説    教    詩篇103篇1〜5節   マルコ福音書2章1〜12節

「救いの非常手段」

2012・07・08(説教12281438)  主イエス・キリストのガリラヤ伝道の拠点となったのはカペナウムのペテロの家でした。こ との発端はペテロの姑が熱病を主イエスから癒して戴いたことでした。主イエスを神の子キリ ストと信じたペテロの姑は、その感謝を主の御業のために家を開放することであらわしたので す。まさにその小さなペテロの家が、世界最初のキリスト教会になったのです。  さて、主イエスがその家におられると聞いた人々が、ガリラヤ中の町々村々から集まって来 ました。今朝のマルコ伝2章1節以下には「幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰り になったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや 戸口のあたりまでも、すきまがないほどになった」とあります。ただでさえ狭いペテロの家は 群衆のために「もはや戸口のあたりまでも、すきまがないほど」の“立錐の余地もない”状態 になりました。家の中に入れない人々は窓から漏れてくる主イエスのお話を聴こうと耳を澄ま せていたのです。この2節の「御言を彼らに語っておられた」とは、ずいぶん長い時間(それ こそ幾日も続けて)説教をされたことを示しています。そして日を追うごとに人々の数はふえ 続けてゆきました。  そのようなある日、予期せぬ出来事が起りました。それは3節以下に「すると、人々がひと りの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた」とあることです。「中風」 とは身体が動かせなくなり、時には寝たきりになる病気です。言葉も不自由であったかもしれ ません。この病人の家族や友人たちは、なんとかしてこの病気を治して上げたかった。そこに 主イエスがカペナウムで福音を語っておられるという噂を聞きました。そこで、まずこの病気 の人みずからが主イエスにお会いしたいと願ったのです。しかし動くことも話すことも不自由 な身ですから、自分ではどうすることもできませんでした。その願いに周囲の人々が応えたの です。  正岡子規という人が「病床六尺」という随筆を書きました。脊椎の病気のため大変な苦しみ を経験した人です。彼はあまりの苦しみから「死にたい」と叫ぶことさえあった。それを聞い た石井露月という門人が「さようなことを言ってはいけませぬ」と諌めた。すると子規は「そ の大事の命も要らぬ、どうぞ一刻も早く死にたいと願うは、よくよくの苦痛あるためと思はず や」と語ったそうです。ヨブと友人たちとの対話でもそうですが、本当に苦しんでいる人の言 葉は他人に理解され難いのです。本当の苦しみは人間から言葉を奪うのです。苦しみが人を孤 独にするのです。だから本当に苦しんでいる人は、自分の存在の重みに沈黙と孤独の中で向き 合うほかありません。幼い子供が泣くのは親を信頼しているからです。悲しみや訴えを受け止 めてくれる親がいるから子供は泣けるのです。もし受け止めてくれる親がいなければ子供は泣 けない子供になります。原爆で母親を失った幼い女の子がいました。どんなに辛い時にも泣か ずに耐えている姿を見て、知らない人は「偉いね」のひと言で片付けてしまう。父親の永井隆 という人が「如己堂日記」という本の中でこう書いています。「カヤノは泣かないのではない、 泣けないのだ。…かつてはこの子にも、他の子供たちと同様に優しい母親がいた。お腹がすい たといっては泣き、淋しいと言っては泣き、怖いと言っては泣くこの子を優しく抱きとめてく れる母親がいた。しかしその母親は原爆で死んでしまった。写真一枚残さずこの世から去って しまった。そして父親である自分も原爆症のため腹水がたまって、この子を抱いてやることす らできない。…カヤノが泣かない子、否、泣けない子になったのはそのためなのだ」。  それならばなおのこと、人間はただ神の福音により、神の言葉を聴くことにより、その人に とって最も大切で根本的な神の限りない愛を知り、その神の愛に生きる喜びを知る者になるの ではないでしょうか。そこに、私たちにとって無くてならない「生命の言葉」が回復されてゆ くのではないでしょうか。私たちはその最も確かな“言葉の回復”を「祈り」に観ることがで きます。私ごとですが、私は祈祷会で初めて祈りを献げた日のことを鮮やかに覚えています。 高校2年生の夏のことでした。それまで祈祷会に出席してはいたものの、祈らないまま牧師先 生の聖書講解だけを聴いていました。そうしたある日、私は祈らずにはおれなくなったのです。 貧しい祈りを口にしました。私が祈った最初の経験でした。それこそ言葉と生命を主が回復し て下さったことでした。  私たち人間が神を「わが主よ、わが神よ」と呼び、その神に対して「讃美」と「祈り」を献 げるとき、礼拝者として生き始めるとき、その祈りその礼拝そのものが、その人の“根本的な 言葉の回復”であり“生命の回復”にほかならないのです。その回復への音信、罪と死からの 解放を宣べ伝えるのは主の教会のみです。それなら「罪の赦し」とは、贖い主なる神のもとに 悔改め(自分を投げかけ)立ち帰ることによって、失われた自らの存在と言葉、生命そのもの を、神の限りない恵みのもとに新たに回復することです。私たちはキリストのもとでのみ「わ が子よ、汝の罪赦されたり」との御声を聴くのです。死から生命へと移されてゆくのです。  この中風の男性は、家族や友人たちによって担架で担がれて、このペテロの家にやって来ま した。言い換えるなら、この人の信仰を家族や友人たちが受け止め、自分たちも主イエスを信 じる者になった。祈る者になったのです。いや、もしかしたらこの人は主イエスを本当に信じ てはいなかったかもしれません。むしろ周囲の人々が心から主イエスを信じて、主イエスのみ がなされる唯一の癒し(罪の贖い)にこの人を与らせようとしたのかもしれない。しかも既に 家の戸口まで大勢の群集で埋め尽くされ、中に入ることは不可能でした。普通ならそこで諦め るのですが彼らは諦めません。神の子イエス・キリストのみが生命を与えて下さることを信じ たからです。彼らは中風の人を屋根の上に担ぎ上げると、皆が呆気に取られている中で屋根瓦 を剥がして大きな穴をあけ、そこから中風の人を担架ごと主イエスがおられる部屋に吊り降ろ したのでした。中にいた人々はさぞ驚いたことでしょう。ペテロなどは「俺の家を壊すのか!」 と怒ったかもしれない。これは救いを受けるための非常手段でした。いわば彼らはこの「非常 手段」をもって愛する者を主イエスの御手に委ねたのです。主イエスだけがこの人を救い癒し て下さると信じたのです。  そこで5節を見ますと「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪は赦 された』と言われた」と記されています。濛々と埃が立ちこめる室内で主イエスの救いの宣言 がなされました。主イエスがご覧になったのは、この中風の人の信仰と言うよりも、むしろこ の人を「非常手段」を取ってまでご自分のもとに連れて来た人々の信仰でした。昔から「牛に 引かれて善光寺参り」と申します。“他力本願の信仰”(他人まかせの信仰)という意味ですが、 主イエスはそれをも祝福して下さるのです。どんな理由であっても良い、主イエスのもとに連 れてこられた人を、主はかならず祝福し生命を与えて下さいます。だから本当の伝道は人を礼 拝に誘うことです。教会の集会に連れてくることです。主イエスのもとに担架ごと吊り降ろす ことです。そこに私たちの思いを遥かに超えた救いの出来事が起るのです。  旧約聖書の詩篇103篇を併せてお読みしました。そこで詩人は「わがたましいよ、主をほめ よ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。 そのすべてのめぐみを心にとめよ」と歌っています。この詩人が主の御名を讃美するのは、測 り知れぬ罪の支配から、ただ主なる神のみが「あなた」を贖い尽きぬ生命を与えて下さるから です。「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのち を墓からあがないいだし、いつくしみとあわれみとをあなたにこうむらせ」て下さる。だから この詩の終わりではこう歌われます。「主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとは すべての物を統べ治める」と。  私たち人間は、たとえこの世界(人生)で何を得ようとも、神に対する罪の解決なくしては 「失われた者」(生命なき者)にすぎません。神に立ち帰らずして魂は孤独のままであり、言 葉も生命も失われたままなのです。だからこそ神は、私たちを罪の暗黒の中に放置したまわず、 これを限りなく愛し救うために、最愛の独子イエス・キリストを世に遣わして下さいました。 もし屋根に大穴を開け病人を担架ごと主のもとに吊り降ろすことが「非常手段」と呼ぶなら、 全人類に対する主イエス・キリストの十字架の出来事こそ、本当の「非常手段」ではないでし ょうか。言い換えるなら、今日の人々はこの主イエスの「救いの非常手段」に信仰をもって応 えただけです。ペテロの家の屋根に大穴を開けたのは「天の玉座」から降ってまでも私たち罪 人に連帯して下さったキリストの「救いの非常手段」に対する応答です。まさにその彼らの信 仰をご覧になって主は「わが子よ、あなたの罪は赦された」と宣言して下さった。なによりも キリストご自身が担って下さった十字架と復活という非常手段によって、私たちは存在と生命 と言葉を回復し、永遠の生命に生かされ、神の永遠の愛と恵みのご支配のもとに生きはじめる のです。「わがたましいよ、主をほめよ」との真の礼拝者たる喜びに生きる者とされているの です。  まさしく、今朝の御言葉のこの「中風の人」こそ私たち一人びとりです。この人が「子よ、 あなたの罪は赦された」との主の極みなき救いの宣言によって新たな者とされたように、私た ちもまたこの主の教会において、死の床から立ち上がって神を讃美し、神と共にその限りない 祝福と平安のもとを生きる新しい生命を与えられています。「子よ、あなたの罪は赦された」。 ここに、全ての人々のまことの救いと喜びがあるのです。