説     教    エレミヤ書17章5〜8節   コロサイ書3章1〜4節

「聖徒の堅忍」

2012・07・01(説教12271437)  私たちの最も親しい信仰の言葉は「アーメン」でありましょう。私たちは祈りの最後には必ず 「主の御名によりて、アーメン」と唱えますし、使徒信条や讃美歌の最後にも「アーメン」と唱 えます。この「アーメン」とは元々ヘブライ語の「エメト」(神の真実)という意味です。つま り私たちは「アーメン」と唱えることによって、私たちの信仰と生活がいつも「神の真実」に守 られ支えられていることを告白しているのです。ある古い英語の辞書にアーメンの訳語として 「しかあれかし」とあるのを見ました。とても良い訳だと思いました。「神の真実、それが私の 上に『しかあれかし』」(そのまま現れますように)と私たちは告白するのです。処女マリアが天 使ガブリエルから受胎告知を受けたとき、彼女は大きな畏れをもって「わたしは主のはしためで す。お言葉どおりこの身になりますように」と申し上げました。それと同じように、私たちの信 仰の生活はまず主が成し遂げて下さった救いの御業を「アーメン」(しかあれかし)と告白する ことで成り立つのです。主の御業をそのままにわが救いとして受け入れる幸いを与えられている のです。  そこで、今朝の御言葉であるコロサイ書3章3節4節にこのように告げられています。「あな たがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の内に隠されて いるのである。わたしたちのいのちなるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと 共に栄光のうちに現われるであろう」。ここにパウロは「あなたがたのいのち」すなわちキリス トに結ばれ贖われた私たちの復活の生命が「キリストと共に神の内に隠されている」と語ってい ます。これは不思議な言いかたですが、この「隠されている」とは「最後の日まで堅く守られて いる」という意味です。つまり私たちはキリストに結ばれた教会生活(礼拝生活)によって、死 を超えた復活の生命にいま堅く支えられ「最後の日まで堅く守られている」者たちなのです。  キリストを信じる者といえども、やがて肉体においては死ぬ時を迎えます。しかし私たちに与 えられているキリストの生命、死を超えた甦りの生命、神の真実「アーメン」(エメト)は決し て肉体の死で終わりません。それは「キリストと共に神の内に隠されている」からです。「神の 真実において堅く守られている」からです。だからその生命はいま私たちを礼拝者として健やか に生すとともに、歴史の最後の日まで「キリスト共に神の内に」堅く支えているのです。そして それは終わりの日、主が再び来たりたもう日(全世界に救いの御業が完成する日)「わたしたち のいのちなるキリスト」と共に栄光の内に現われる。つまり私たちはキリストの復活の栄光の御 姿と似た者とされることが明確に告げられているのです。  だからこそ、この「永遠の生命」はただ単に“永続する意識”や不老長寿のことではありえま せん。よく普通のお葬式で故人に対して「いつまでも見守っていて下さい」などと呼びかけます が、そのような不確かな草葉の陰の命ではないのです。1890年(明治23年)に来日したラフ カディオ・ハーン(小泉八雲)は当時の松江中学の英語の授業で「神について」という題で生徒 に英作文を書かせました。するとほとんど全ての生徒が「神とは死んだ人間のことである」と書 いたことにハーンは非常に驚いたそうです。彼はこよなく日本を愛し日本文化を深く理解した人 ですが、それでも日本人が持つ独特の死者崇拝に対しては驚いたのです。これは決して過去の物 語ではなく、現代でもなお大多数の日本人が「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」とい う状態ではないでしょうか。言い換えるなら、人間はどんなに時代が変わっても自分の死の問題 を乗り超えることはできないのです。漠然とした「草葉の陰の命」にさえ拠り縋ってしまうのが 人間なのです。  私たちが信じる「永遠の生命」とはそのようなものではありません。聖書が私たちに告げる「永 遠の生命」の確かさは、古今東西のいかなる“死後の生命”の思想とも決定的に違うのです。そ れはその生命の主が十字架と復活の主キリストであられることです。パウロが「キリストの内に 隠されている」と語るのは「十字架の主による罪の贖いなくして永遠の生命はありえない」とい う意味です。そこで私たちの教会の大切な信仰の遺産1563年の“ハイデルベルク信仰問答”の 問57と58にこう語られています。まず身体のよみがえりと永遠の生命について「私たちは何 を信ずるか」を問57が明らかにしています。「わたしの魂が、この生命の終わった後に、直ち に、かしらなるキリストのもとに、受けとられるばかりではなく、このわたしの肉が、キリスト の力によって、甦らせられて、再び、わたしの魂と一つにせられ、キリストの栄光のからだに似 せられる、ということであります」。そして続く問58はこう語るのです。「(問)永遠の生命の項 は、どんな慰めを、与えますか。(答)わたしが、いますでに、心の中に、永遠の喜びの初めを受 けていますように、この生命の終わった後にも、人の目もいまだ見ず、人の耳もいまだ聴かず、 誰の心にも、今まで浮かんだことのない、完全なる祝福を持ち、そのうちにあって、神を、永遠 に、讃美するようになることであります」。  使徒信条の最後、つまり「アーメン」のすぐ前には「われは…身体のよみがへり、永遠の生命 を信ず」と告白されていますが、この2つの告白はひとつのものなのです。つまり「肉体は汚れ ているが霊魂は清い」というような霊肉二元論はキリスト教の福音には微塵もありません。いわ ゆる仏教の語る「欣求浄土・厭離穢土」という思想は主イエスの御教えではないのです。むしろ 私たちはハイデルベルク信仰問答において、何よりも聖書の御言葉そのものによって、驚くほど 単純明快なひとつの事実を確認します。それこそ私たちに与えられている「神の真実」です。そ れは、私たちは死んだのち「ただちに、かしらなるキリストのもとに、受けとられる」ことです。 それこそ今朝の御言葉で言う「あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されている」 (キリストと共に神の内に、終わりの日まで堅く守られている)恵みです。私たちの全存在が、 肉体も心も魂も、その全体が「ただちに、かしらなるキリストのもとに、受けとられる」のです。 この「受けとられる」と訳された元のドイツ語は「抱き止める」という言葉です。肉体の死とい う何びとも乗り越えられない断絶を超えて、主なるキリストが私たちの全存在をご自身の恵みの 御手に「抱き止めて下さる」。それが私たちの救いそのものなのです。そのために主は十字架に かかって下さった。教会のいちばん高いところに十字架が掲げられているのは、この主イエス・ キリストの恵みのみが全世界の救いであることを全ての人々に告げるためです。  私たちは自分の死において何の支配を観るのでしょうか?。それは罪と死の暗い支配などでは なく「かしらなるキリスト」のご支配なのです。その永遠の恵みのご支配の内に、今も、肉体の 死の後にも、私たちの全存在が主に「抱き止められている」のです。ローマ書8章38節以下を 心に留めたいと思います。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来 のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリ スト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。だから私 たちの教会は「煉獄」の教理を持ちません。煉獄の教理がないのですからパトロン(守護聖人) は必要なく、従って洗礼名も持ちません。英語で煉獄のことをパーガトリィ(清めの場所)と言 います。死者は天国に行くために生前の罪を煉獄において清められねばならない。50年かかる か100年かかるかわからないと言うのです。しかし私たちはキリストのみが唯一永遠の贖い(本 当の清め)を成し遂げて下さったことを信じるゆえに、煉獄の思想からも免罪符(贖宥)の教理 からも自由です。救いは少しも人間の功績によらず、ただキリストの贖いの恵みによるのです。  そして、私たちが主から戴いている死を超えた慰め(救い)はそれに尽きません。先ほどのハ イデルベルク信仰問答の問58にあったように「このわたしの肉が、キリストの力によって、甦 らせられて、再び、わたしの魂と一つにせられ、キリストの栄光のからだに似せられる」慰めと 幸いと祝福を、実に私たちはいま主から戴いています。この「栄光のからだ」とは今は隠されて いて終わりの日に明らかになる「復活のからだ」です。それなら、何よりもそれはいまここで私 たちが連なる「キリストの復活のからだ」なる教会のことではないでしょうか。教会に連なるこ とはキリストの救いの主権に堅く結ばれることです。終わりの日の「復活のからだ」を先取りす ることです。罪によって「主の前に失われていた者」でふった私たちの「滅び」を主は引き受け て十字架に死んで下さった。だからこそ今朝のコロサイ書3章3節で「あなたがたはすでに死ん だものであって」と語られるのは喜びの宣言です。私たちはキリストの御身体なる教会に結ばれ て「栄光のからだ」(神を崇め人を愛する生涯)を生きる者とされているのです。  まさにいま歴史の中で、人生のただ中で、主の教会に結ばれて、私たちは「いますでに、心の 中に、永遠の喜びの初めを受けているように、この生命の終わった後にも、人の目もいまだ見ず、 人の耳もいまだ聴かず、誰の心にも、今まで浮かんだことのない、完全なる祝福を持ち、そのう ちにあって、神を、永遠に、讃美する」者とされているのです。いま既にこの礼拝がその祝福の 生命にあずかる者たちの喜びの集いです。私たちの信仰生活はいろいろな苦しみや悩みがあるで しょう。しかし主は選びたもうた僕たちを堅く御手のうちに支え、揺るぐことのない者とし、終 わりの日の完成へと導いて下さいます。ハイデルベルク信仰問答の問1を読んで終わりましょう。 「(問)生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。(答)わたしが、身も 魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キ リストのものであることであります」。栄光がただ神にのみありますように。