連なってのみキリスト に堅く結ばれるのです。しかしこの大切なことがなかなかエペソの人々には理解されませんで した。教会的な本物の信仰が育たなかったのです。エペソは文化的・経済的には非常に豊かな 都会でした。そのことから教会もある種の文化的活動の一種として理解される危険があったの です。いわゆる“福音の世俗化”の問題にエペソ教会は直面したのです。教会に集まる人の数 は非常に多かった。しかし信仰の内実が伴いませんでした。文化としてのキリスト教は栄えた のですが、最も大切なキリスト告白は蔑にされていたのです。  このことは、今日の私たちの教会を取り巻く日本の社会事情と似ているのではないでしょう か。ある宗教学者が「仏教とキリスト教、どちらが役に立つか」という本を書きました。粗雑 な内容の本ですがタイトルの面白さゆえに多くの人に読まれたようです。この場合「どちらが 役に立つか」を決めるのは人間(社会)の価値判断にすぎません。このような“功利的価値判 断”の立場や世俗的価値観をそのまま宗教的価値にも当てはめようとするのが日本社会の脆さ です。エペソでも自分の実生活の上で、社会的地位の向上、商売繁盛安心立命、健康増進大願 成就、そうした眼に見える実利的価値において教会がどれだけ「役に立つか」という視点が支 配的でした。幸か不幸か教会(キリスト教)はエペソの人々に「役に立つ宗教」と見られまし た。それでエペソにおいては教会に集まる人の数は非常にふえていったのです。  パウロはそのことを“教勢の増加”とは判断しませんでした。なぜなら、逆に言うならエペ ソの人々は、キリスト教が実生活に「役に立たない宗教」だと判断すればいつでも教会から去 ってゆくからです。事実のちにローマ帝国による大規模なキリスト教迫害が起こり、キリスト 者であることが実生活上の不利になったとき、エペソの教会は数の上では崩壊寸前と思われる ところまで教勢が落ちたのです。しかしエペソの教会はそこから、残った信徒たちが長老会の もとに堅く結束し、どんなに少数の群れになっても生き生きとしたキリストの福音のみを宣べ 伝え続けました。やがて時代が進み西暦4世紀になりますと、エペソ教会は“カパドキアの三 神学者”と呼ばれる卓越した神学者を生み出し、カルケドン信条の制定に大きく寄与する教会 へと成長します。そのような成長がどうして起こったかと申しますと、それは最初にエペソ教 会の礎を据えたパウロが、歴史を超えた(歴史の主なる)キリストの御業のみを宣べ伝え、福 音のみを教会の礎としたからです。  パウロには確信がありました。教会はこの世の成長と共に成長しこの世の衰退と共に衰退す るものであってはならない。だからミレトでの決別の説教においても、パウロは長老たちに対 して「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの 徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」と言い切っています。 「教会に大勢の人たちが集まってたいへん結構だ、この調子で大いに頑張りなさい」という説 教をしたのではないのです。そうではなく「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがた をゆだねる」と語ったのです。ただ活ける神の御言葉、イエス・キリストのみに、私たちに「徳 をたて(まことの教会を建て)聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」か らです。だからパウロは第一コリント書2章でもこう語っています「兄弟たちよ、わたしもま た、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用い なかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外の ことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所 に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教 も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがた の信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」。  何よりも私たちこそ、今朝のエペソ書2章1節以下にあるように、かつては(主イエス・キ リストに結ばれて生きる以前には)「自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつ てはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの 中に今も働いている霊に従って、歩いていた」者たちでした。まさに3節にあるように「生ま れながらの怒りの子」でした。しかしそのような私たちを主イエス・キリストは十字架におい て贖い、復活の永遠の生命(まことの神との永遠の交わり)を与えて下さったのです。すなわ ち今朝の2章4節以下です。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さった その大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あ なたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえ らせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。そして私たちは8節の御言葉にも心を留 めましょう。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、 あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。そ れは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをす るように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして 日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。  私たちは、主なるキリストが私たちの底知れぬ罪のために十字架に死んで下さった恵みの事 実をあるがままに受け入れること、すなわち私たちのための唯一永遠の救いの出来事として信 じ告白することにより、キリストが下さる新しい復活の生命に生きる者とされるのです。その 眼に見える“しるし”が洗礼です。洗礼を受けキリストの十字架の死にあずかる者とされ、私 たちはキリストの復活の生命に堅く結び合わせて戴いたのです。だから6節に「共に天上で座 につかせて下さった」とまで言われています。主が私たちのために天に永遠の住処を備えて下 さったのです。礼拝者として生きることは、この地上の旅路をすでにキリストの絶大な勝利の 御手に支えられ贖われた「天に国籍を持つ者」として生きることです。どんなに厳しいこの世 の戦いや試練の中にありましても、キリストは私たちを既にご自身の永遠の勝利の内に堅く守 り、平安のうちに世の旅路へと遣わして下さいます。だから「天上で座につく」とは座りこみ 蹲ってしまうことではない。教会によりキリストに堅く結ばれた者として、悲しみや悩みの中 にも、慰められ力を受けつつ立ち上がり、安心して勇気をもって主と共に歩む者とされている 私たちなのです。10節の御言葉を心に留めましょう。「わたしたちは神の作品であって、良い 行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。この「良い行い」とは直 訳するなら「(キリストの御業の)美しさに生きること」です。この「キリストの御業の美し さ」にあずかることにより、私たちははじめて、キリストの恵みに生かされた喜びの生活を生 み出す者とされるのです。  だからこそパウロは「わたしたちは神の作品である」とはっきりと語ります。私たちは「神 の栄光を現わす」(キリストの御業の美しさに生きる)生活へと召されています。それこそ主 イエス・キリストによって歴史の中に成就した救いの出来事であり、それこそが福音の本質な のです。私たちが勝手に自分の限界を定め絶望してしまうところで、神ご自身が私たちのため に、私があなたの救いを「成就した」と明確に告げていて下さる。あなたの救いは私が既に十 字架において「成就した」と宣言していて下さる。そこにこそ私たちの「良い行い」すなわち 「キリストの御業の美しさに生かされた新しい生活」があるのです。そこにこそ私たちがキリ スト者として、人間として真に勇気をもって健やかに生きる、変わることのない祝福の歩みが あるのです。