説     教     イザヤ書30章18節   使徒行伝16章11〜15節

「我らは主を信ず」

2012・07・15(説教12291439)  使徒パウロによる第2回目の伝道旅行は西暦48年から52年にかけて、約4年間の出来事で した。48年にエルサレムで行われた「エルサレム使徒会議」を受けて、初代教会は本格的な世 界伝道を始めます。新しい伝道の幻を与えられたアンテオケの教会は、パウロとシラスの2人 を開拓伝道へと送り出すにあたり、彼らの伝道活動を支えるために率先して物心両面にわたる 必要を満たす決議をしたのです。経済的には貧しかったアンテオケの教会が、パウロの伝道を 生涯にわたって支える母体となりました。伝道は教会を生み出し、生み出された教会はさらに 伝道を支えてゆきます。アンテオケの教会は福音を最初にヨーロッパ大陸(ギリシヤのマケド ニヤ)に伝える嚆矢となりました。その消息を生き生きと伝えているのが今朝お読みした使徒 行伝16章11節以下の御言葉です。  ところで、パウロにはかねてより今日のトルコ北部、黒海沿岸のビテニヤ地方に伝道したい という願いがありました。それでパウロはアンテオケを出発したのち、第1回伝道旅行の際に 開拓伝道をした諸教会を訪問しながら、小アジヤ(今日のトルコ東部)を北東に上りつつ最終 目的地であるビテニヤに行くつもりでいたのです。ところが主なる神はパウロをその願いとは 正反対の南西の方角へと導いてゆかれました。トルコの南西にはエーゲ海が広がっています。 そうです、神はパウロにエーゲ海を渡り、ヨーロッパ大陸に福音を宣べ伝えるようにお命じに なったのです。  すなわちそれが今日のギリシヤ北部(マケドニヤ)への宣教の始めでした。このあたりの消 息を使徒行伝16章7節は「イエスの御霊がこれを(ビテニヤに行くことを)許さなかった」 と伝えています。私たちは自分が立てた計画が挫折し、逆の方向に進みつつある場合、それを 「失敗」や「挫折」だと決めつけがちです。しかしパウロはそこに「イエスの御霊」(聖霊)の 導きを見いだし、それこそ自分が行くべき道であることを確信しました。計画していた旅路と は180度違う道を示されたパウロは、そこにこそ神のご計画があることを信じたのです。  なによりも使徒行伝は16章9節以下に、パウロがトロアス滞在中に観たひとつの夢を伝え ています。それは一人のマケドニヤ人が「わたしたちを助けて下さい」とパウロに懇願する「夢」 でした。これは聖霊によってパウロがヨーロッパ伝道への道を示されたことです。ですから10 節には「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招 きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした」と あるように、パウロは神が求めたもう道を寸時も躊躇うことなく従ったのです。これはパウロ の全生涯を貫く伝道者としての基本姿勢でした。  さて、当時の船旅は多くの危険に満ちたものでした。11節以下にはパウロは「トロアスから 船出して、サモトラケに直行し、翌日ネアポリスに着いた」とありますが、その海域は季節風 の影響を受けて幾多の海難事故を起こすことで有名な海の難所でした。サモトラケというのは 島の名前ですが、そこにいったん寄航したのも嵐を避けるためであったでしょう。そして船が 着いたネアポリスという町こそ、キリストの使徒がヨーロッパに第一歩を記した記念すべき土 地となったのです。ネアポリスとはギリシヤ語で「新しい街」という意味です。そこからパウ ロとバルナバはさらに「マケドニヤのこの地方第一の町で殖民都市であった」ピリピへと向か いました。そのピリピも同じように、いかにも新しい開拓地という雰囲気の街でした。つまり 人々の“心の拠り所”がどこにも無い、精神的に無秩序(アナーキー)な街であったわけです。  パウロは新しい町に福音を宣べ伝えるとき、いつもまずユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で説 教するのが常でした。しかし新しい街ピリピにはまだシナゴーグがなかったため、パウロは「祈 りの場所」を探して、安息日にそこに集まる人々にキリストの福音を宣べ伝えることにしたの です。13節に「ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほと りに行った」とあることがそれです。この「川」は「ガンギテス川」という名ですが現在では 「ルデヤ川」と呼ばれています。その理由は、そこに「祈りのため」に集まってきた婦人たち の中で「ルデヤ」という女性が、パウロの語る福音を聴いてキリストを信じ、その家族もみな 洗礼を受け、彼女の家がヨーロッパ大陸における最初のキリスト教会となったからです。  さて、この「ルデヤ」という婦人は14節によれば「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う」 女性でした。そして何より印象ぶかいのは「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を 傾けさせた」とはっきり記されていることです。この「耳を傾ける」とは注意ぶかく祈りをも って説教を聴くことです。その日、同じようにパウロの説教を聞いた女性は大勢いたはずです。 しかしルデヤただ一人が主を信じる者となったのです。本当に主を信じる者が一人でも起こさ れるなら、そこからどれほど多くの祝福が現われるかしれません(リヴィングストンの話、1822 年9歳のとき)。大切なことは、その人が生涯忠実に教会に連なるまことのキリスト者に成長 することです。そうした本当のキリスト者の育つ教会へと私たちは共に成長してゆかねばなり ません。  ところで、ときに私たちはこのように思うことはないでしょうか。ここに誰もが感動する素 晴らしい雄弁な説教者がいたら良い。そうすればたちまち何百いや何千もの人々を教会に集め ることができるのではないかと。どこかにそのようなカリスマがいないものか。よく特別伝道 礼拝の講師などを選ぶ場合に意図せずしてそうしたカリスマの持主を探すことがあります。逆 に言うなら、教勢が伸びないのは説教に力がないからだ。始めて教会に来た人にわかりづらい 説教だからだ。そう決めつけることに私たちが陥る危険があると思うのです。福音の説教とは その程度の問題ではないからです。  使徒パウロの伝道と教会形成は、そういうものではありませんでした。主イエス・キリスト の福音が正しく宣べ伝えられるところ、キリストのみが鮮やかに示されるところ、そこに神の なしたもう救いの御業が現れるのです。人間の雄弁の力によるのではなく、主なる神ご自身の 御業なのです。そこで第二コリント書10章10節を見ますと、パウロは「彼の手紙は重味があ って力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」と評されていたことがわかり ます。パウロの説教は「つまらない」と野次られていたのです。雄弁であることを教養の条件 とするギリシヤ人にとって、パウロの説教は聴く価値のない「つまらない」話と受け取られた のでした。しかし大切なことは、そこに「われらは主(キリスト)を信ず」という本当の信仰 が起されることです。  主が私たち一人びとりに求めておられること、それは福音のみを正しく語る教会、福音の輝 きと喜びを全ての人々に宣べ伝え、神の愛と恵みを証し、それを世に向けて語る教会へと成長 することです。人間の能力や雄弁ではなく、神の語りたもう福音を大胆に恐れることなく宣べ 伝える主の器に徹することです。自分自身がまず御言葉によって打ち砕かれ、甦らせられ、造 り変えられた者として生きることです。私たちが福音の是非を判定するのではなく、福音が私 たちを打ち砕くのです。そのように御言葉を聴く耳は、ただ信仰によって開かれます。神ご自 身が開いて下さるのです。そういう経験がルデヤという一人の婦人の上に起こった。  人間の目から見るなら本当に小さなことでした。もし数を挙げるなら、ある意味でパウロの 伝道は失敗でした。ルデヤというたった一人の受洗者しか得られなかったからです。しかし彼 女は救われた喜びと感謝を、パウロに自宅を伝道の拠点として開放することで現わし、そこが ヨーロッパにおける最初の教会となったのです。カーライルというイギリスの思想家が「使徒 と英雄との相違は、福音と雄弁の違いである」と述べています。そして「福音は神から出で雄 弁は人から出る。そして人を救うものはただ神から出たものだけである」と語っています。ル デヤは雄弁ではなく、神から出た福音の大いなる力(御言葉の豊かさ)によって救われたので す。キリストをまことの主・救い主と信ずる人になったのです。  15節には、彼女をはじめ家族みなが洗礼を受け、そしてパウロに対して「もし、わたしを主 を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と「懇望した」と 記されています。この「わたしを主を信じる者とお思いでしたら」とは、十字架のキリストに よる救いの確かさに生かされた者として、という意味です。この僕をも、十字架のキリストに よる救いの確かさに生かされた者として、どうぞ“御言葉の御用に仕える者にして下さい”と ルデヤは願ったのです。そしてそのルデヤの願いを主は限りなく祝福し、ここにヨーロッパ最 初の教会・ピリピ教会が建てられ、多くの人々の救いのために豊かに用いられたのです。  この後、このピリピにおいてパウロとシラスは、ある騒動に巻きこまれて投獄されるのです が、そこでも驚くべきことが起こりました。それは牢獄が教会になった出来事です。キリスト が共におられ、御言葉が語られ、讃美が歌われるところ、それは教会そのものではないでしょ うか。大地震が起こって牢獄の扉が開いてしまった。獄吏たちは「囚人が逃亡した」と思いこ んで剣を抜き自害しようとしました。そのときパウロの声が響きました「自殺してはいけない、 私たちはみな全てここにいる」と。獄吏が明かりを持って周囲を見渡すと、囚人たちは一人も 欠けることなくそこにいました。もはや牢獄ではなく主の教会なのですから、誰もそこから逃 げる必要はなかったのです。恐れおののく獄吏に対して、パウロは「主イエスを信じなさい。 そうしたら、あなたも、あなたの家族も救われます」と語りました。その獄吏は家族もろとも パウロとシラスから洗礼を受け、同じ16章の34節を見ますと「さらに、ふたりを自分の家に 案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」と 告げられているのです。  ここに、ピリピ教会を形成した2つの流れがあったことがわかります。ルデヤの一家の献身 と獄吏の一家の献身です。私たち葉山教会の起源にも2つの流れがありました。日本基督鎌倉 教会講義所としての開拓伝道の流れと、かつての須藤清吉長老のもとでのサナトリウムの聖書 研究会の流れです。それが融合して日本基督葉山教会となり、今日の葉山教会へと繋がってい ます。そしてここピスガ台に私たちは「われらは主を信ず」と福音のみを宣べ伝えるのです。 神のなさる古今の御業を想い、私たちは教会の唯一の主なるイエス・キリストに讃美と感謝を 献げずにはおれないのです。