説    教   出エジプト記20章8〜11節  マタイ福音書12章1〜8節

「安息日の主」

2012・06・10(説教12241434)  私たちの教会の週報には礼拝順序のいちばん上に「主日礼拝」と書いてあります。この「主 日」とは「主の日」つまり「主イエス・キリストの日」という意味です。同じように聖書の中 には「安息日」という言葉も出て参ります。主なる神は十誡の第四誡に「安息日を覚えてこれ を聖とせよ」とお命じになりました。私たちは一週間の最初の日・日曜日を「主の日」「安息 日」として聖別し教会で礼拝を献げます。教会とは「主の日」である「安息日」を聖別し礼拝 に生きる群れです。教会の生命は「安息日」の礼拝をいつも真実に献げ続けていることにあり ます。こういう想像をしてみたらどうでしょうか。日曜日の朝みなさんが一所懸命この坂道を 登って葉山教会に来る。すると入口に紙が貼ってある。「今日は雨がひどいので礼拝は休みま す」。想像することもできません。ありえないことです。私たち旧日基の先輩たちは「たとえ 槍が降ろうとも」と申しました。たとえ空から槍が降っても礼拝は休まない(槍が降ったら困 るのですが)。そういう心をもって「安息日」を重んじたのです。教会はペンテコステ以来一 日の休みもなく主日礼拝を献げ続けてきました。その歩みは旧約の時代から数えるなら4000 年間一度も途絶えたことはないのです。  いわゆる週休制度、7日をひと巡りとしてそのうちの一日を休日とする習慣は古代バビロニ アの太陰暦に起源を持つと言われます。太陰暦ではひと月は28日ですからそれを4等分すれ ば7日になる。そこから一週間を7日とする暦が始まったと言うのです。しかしその7日目が 「安息日」と定められたのは神の御言葉によります。古代イスラエル以来私たちの教会は日曜 日を特別な「主の日」(礼拝の日)として守り続けてきました。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」。 あるユダヤ教の哲学者はこの「聖とする」という言葉を「主の勝利を祝う」と訳しています。 素晴らしい訳です。イスラエルの民は安息日の誡めに、全ての人を生かす本当の自由と祝福へ の招きを聴き取ったのです。  世界万物を創造された主なる神は全ての者を限りなく愛し、私たちをご自身の「勝利の民」 として祝福の生命に招いておられるのです。私たちの人生は、生き、飲み食いし、働き、死ぬ ことで終始するものではない。またどんなに人生が不条理な出来事に覆われましょうとも、私 たちはすでにキリストによる罪の赦しの恵みを戴き、十字架において死に勝利したもうた主に 結ばれて生きる僕とされているのです。だから「あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、は しため、家畜、またあなたの門の内にいる他国の人もそうである」とは大切です。この生命の 祝福は「生命の門」(キリスト)を通して御国の民とされた全ての人に無条件で与えられてい る恵みです。続いて「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七 日目に休まれた。それで主は安息日を祝福して聖とされた」とあります。「安息日」を守るこ とはこの世界を神が救いに導いて下さることを確認することです。だから「安息」とはただ単 に“仕事を休む”という意味ではありません。私たちがそれぞれの人生のただ中において、今 ここにおいて神の祝福と生命と希望にあずかる者とされていることです。「主の勝利を祝う」 こと、それが「安息日」という言葉の本当の意味なのです。  イスラエルで「安息日」のことを“シャバース”と申します。ヘブライ語で「第七日目」と いう意味です。旧約の時代にはこの「第七日目」の「安息日」は土曜日のことでした。ひとつ の思い出があります。かつてエルサレムで古びた宿に泊まった時のことです。部屋の壁に「シ ャバース」と書いた赤いスイッチがありました。まあそもそも「赤いスイッチ」というのが気 になりますね。宿の人に訊ねますと、これをあらかじめ押しておけば安息日が始まっても自動 的に部屋の明かりが灯る仕組みだとのことでした。スイッチを押すことさえ「わざ」であると 解釈する、それほど厳格に「安息日には何のわざをもなすべからず」を守ろうとするユダヤ人 の姿には感動を覚えました。  しかし、これが形式になるとおかしなことになるのです。ある安息日のこと、主イエスは弟 子たちと共に麦畑の中を歩んでおられました。空腹を覚えた弟子たちは麦の穂を摘み掌で揉ん で食べ始めたのです。するとそれを見咎めたパリサイ人らが「安息日の食物規定に反する」と 言って騒ぎ始めた。麦の穂を摘むことは収穫の「わざ」にあたるという解釈でした。それに対 して主イエスは「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それ だから、人の子は、安息日にもまた主なのである」とお答えになったのです。主が言われたこ とは、安息日は掟のためにあるのではなく、喜びの祝日、全ての人のための「礼拝の日」であ るということです。私たちが天の祝福にあずかる日なのです。  私たちにとっていちばん大切なことは「安息日の主」は唯一の救い主イエス・キリストであ られるという事実です。「安息日」がただの日曜日ではないのは、招きたもう主がそこにおら れるからです。私たちを招いて下さる主の恵みにおいてこそ「安息日」になるのです。私たち が「主の日」ごとに礼拝を献げるのは「規則だから」ではありません。なによりも十字架の主 みずからご自分の生命を献げて、何の値もない私たちをあるがままに祝福と生命へと招いてい て下さる。私たちはただ主が招きたもうその御招きに喜んでお従いするのみです。だから主イ エスは会堂の中で片手のなえた人を癒したことを「安息日の掟に反する」と非難したパリサイ 人らに対して「安息日に善を行なうのと、悪を行なうのと、命を救うのと殺すのと、どちらが よいか」と厳しく問いたまいました。そして癒しの御業を断行されたのです。ベテスダの池の 廻廊の片隅で38年間も病気に苦しんだ人を癒されたのも安息日でした。そのときも主は「わ たしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われてパリサイ人らの 形式主義を退けたまいました。私たちが罪の支配から解放され、聖霊なる神のご臨在のもと新 しい生命に生かされることが安息日の祝福なのです。  主イエスは「安息日」の律法を無視されたのではなく、むしろその律法を完成し成就された のです。福音書を見ますと、主は安息日にはかならず会堂で礼拝を献げておられたことがわか ります。主イエスご自身が最も敬虔な礼拝者であられました。この礼拝の精神を主から受け継 いだ弟子たち、そして初代教会の人々は日曜日を「主の日」(安息日)として礼拝を献げるよ うになります。そこには大きな理由がありました。それは日曜日が主イエスの復活の日だから です。それで最初は土曜日に礼拝を献げていた教会も少なくとも西暦50年頃には日曜日を「安 息日」とするようになりました。キリスト教で「三大節」とは、クリスマス、イースター、ペ ンテコステです。そのうち最も古く祝われるようになったのはイースターです。そもそも「主 の日」の礼拝はイースター(主の復活の恵み)の上に成り立っている。その意味で毎週の主日 礼拝がイースター礼拝なのです。  いまここに、私たちのもとに御言葉と聖霊によって現臨しておられるのは復活の主ご自身で す。だから「安息日」には今ここにおける主の生きた救いの御業が喜び告げられるのです。宗 教改革者たちが礼拝の改革に心を注ぎ「安息日」を回復したのも、この「主の日」の喜びを回 復したことでした。このような「主の日」の喜びを人生の基軸とするとき、私たちの生活は根 底から変わってゆくのではないでしょうか。私たちはいまここで復活の主に出会っているから です。私たち一人びとりがいまこの「主の日」において「復活の主」と共に歩む者とされてい るからです。ネヘミヤ記8章10節を心に留めましょう。「この日はわれわれの主の聖なる日で す。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。  マタイ伝28章に主の復活の記事があります。空虚な墓の前で恐れる女性たちに天使は「恐 れるな」と主の復活の喜びを告げます。「イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あな たがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう」と…。ガリラヤは「異邦 人の地」と言われ私たちの「罪」の象徴でした。そこに復活の主は「先立って」行かれるとい うのです。私たちはまさに「異邦人の地」でこそ復活の主にお目にかかるのです。教会はまさ にその出来事、主の十字架による罪の贖いと復活による永遠の生命の証人です。だからこそ私 たちは古代イスラエルの民にまさる喜びをもって「主の日」を祝います。様々な苦労や心配や 悲しみに心塞がれて一週間を過ごした人も、その重く淀んだ心をあるがままに主の御前に携え て礼拝を献げます。主の御声を聴きに参ります。「あなたのために主は来られ、十字架にかか られ、復活され、そして再び来たりたもう」。この福音を全世界の救いの出来事として聴くの です。  病気になったり、入院したり、あるいは高齢のために礼拝に出席できない人もあります。た とえその人たちは肉体においてここに集えなくても、霊においては常にキリストの身体のかけ がえのない枝とされ「安息日」の恵みを与えられています。人の眼には無力に見えるところに 神の栄光は輝くのです。私たちは病院や老人ホームや病床において、教会のため牧師のため教 会員一人びとりのために多くの祈りが献げられていることを忘れることはできません。主はそ うした祈りに私たちの思いを超えて応えて下さいます。それがどんなに葉山教会を祝福し伝道 のわざを支えていることでしょう。こういう姉妹がいました。その姉妹は寝たきりのベッドの 上で「先生、私には祈ることしかできません。しかし、まさに祈る喜びを、主は与えて下さっ たのですね」と言われたのです。まさにそうした祈りの一つひとつが御国の宝です。そして祈 りを執成して下さる主の御手にあって、その姉妹も私たちも確かに「安息日を聖とする」幸い と祝福にあずかっているのです。  詩篇27篇4節を拝読しましょう「わたしは一つのことを主に願った。わたしはそれを求め る。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめるこ とを」。これは人生の戦いとは無縁な安全地帯にうずくまる者のロマンティックな詠嘆などで はありません。まさに人生と社会のあらゆる悩みや悲しみの中で、自分はただこのひとつの事 に生き続ける、この一事をのみひたすら主に願い続けると言うのです。わが生きるかぎり主の 家に住まい、そこで「主のうるわしきを見」主の御業の素晴らしさ、主の愛の尊さ、主の恵み の限りなさ、主の救いの豊かさを尋ねきわめること…。そして主の御手に堅く結ばれた者とし て生き続けること…。そこに私たちの永遠に変わらぬ喜びがあり、慰めがあり、勇気と平安と 幸いがあります。なによりも「安息日の主」が、勝利の主が、私たちと共にいて下さり、私た ちを支え導いて下さるのです。