説    教    詩篇34篇6〜9節   エペソ書4章17〜24節

「心の深みまでも」

2012・06・17(説教12251435)  私たちは厳しい言葉を聞くのは嫌なものです。昔から「良薬口に苦し」と申しまして「苦い」 言葉が必要な時がある。それでも私たちはやはり嫌がります。たとえそれが聖書の言葉(神の 言葉)であっても、できれば厳しい言葉は聞きたくないというのが私たちの本音ではないでし ょうか。そのような私たちに今朝の御言葉は「苦い」と感じられるかもしれません。しかしそ こにこそキリストが出会っていて下さるのです。今朝のエペソ書4章17節以下の御言葉です。 「そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で 歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とに より、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをし て、放縦に身をゆだねている」。  これを聴いてなお私たちは思うかもしれません。「本当にこれは自分の姿なのだろうか?」 と…。むしろ私たちは「これは私の姿ではない、ここに書かれていることは自分とは無関係だ」 と思うかもしれないのです。私たちは「エペソ人への手紙」は「エペソ人」へのものだと、ど こかで割り切っているのです。「主よ、私はこれほど酷い人間ではありません」と言い訳をし ながら御言葉を読んでいるのです。しかし何よりもこの19節に「自ら無感覚になって」とあ ります。これは原文を直訳するなら「自分を自分の願いに委ねる」という意味です。自分を自 分の願いに委ねて生きる。自分を「主」とする。それこそ私たちが普通にしていることではな いでしょうか。「無感覚になって」とは「自分を主とする罪」が「当然のこと」になっている という意味です。  福音によって新たにされた喜びからいつの間にか後退して、気が付けば旧態然たる自分を甘 やかし宥めながら生きている。キリストが「主」なのではなく自分の願いが「主」になってい る。そこにこそパウロはエペソの人々の、否、今日の私たちの罪の姿を見ています。だから厳 しい言葉を語らざるをえませんでした。18節に「無知」とあることは、ただ「知識がない」と いうことではなく「キリストの恵みの豊かさを知らずに生きている」という意味です。さらに 言えば「キリストの招きを拒んで生きている」ということです。そこから「心の硬化」が起こ っている。これは凄い言葉ですね。魂の動脈硬化が起こっているというのです。ここには文字 どおり「心が石になる」という意味のギリシヤ語が用いられています。マルコ伝3章5節に、 安息日に手の不自由な人を癒された主イエスの行為を非難したパリサイ人らに対して、主イエ スが「(彼らの)心のかたくななのを嘆かれた」とある、その「かたくなな心」というのと同 じ言葉です。他の誰のことでもない、私たち自らの心なのです。  宗教改革者カルヴァンは、そのような「かたくなな心」を“キリスト教綱要”という本の中 で「いのちの虚像」と呼びました。いっけん生命があるように見える。しかしそれは形だけの ことで、自分を「主」とする私たちの心は、魂は、それこそ石のように「かたくなに」なって、 硬直化して、生命を失ってしまっている(虚像になっている)。だからこそパウロはすぐその あとで「神のいのちから遠く離れ…」と語らざるをえませんでした。この「神のいのち」とい う言葉が今朝の御言葉の大切な点です。  私たち人間の混乱した姿(悲惨さ)はどこに由来しているのか?。どうして私たちの生命は 「硬直化」し「虚像」になってしまっているのか?。それは私たちが「神のいのちから遠く離 れ」ているからだと聖書は明らかにしているのです。その結果、私たちは自分の人生を「キリ ストの愛と恵み」の上にではなく「自分の願い」の上に立ててしまっている。例えて言うなら、 堅固な建物の土台とはなりえない砂地の上に家を建てようとしている私たちだ。だから風が吹 き、また濁流が押し寄せれば「倒れてしまうほかはない」と言うのです。そのことが今朝の19 節に「放縦に身を委ねている」という厳しい言葉で現わされているのです。これは根本的な御 言葉です。「人生の土台を失っている」という意味なのです。  「四国八十八ヶ所霊場」というのがあります。四国全体が霊場(お遍路さんの巡礼道)であ る。そこに有名な男性のお遍路さんがいました。テレビ局から何度も取材を受け新聞にも載っ た人です。何十回も八十八ヶ所霊場を回っていたそうです。人間の本当の生きかたはかくある べきものだと取り上げられた。しかしその人の正体は何であったかと言いますと、十数年前に 殺人の罪をおかして逃亡中の指名手配犯だったのです。この人は巡礼の名に隠れて罪から逃げ ていただけでした。それは巡礼ではなく放浪に過ぎません。私たちも実は同じなのです。真の 神の前に罪が贖われないままの人生は(どんなに清い生活をしても)「放浪」に過ぎないから です。巡礼が罪を贖うのではありません。私たちの「人生」は贖い主なるキリストを信じては じめて生命あるものになるのです。  だから今朝の御言葉の「放縦」という厳しい言葉は「勝手気まま」という意味ではなく「魂 の故郷を(人生の土台を)失っている」ということです。人生は無目的な放浪になってはいけ ない。私たち人間は、生ける神との交わりを「神のいのちから遠く離れ」たままではいけない。 そこには自由と幸いはなく、たとえ全世界を手にいれようとも「神のいのちから遠く離れ」て は全ては空しいのです。まさにそれこそパウロの時代のエペソ、否、今日の日本社会が抱えて いる根本問題です。「衣食足りて礼節を知る」と申しますが、現代は「衣食足りて神から離れ る」時代です。だからこそ今朝の御言葉には「(あなたがたは)異邦人が空しい心で歩いてい るように歩いてはならない」と告げられています。これは「教会生活」(礼拝生活)を大切に しようということです。キリストがご自身の生命をもって贖い取って下さったあなたなのだ、 だからあなたはその主の恵みにいつも根ざして歩みなさい。あなたは既にそのような者とされ ている。まさにその、いま私たちを生かしめている豊かな祝福(神のいのち)があなたを支え ているではないか。だから私たちは「空しい心」(生命の虚像)に歩まず、主に結ばれて歩も うではないか。主に結ばれてこそ私たちは「異邦人」ではありえないからだ。そのように今朝 の御言葉は語っているのです。  未受洗者にも聖餐のパンとブドウ酒を配るべきだと主張し、警告に反して実行して、ある牧 師先生が牧師資格停止の処分を受けました。その人が日本基督教団を訴えて裁判を起こしまし た。理由は「基本的人権を奪われた」というものです。この世の裁判に委ねたということは、 神学的な、神の言葉の問題はどうでも良く、問題は基本的人権にあると言うのです。それは根 本的に違うと思います。キリストの御身体なる教会を建てることが牧師の務めです。牧師と教 会の関係は雇用関係ではありません。キリストに仕えることです。だから大切な問題の一切は 御言葉にあるのです。それを除いた「基本的人権」とは罪人の自己主張にすぎません。ここで も人間が「主」になっています。パウロは今朝の20節にはっきりと語っています。「しかしあ なたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、 彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたが たは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにさ れて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。  パウロもかつてはパリサイ人として、誰よりも強いこの世の「誇り」に生きていた人でした。 いわば「キリスト無しの基本的人権」に生きていたのです。しかしパウロはピリピ書3章にこ う語ります。「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思 うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価 値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失った が、それらのものをふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを知る信仰による義、すなわち、信仰に基づく神から の義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。ここにパウロは「キ リストのうちに自分を見いだす」喜びを語ります。これこそキリストにあって(結ばれて)「新 しき人を着ること」です。今朝の21節に「イエスにある真理をそのまま学んだ」とあること です。主私たちのためにして下さった救いの御業を「そのまま」に受けることです。主を信じ て教会に連なり、礼拝者として歩み、主の教会に仕えることです。パウロは言うのです、自分 は「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」はじめて人生の放浪者でなくなった。 空しい自分の義ではなく「キリストを信じる信仰による神からの義」(キリストによる神の永 遠の愛と祝福)に生きる者となったのだ…。  パウロは福音の光に照らされて、はじめて自分が「罪人のかしら」であることを知りました。 滅ぶべき「異邦人」とは実にこの私である。その「生まれながらの滅びの子」であった私を救 うために、キリストは世に来られ十字架にかかられ、ご自分の生命の全てを献げて私たちの罪 の贖いとなり、義と生命となって下さった。このキリストの「絶大な恵み」をパウロは全ての 人々に語るのです。ただこの十字架の主のみが、あなたを罪から救う唯一の「主」であられる。 十字架の主を信じて教会に結ばれて生きるとき、私たちはもはや「神のいのちから遠く離れ」 た者ではありえない。「神のいのち」そのものであられる主が私たちの贖い主であられるから だ。キリストの生命の祝福が私たちの「石の心」さえも砕くのです。神の愛に感謝し応えて生 きる新しい人生がそこに始まるのです。  だから「心の深みまでも新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新 しき人を着るべきである」。なんと命令形です。「(あなたはいま)新しき人を着なさい」と私 たちを生命の祝福へと命令しておられるのです。神の恵みの招きです。あなたはいま「新しき 人」すなわちキリストを「着る」者となりなさい。キリストの永遠の生命の祝福があなたの全 存在を覆って下さる。主が私たちの全生涯を御手の内に堅く守り導いて下さる。死ぬ者が死な ないものを着、死がキリストの生命に呑まれてしまったのです。キリストの勝利が私たちを覆 って下さるのです。  まさにその、キリストの勝利の御手に守られ支えられつつ、私たちは永遠の故郷である主の みもとに召されるその日まで、主に結ばれた旅人として主の祝福の内を歩み続けます。やがて 主の救いの御業が全世界に完成するその日、私たちは主の生命・主の義をまとって、永遠の讃 美と平和のうちに御前に立つ者とならせて戴いているのです。いまこの礼拝者としての歩みの 中に、私たちは既に主の義に覆われた者としてここに連なっている。まさにいま「心の深みま で新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」者として、 心新たに主の恵みに応える生活を送って参りたいと思います。