説     教   詩編130編1〜8節   ヨハネ福音書5章1〜9節

「主イエスの訪問を受けて」

 平塚富士見町教会 2012・06・24(説教12261436)  エルサレムの北に「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。「ベトザタ」とはヘブライ語で 「憐れみの家」という意味です。その名には理由がありました。この池の周囲には「五つの廻 廊」があり、そこには屋根があったものですから、その下に行けば強い陽射しと暑さを避ける ことができる。人も集まり飲水にも困らない。自然とそこにいろいろな病気に苦しむ人たちが 集まって生活するようになったのです。主イエスの時代には相当な数の病人たちが集まって共 同生活をしていたようです。  しかし、病気の人たちがベトザタの池に集まっていのは、何よりもそこに「癒し」を求めた からでした。この池には古くから言伝えがありました。それはいつ起るかわからないけれど、 ある日なんの前触れもなく天使が池の水を動かすことがある。そのときいちばん最初に池に飛 びこんだ人はどんな病気も癒されるという言伝えでした。つまり病気に苦しむ人たちがこの池 の周囲に集まっていたのは、まさにその瞬間を期待してのことでした。そのベトザタの廻廊の 片隅に「三十八年も病気に苦しんでいる人」がいました。寝たきりのまま家族や友人たちから も見放され、廻廊の隅に孤独に横たわっていた人でした。この人も最初は「癒し」を期待して ここに来たのです。しかし癒されぬまま気の遠くなるような長い年月だけが過ぎてゆきました。  もうどうでも良くなっていました。言伝えどおり年に1度か2度、池の水が泡立つことがあ りました(間欠泉のようなものだったのでしょう)。するとたちまち怒号とも悲鳴ともつかぬ 叫びが廻廊中にわき起こるのです。人々が叫びながらわれ先にと他の病人たちを踏みつけ押し のけて池に殺到するのです。この人がようやく体を起した時には既に誰かが飛びこんでしまっ た後なのです。あとには空しさと疲れが残るだけです。このようにして38年が経ちました。「憐 れみの家」とは名ばかりの地獄絵のような人間のエゴを嫌というほど見つめてきたのです。た だでさえ動けないこの人を諦めと絶望がさらに強く寝床に縛り付けていたのです。  この人のもとに、主イエスが訪ねて下さいました。主イエスは私たちのもとに訪問して下さ います。身動きさえできないこの人は私たちの姿です。この私たちのところに主イエスみずか ら訪問して下さいました。主イエスは私たちが力なく横たわっているのをご覧になり、また「も う長い間病気であるのを」知りたもうて、慈しみのまなざしを私たちに注がれます。うつろで 無力な私たちのまなざしと主イエスのまなざしが出会う瞬間です。そこに驚くべき言葉が主の 御口から出ます。なんと主は私たちに「良くなりたいか」とお訊きになるのです。私たちは驚 いてしまいます。はっきり戸惑いをさえ感じます。不思議な言葉です。私たちは38年間も「寝 たきり」だったのです。そのような病人に対して「良くなりたいか」とは!。非常識かつ失礼 な言葉でさえあります。しかしまさにそれこそ私たちの魂の急所を衝く主の言葉なのです。  ドストエフスキーは「人間の本当の怖さはあらゆることに慣れてしまうことだ」と申してい ます。この「慣れる」とは良い意味ではなく「感覚が麻痺する」という意味です。「安住して しまう」ということです。私たちは人生の様々な苦しみや悲しみの中で、いつの間にか自分で 勝手に心地の良い窪みを作り、そこに蹲ってしまうことはないでしょうか。実はそこに人間の 本当の怖さ(本当の病い)があるのです。それは自分の重荷を自分だけで背負わねばと決めつ け、まことの神からの「救い」(本当の癒し)を期待しなくなることです。「癒し」を意味する 英語には「キュア」「ケア」「ヒール」の3つがあります。厳密な区別はできませんが「キュア」 は肉体の癒し「ケア」は「心の癒し」そして「ヒール」は魂をも含めた「人間全体の癒し」で す。私たちは「キュア」と「ケア」を求めて、神の恵みの招き(ヒール)が見えなくなってし まうのです。主イエスが訪問して下さっても、それを受け入れない者になってしまうのです。 そのようにして、あんがいここに集う私たちも自分だけを頼みにして生きています。強いから ではありません。むしろ私たちは弱さや失望の中でこそ、いっそう頑なになり、しぶとく自分 の殻に引き籠もり、勝手な平安を作り、そこに蹲ってしまうのです。  この人も同じでした。本来「憐れみの家」とは弱い人から先に癒されるべき場所でした。し かし現実は逆でした。少しでも強い者、動ける者、パトロンがいる者が先に池に飛びこんでし まう。彼が38年間も「寝たきり」だったのも「弱さ」のゆえでした。こうした弱肉強食の矛 盾、人間どうしのエゴの中で、いつのまにか私たちの心にも「慣れ」が忍びこんでくるのです。 他者も自分をも審く思いに捕らわれるのです。「結局は自分だけが頼りなのだ」という頑なな 思いがいっそう強く私たちを寝床に縛りつけるのです。しかし私たちはいま「主イエスの訪問」 を受けています。私たちは訪問して下さった主に、どうお応えすべきなのでしょうか。  聖書は既に創世記の最初の3章で、アダムとエバが神の御言葉に叛き神の御顔を避ける者に なったことを語っています。そこに私たちの罪の本当の姿が示されています。「あなたはどこ にいるのかむと訪ねて下さる主の御顔を避けて、私たちこそ頑なに自分に捕らわれていないで しょうか?。真の「癒し」はただ神にのみあることを否定して、頑なに寝床に留まろうとして はいないでしょうか?。空しい「隠れ家」を作って蹲ってはいないでしょうか?。神に対する 罪が恐ろしいのは、それが私たちの目には快適な「隠れ家」のように見えることです。罪は私 たちにとって心地よいのです。「ここに逃げればあなたは楽になれるのだ」という悪魔の声を 聴くのです。その悪魔の声に従って蹲りそうになる私たち、否すでに蹲ってしまっている私た ちを、主イエスの御声だけが立ち上がらせて下さるのです。「良くなりたいか」とは、まさに そのような御声なのです。  「良くなりたいか」。ただこの主イエスの御声のみが私たちを、私たちが生きるべき本当の 癒しと自由と喜びへと立ち上がらせて下さいます。主イエスの訪問を受けているということは、 いま既にあなたのもとに主が共にいて下さることです。大切なことはただひとつです。いま私 たちがこの主の訪問をありのままに受けることです。「良くなりたいのか」と訊ねて下さる主 の御声に信仰をもって応えることです。なぜなら、ここには全ての人に対する主イエスの確か な招きがあるからです。マタイ伝11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしの もとに来なさい。休ませてあげよう」。そして続くマタイ伝11章29節が大切です。「わたしは 柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは 安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。ここに「わた しは柔和で謙遜な者だから」とあります。ここを私たちはどう読んでいるでしょうか?。これ は「私はあなたの罪のために十字架を担った者である」という主イエスの恵みの宣言なのです。 そうすると、今朝の御言葉で私たちが主イエスの訪問を受けたのは、実は十字架の主の訪問を 受けているのです。その十字架の主が私たちに、ご自身の十字架の贖いの恵みを通して語って 下さるのです「良くなりたいか」と!。まさにこれこそが私たちへの、主がなしたもう唯一の 真の「癒し」への招きなのです。  スイスの優れた説教者・聖書学者でもあったヴァルター・リュティという人が、ある説教の 中で、自分が実際に接し牧会をした一人の病気の男性の言葉を引用しています。この男性は重 い病の中で死を意識したとき、恐ろしい真っ暗な「淵」の前に立たされていることを感じまし た。そして主に問うたのでした。なぜ私はこんなに恐ろしい淵の前に立たねばならないのです か?。特に悪いことをしたわけでもないのに…。しかしそのとき彼はひとつの最も大切なこと を示されたのでした。それは彼がそれまでの人生を「神との関係なしに生きてきた」という事 実でした。礼拝者として生きていなかった。主に贖われた者として生きていなかった。それこ そ彼に与えられていた本当の「癒し」なのに、彼は主の招きを拒み続けていたのでした。まこ との神にではなく虚しい自分に拠り頼み、そして彼は病んで動けなくなっていたのです。私た ちも同じではないでしょうか?。この男性はこの経験を通して、自分は本当に神の招きに従わ ねばならない、そうしてこそ「癒される」存在だと確信したのでした。この男性はその想いを リュティ牧師に「一筋の光」に喩えて語ったそうです。「その光の中で、キリストの招きの中 で、キリストが共にいて下さる恵みの中で、私はいつしか祈っていました。そうです、聖書の あの「会堂づかさの祈り」に声を合わせていました。『主よ、われ信ず、信なきわれを助けた まえ』と」。  今朝の御言葉のこの人も、主イエスのご訪問がなかったら、そして主が「良くなりたいか」 と問うて下さらなかったら、自分がどこにおり、どこにいなかったのかを知らぬまま生きてい たでしょう。彼は主に向かって申します。あるがままの自分を主に委ねるのです。「主よ、水 が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの 人が先に降りて行くのです」。なんとこの人はここでイエスを「主」と告白しています。彼は 自分を支配していた絶望のあるがままを主に委ねるのです。「全ての人を照らすまことの光」 として世に来られた「主」がいまこの人の全存在を照らしているのです。そこでこそ全く新し いほんとうの「癒し」が起ります。名ばかりの「憐れみの家」が「キリストの憐れみ」に満た される時がいま来ているのです。この人も想像しえなかった神の御業が現れるのです。「神が あなたを癒して下さる」その恵みの出来事がこの人の上に、私たち一人びとりの上に、そして この全世界のただ中に起こるのです。  主イエスははっきりとお命じになります。8節の御言葉です。「起き上がりなさい。床を担い で歩きなさい」と!。絶望に蝕まれ、安住し、縛り付けられていた私たちとこの世界に、ただ 主イエスのみが唯一まこと「癒し」(十字架による贖い)を与えて下さいます。それまで私た ちを支配していた罪に代わって、キリストの愛と恵みの勝利が私たちを支配して下さるのです。 私たちのために十字架にかかり、死して葬られたまい、甦られた主の御功(キリストの義)が 無条件で、私たちの死せる“からだ”を甦らせて下さるのです。死の床から立ち上がらせて下 さるのです。そのとき私たちは、自分が憎みつつも安住していた絶望という名の死の床を「立 ち上がって担う」者とさえならせて戴けるのです。あなたこそその人なのだと主ははっきりと 告げて下さるのです。主が私たちを新たにして下さるとき、まさにこの礼拝において、この教 会において、十字架と復活の主に結ばれた新しい一週間の生活において、キリストの祝福の生 命が私たちの死すべき“からだ”を覆いたもう「癒し」に私たちは生きる者とされているので す。  主はいま、はっきりと宣言して下さいます。私があなたの罪を十字架で贖った。あなたの全 存在を私が担い取ったと…。そしてご自分の復活の身体である教会に私たちを連ならせ、私た ちに復活の生命、新しい祝福の生命を与え、主が共におられる真の「癒し」を受けて歩む者と して下さるのです。まさに私たちの教会はその祝福の生命に連なって歩み、そのキリストの唯 一の「癒し」を世に証しする群れです。真の「癒し」はキリストによる救いのみです。それは 現実からの逃避でも妥協でもなく、十字架の主が私たちを訪問して下さるとき、私たちは昨日 まで私たちを縛りつけていた現実を、今日からは担って立ち上がり主と共に歩む者とされてゆ くのです。人間を滅ぼす罪の現実を主が担い取って下さったゆえに、ただ主の慈しみのゆえに、 立ち上がって主の平安に歩む私たちとされているのです。  私たち一人びとりがいま、主イエスの訪問を受けています。主の御言葉と救いの御業にあず かる者とされています。そこに私たちの、また全ての人の変わらぬ祝福があり、生命があり、 本当の「癒し」があるのです。