説     教   詩篇130篇1〜8節   ヨハネ福音書5章1〜9節

「深き淵より」

2012・06・03(説教12231433)  エルサレムの北に「ベテスダ」と呼ばれる池がありました。「ベトザダ」または「ベツサイ ダ」とも呼ばれたようですが、本来の意味はヘブライ語で「憐れみの家」です。この池がその ように呼ばれたのには理由がありました。それはこの池の周囲に「五つの廻廊」があり、そこ には屋根があったものですから、その下に行けば強い陽射しを避けることができる。涼しくて 人も集まり飲み水にも困らない。自然とそこに様々な病気に苦しむ人たちがおおぜい集まって 共同生活を営むようになったのです。すでに主イエスの時代「ベテスダ」の池の廻廊は病気に 苦しむ人々の共同体のようなものになっていました。もとより病気の人たちが集まって来たの は、何よりもそこに「癒し」を求めたからです。  この池には古くからある言伝えがありました。それはいつ起るかわからないけれど、ある日 なんの前触れもなく天の御使いが池の水を動かすことがある。そのときいちばん最初に池に飛 びこんだ人はどんな病気も癒されるという言伝えでした。溺れる者は藁をも掴むという必死の 思いで、病気に悩む大勢の人たちがこの池の周囲に陣取り、まさにその瞬間を期待して身を横 たえていたのです。そこで、その廻廊の片隅に実に「三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人」 がいました。寝たきりのまま看取る人もなく、家族や友人や親戚からも見放され、廻廊の隅に 孤独に身を横たえていた人です。この人も最初は「癒し」を期待してここに来たのです。しか し癒されぬまま気の遠くなるような長い年月が過ぎてゆきました。もうどうでも良くなってい ました。  言い伝えどおり年に一度か二度、池の水が泡立つことがありました(今で言う間欠泉のよう なものだったのでしょう)。するとたちまち怒号と悲鳴が廻廊中にわき起こるのです。人々が 叫びながらわれ先にと、他の病人たちを踏みつけ押しのけて池に殺到するのです。この人がよ うやく体を起してた時には、既に誰かが飛びこんでしまった後なのです。あとには空しさが残 るだけです。このようにして38年が経ちました。「憐れみの家」とは名ばかりの地獄絵のよう な人間のエゴイズムを嫌というほど見つめてきたのです。ただでさえ病気で動けないこの人を、 諦めと絶望がいっそう強く寝床に縛り付けていたのです。  この人のもとに、主イエスが訪ねて下さいました。身動きすらできないこの人のもとに、主 イエスみずからが訪問して下さいました。主イエスはこの人が力なく横たわっているのをご覧 になり、また「長い間わずらっていた」のを知りたもうて、慈しみのまなざしを注がれました。 うつろで無力なこの人のまなざしと主イエスの慈愛のまなざしが交差しました。そこに驚くべ き御声が主の御口から出ます。なんと主はこの人に「なおりたいのか」とお訊きになったので す。驚くべき言葉です。私たちは戸惑いをさえ覚えるのです。とても不思議に感じます。この 人は38年間も「寝たきり」だったのです。そのような病人に対して「なおりたいのか」とは、 聴きようによっては非常識な問い、失礼な言葉でさえあります。しかしまさにそれこそがこの 病人の急所を衝く主の問いかけでした。  ドストエフスキーは「人間の本当の怖さはあらゆることに慣れてしまうことだ」と申しまし た。この「慣れる」とは良い意味ではなく「感覚が鈍くなる」という意味です。言い換えるな ら「安住してしまう」ということです。私たち人間はあらゆる出来事の中に自分で勝手に安住 の地を作り、勝手にそこに蹲ってしまうのです。そこに人間の本当の怖さ(本当の病い)があ るのではないでしょうか。「救い」(本当の癒し)を期待しなくなるのです。真の神の招きが見 えなくなってしまうのです。主イエスが訪問して下さっても、それを受け入れない者になって しまうのです。そのようにして、あんがいここに集う私たちもまた自分だけを頼みとして生き ています。自分を頼みとすることは身も心も強い人がするのではなく、むしろ私たちは弱さや 失望の中でこそ、いっそう頑なに、いっそうしぶとく、自分の殻の中に引き籠もり、勝手な平 安を作り、そこに隠れていることが多いのです。  この人も同じでした。本来「憐れみの家」とは、弱い者こそ率先して癒されるべは場所のは ずです。しかし現実は逆であった。少しでも強い者、動ける者、パトロンがいる者が先に池に 飛びこんでしまう。彼が38年間も捨て置かれたのはただ「弱さ」ゆえでした。こうした弱肉 強食の矛盾に直面すればするほど、いつのまにか私たちの心にもこの人の絶望と同じ「慣れ」 が忍びこんできます。それが他者と自分への審きとなって現れます。結局は自分だけが頼りな のだという開き直りが私たちをいっそう堅く寝床に縛りつけてしまう。「自分は癒されない、 救われない人間だ」という諦めが人生を支配するのです。その無力感の中でこそ私たちはいっ そう意固地に自己中心になります。絶望への安住が自分を守る「隠れ家」のように感じるので す。  すでに聖書は創世記の最初の3章において、アダムとエバが神の御言葉に叛き神の御顔を避 ける者になったことを語ります。私たちの罪の真の姿が描かれています。私たちこそ自分の無 力さの中で、神の御顔(真の癒しはただ神にのみあること)を避けて空しい「隠れ家」を作っ てしまう存在です。神に対する罪が恐ろしいのは、それが私たちの目には好ましく快適な「隠 れ家」のように見えるからです。罪の恐ろしさはそれが私たちにとって心地よいことにありま す。「ここに逃れればあなたは楽になれるのだ」という悪魔の声を聴くのです。その悪魔の声 に従って蹲りそうになる私たち、いやすでに蹲ってしまっている私たちを、主イエスの御声だ けが立ち上がらせて下さるのです。「なおりたいのか」とはまさにそのような御声なのです。  「なおりたいのか」。ただこの主イエスの御声のみが、絶望のうちに安住しているこの人を、 また私たち一人びとりを、私たちがほんらい立つべき、健やかに生きうる場所へと立ち帰らせ て下さいます。神が共におられるところです。神を求めている、神を信じていると言いつつも、 なおそこで適当な慰めを自分の手で捏造している私たち、どこかで主イエスの御力を侮ってい る私たち、キリストによる罪の赦しの恵みの素晴らしさ、その絶大な力を知らぬまま、キリス トの愛を知らぬまま、自分を頼みとして生きている私たち、その私たちに主イエスだけが問う て下さる。「なおりたいのか」と。これは私たち一人びとりへの主の御声です。主がなしたも う唯一の真の「癒し」への招きなのです。  スイスの優れた説教者であり聖書学者でもあったヴァルター・リュティという人が、ある説 教の中で、自分が実際に接し牧会をした、ある病気の男性の言葉を引用しています。この男性 は重い病の中で死を意識したとき、恐ろしい真っ暗な底知れぬ「淵」の前に自分が立っている ことを感じた。そして問うたのでした。なぜ自分はこんなに恐ろしい「淵」の前に立たねばな らないのか。特に悪いことをしたわけでも罪を犯したわけでもないのに…。しかしそのとき、 彼はひとつの最も大切なことを示されたのです。それは、彼がそれまでの人生を「神との関係 なしに生きてきた」という事実でした。礼拝者として生きていなかった。主に贖われた者とし て生きていなかった。それは彼に与えられていた真の「癒し」なのに、彼はそれを無視し拒み 続けていたのでした。真の神にではなく虚しい自分に拠り頼み、そして彼は病んで動けなくな っていたのです。私たちも同じではないでしょうか。この男性はこの経験を通して、自分は本 当に神の招きに従わねばならない、そうしてこそ「癒される」存在だと確信したのです。この 男性はその想いをリュティ牧師に「一筋の光」に喩えて語りました。その光の中で、キリスト の招きの中で、キリストが共にいて下さる恵みの中で、自分はいつしか祈っていた。聖書のあ の「会堂づかさの祈り」に声を合わせていた。「主よ、われ信ず、信なきわれを助けたまえ」。  今朝の御言葉のこの人も、主イエスのご訪問がなかったら、そして主が「なおりたいのか」 と問いかけて下さらなかったら、自分がどこにおり、どこにいなかったのかを知らぬまま生き ていたでしょう。彼は主に向かって申します。あるがままの自分を主に委ねるのです。「主よ、 水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほか の人が先に降りて行くのです」。この人はここでイエスを「主」と告白していることは大切で す。彼は自分を支配していた絶望のありのままを主に告げるのです。「全ての人を照らすまこ との光」として世に来られた「主」の御光がいまこの人の全存在を照らしているのです。そこ でこそ全く新しいほんとうの「癒し」が起ります。名ばかりの「憐れみの家」が「キリストの 憐れみ」に満たされる時を迎えるのです。この人も想像なしえなかったことです。「神があな たを癒して下さる」その恵みの出来事が彼の上に、そして私たちの上に、そしてこの全世界の ただ中に起こるのです。  主イエスははっきりとお命じになります。8節の御言葉です。「起きて、あなたの床を取りあ げ、そして歩きなさい」と!。絶望に蝕まれ、安住し、縛り付けられていた私たちに、そして この世界に、ただ主イエスのみがこの唯一の「癒し」を与えて下さいます。それまで私たちを 支配していた罪に代わって、キリストの恵みの勝利が私たちを支配して下さる。私たちのため に十字架にかかられ、死して葬られたまい、甦られた主の御功(キリストの義)が無条件で私 たちの死せる“からだ”を甦らせて下さるのです。死の床から立ち上がらせて下さるのです。 そのとき私たちは、自分が憎みつつも安住していた絶望という名の死の床を、立ち上がって担 う者とさえならせて戴けるのです。あなたにも、否、あなたにこそ、それができると主ははっ きりと告げて下さいます。主が私たちを新たにして下さるとき、まさにこの礼拝において、キ リストに結ばれた新しい一週間の日々において、キリストの祝福の生命が私たちの死すべき “からだ”を覆って下さる「癒し」に私たちは生きる者とされています。  主ははっきりと宣言して下さるのです。私があなたの底知れぬ罪を十字架において贖った。 あなたの全存在を私が担い取ったと…。そしてご自分の復活の身体である教会に私たちを連な らせ、私たちに復活の生命を与えて、祝福の新しい生命に生き、主が共におられる真の「癒し」 を受けつつ歩む者として下さるのです。まさに私たちの教会はその祝福の生命に連なって歩み、 そのキリストの唯一の「癒し」を世に証しする群れなのです。  真の癒しはキリストによる救いです。それは現実からの逃避でも、現実との妥協でもありま せん。主イエスが私たちを訪れて下さるとき、そして生命の御言葉を告げて下さるとき、生命 そのものでありたもうかたが私たちのために十字架を担われたゆえに、私たちは昨日まで私た ちを縛りつけ虜にしていた現実を、今日からは担って立ち上がり主と共に歩む者とされてゆく のです。人間を滅ぼす罪の現実を主が担い取って下さったゆえに、ただその主の慈しみのゆえ に、私たちは立ち上がって主の平安に歩むことができるのです。それが私たちの新しい「癒さ れた歩み」なのです。  私たち一人びとりがいま、この救い主キリストの訪問を受けているのです。主の御言葉と御 業に豊かにあずかっているのです。そこに私たちの、また全ての人々の、永遠に変わらぬ祝福 があり、救いがあり、本当の「癒し」があるのです。