説     教  エゼキエル書37章11〜14節  ローマ書5章1〜5節

「ペンテコステ・永遠の希望」 聖霊降臨日主日礼拝

2012・05・27(説教12221432)  今日はペンテコステ(聖霊降臨日主日)礼拝です。聖霊なる神によって主の教会が建てられた 記念の日です。ペンテコステとは「50日目」という意味です。キリストの復活から50日目の約 束の時に、弟子たちに聖霊が降り、そこにキリストを「主」と告白する教会が建てられました。 主イエス・キリストのご生涯は聖霊によって導かれました。聖霊はキリストの霊であると共に父 なる神の霊です。ということは、主の弟子たちが聖霊を与えられたということは、キリストに倣 う歩みがそこに始まったということです。私たちの信仰の歩みは聖霊よって始まり、キリストに 従う者とされ、終わりの主の日における完成へと導かれるのです。  主がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、聖霊が「はとのように」 主イエスの上に降り、十字架への歩みが始まりました。その時、父なる神の御声が響きました「こ れはわたしの愛する独子、わたしの心に適う者である。これに聴け」と。この御声は、私たちに も与えられている救いの約束であり新しい祝福の生命です。つまり、私たちもまたキリストの 霊・父なる神の霊である聖霊を受けることによって、父なる神に「これはわたしの愛する独子、 わたしの心に適う者である」と救いの宣言を戴く者とされていることです。キリストの十字架に よる永遠の救いと祝福の生活です。だから同時に父なる神は「これに(御子イエス・キリストに) 聴け」と、私たちをキリストに(御言葉に)聴く生活、御言葉に歩む新しい礼拝者の生活へとお 招きになります。それこそ聖霊の御業としての新しい生活です。  聖霊はキリストの霊ですから、それはキリストの御身体なる教会において働きたまい、私たち 一人びとりに与えられるのです。だから聖霊の導きによる新しい生活は、教会を離れ、礼拝生活 を離れてはありえません。逆に言うなら、私たちが聖霊を受け祝福の生命に生きるためには、私 たちの力や智慧ではなく、ただ主の御身体なる教会、聖霊の宮である主の教会に連なれば良いの です。なぜなら聖霊は私たちに世の全ての知識や知恵にまさるキリスト告白(真の信仰)を与え たもうからです。聖霊に拠らなければ誰も「イエスは主なり」と告白することはできないからで す。私たちの信仰の歩みは聖霊の賜物なのです。だから381年のニカイア信条では聖霊は「生 命の与えぬし」と告白されます。主にして生命を与える聖霊を私たちは信じます。この「生命」 とは私たちが生きるべき本当の祝福の生命です。死を超えてまでも私たちを堅く主に結んで下さ る生命です。だから主なる神の救いの宣言とそれはひとつです。「あなたはわたしの愛する者、 わたしの心に適う者である。あなたはわが独子キリストに聴く生活をしなさい」と、聖霊によっ て主なる神は私たち一人びとりに宣言して下さるのです。  さて、いま私たちのこの国は、また世界全体が、本当の「新しさ」(人間としての祝福の生命) を模索して試行錯誤している状態ではないでしょうか。特に昨年3月11日の東日本大震災と、 それに続く原発事故、そしてその結果である数限りない苦しみと悲しみは、経済大国と呼ばれて きた私たち日本人の生活のありかた、また未来図を根本的に問い直すものになりました。しかし、 しかし津波で廃墟になった場所に新しい町が復興したとしても、それが本当の「新しさ」なので はありません。本当の新しさ、そして人間を本当に生かす祝福の生命は、私たち人間の中にでは なく、歴史と世界の主なるまことの神にあるのです。なによりもそれは聖霊による新しさです。  主の弟子たちは絶望の中にいました。恐れと悲しみに心が閉ざされ、彼らは閉塞状態の中に留 まっていました。「戸も窓も」全て閉ざしていたのです。その弟子たちのただ中に復活の主が来 て御姿を現して下さいました。そして「聖霊を受けよ」と息を彼らに吹きかけて下さった。キリ ストの息、キリストの霊である聖霊を弟子たちに与えて下さったのです。やがてペンテコステの 出来事が起こります。使徒行伝2章1節以下にその記事があります。「五旬節の日がきて、みん なの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、 一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて 現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、 いろいろの他国の言葉で語り出した」。  このペンテコステの出来事によって、聖霊を受けて本当に新しくされた弟子たちは、全世界に キリストによる永遠の救いと祝福を宣べ伝えゆく使徒とされたのです。絶望の中に坐していた弟 子たちに聖霊が降ったとき、彼らはキリストによる祝福の生命を全世界に宣べ伝える主の弟子と されたのです。そこにキリストの教会が誕生しました。私たちの葉山教会もこのペンテコステの 日に起源を持つのです。私たちの教会もまた聖霊の宮なのです。ここに集う私たちこそ、礼拝と 日々の歩みを通して、周囲にいる人々に本当の新しさ、人間の本当の救いを、永遠の祝福と希望 を、現すものとされているのです。  東日本大震災の津波と原発によるあの廃墟に立った人たちは、みな無神論者になったと、ある 新聞が書いたそうです。それは違うと思います。いい加減な偽物の神ではなく、本当の神、人間 を救い自由を与える真の神を、人々は求めるようになったのではないでしょうか。そこで、今朝 のエゼキエル書37章11節以下には、まさに現代の日本に与えられている「聖霊による本当の 新しさ」「本当の人間の救い」が宣べ伝えられているのです。それは二千数百年前の過去の言葉 ではなく、現代日本に対する“真の希望の告知”です。すなわち、主なる神はエゼキエルに告げ て問われるのです。「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」と…。たぶんそこ は戦争によるおびただしい戦死者の遺体が野晒しになっていた、文字どおりの“死の陰の谷間” であったのでしょう。しかもそれらの骨は「みないたく枯れていた」と記されているのです。鬼 哭啾々たる廃墟、私たちが東北の被災地で見たのと同じ廃墟の前に佇んで、エゼキエルが神から 受けた問いは、まさにその枯れた骨(枯骨)の復活でした。この神の問いの前にエゼキエルは底 知れぬ畏れを抱きます。そして答えます、3節です「主なる神よ、あなたはご存じです」と。  もともとエゼキエルという預言者は、紀元前6世紀半ばごろのバビロン捕囚のただ中に召命を 受けた人です。ですからこれらの死者たちは、実はバビロンとの戦いに敗れた同胞イスラエル人 の亡骸であったのです。ひとつの国家が地球上から抹殺され、ひとつの民族が根絶やしにされる という恐ろしい荒廃のさまと、遠くバビロンまでの「死の行進」を経験した人なのです。そこで も大勢の同胞が死にました。そのようなまことに深刻な「終わり」の経験の中でこそ、エゼキエ ルは主なる神によって「これらの骨に預言せよ」(これらの骨に福音を宣べ伝えよ)と命ぜられ るのです。  廃墟に預言せよ、枯れた骨に福音を語れ、それが主なる神がエゼキエルにお命じになったこと でした。もし虚しいと言うならエゼキエルは虚しさの極致に立たされたのです。しかしそこでこ そエゼキエルは、神が命じたもうままに、廃墟に、枯れた骨に、福音を宣べ伝えました。十字架 の主イエス・キリストによる本当の救い、自由と永遠の希望を宣べ伝えたのです。そこに驚くべ きことが起こりました。それらの骨は肉を生じ、甦って生きた群衆の姿となったのです。「彼ら は生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群集となった」。私たちの救いは「99パーセント可能 性がないが、残り1パーセントの可能性によって救われる」というものではありません。「枯れ た骨」のように100パーセント救いの余地がない私たちであった。人間が“罪人である”とは そういうことです。谷川徹三という優れた思想家がこう語っています「今日の政治や経済の現実 をも含めて、世相に見られる精神の荒廃は、われわれが『神』を忘れたところに生まれている」。 聖書はローマ書3章10節以下にこの人間の荒廃のさまをさらに鋭く告げるのです「義人はいな い、ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、 ことごとく無益なものになっている。義を行なう者はいない。ひとりもいない」。  そこでこそ今朝の11節の御言葉に繋がるのです「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家 である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果 てる』と。それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしは あなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民 よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わ たしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生か し、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをお こなったことを悟ると、主は言われる」。  ここに「悟り」とあるのはもともとのヘブライ語では「信仰」という言葉です。神の霊によっ て新たにされること、神の言葉によって真に生きた者になることです。これを「神の真実によっ て生きること」と言い換えても良い。私たちの内には私たちを義とする何物もありません。言い 換えるなら、この世界にはこの世界を救いへと導く力も可能性もないのです。しかし主なる神は この世界を、その“滅びのさま”にもかかわらず、あるがままに限りなく愛したもう神です。そ れこそ「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。私たち一人びと りもまた、その神の愛によってこそはじめて「生きた者」となるのです。主イエス・キリストの 福音が私たちのもとに聖霊によって響き渡るとき、私たちはそこではじめて本当に新しい祝福の 生命、死に打ち勝つまことの生命に甦らしめられるのです。  かつて椎名麟三というキリスト者の作家がおりました。この人は若き日に、戦前のことですが、 左翼の非合法活動に関わったことから特高警察によって逮捕され、ひどい拷問を受けて仲間を裏 切ってしまった。自分は肉体においては生きているが、人間としては、霊においては完全に死ん だ。そういう挫折の経験から、人間存在の脆さ(希薄性)というものを戦後の執筆活動に見据え て出発した人です。この椎名麟三はやがて教会に導かれ、洗礼を受けて文字どおり「枯れた骨が 甦る」経験をするのです。生命のありえない者、完全に死した者が、キリストの義(キリストの 御業)に覆われ新しい祝福の生命を生きる者とされる経験です。「人間の不確かさ」という人間 存在の「破れの事実」から出発した椎名麟三は、キリストの福音、キリストの十字架の出来事に 「自分に対する神の永遠の愛」を見いだした。だからそれは「永遠の希望」そのものなのです。 私たちも同じなのです。私たちもまた徹底的に「破れた存在」でしかない者ですけれども、主は まさに私たちの底知れぬ「虚無と破れ」のただ中にご自身の霊(聖霊)をお与えになり、聖霊に よって私たちを真に生きた者として下さるのです。  私たちに聖霊が与えられている、ということは、キリストが、神ご自身が、いま私たちに与え られているということです。それを示すのが聖餐の聖礼典です。主イエス・キリストの死と復活 が、私たちに対する神の永遠の愛として、生命と希望の変わらぬ保証となったのです。キリスト の恵みに「終わり」はなく、ただ神のみが永遠なのですから、キリストにのみ世界の「本当の新 しさ」があるのです。それが今朝の御言葉にはっきり語られている「彼らを生かし…イスラエル の地にはいらせる」とあることです。この「イスラエル」とは「神の永遠の御支配」という意味 です。教会によってキリストに結ばれて生きる私たちは、神の愛の永遠のご支配の内を生きる「か けがえのない汝」とされているのです。  キリストの弟子たちに聖霊が降り教会が誕生したとき、弟子たちが最初にしたことは「いろい ろの他国の言葉で語りだした」ことでした。なにを語りだしたのか?。この死すべき者を限りな く愛し、十字架にかかって下さったキリストの愛と恵みをです。「廃墟」のさまを示し「破れの 現実」を抱えたこの世界に、キリストによる真の生命と希望を弟子たちは宣べ伝えたのです。全 ての人々に祝福の生命を伝える器とされたのです。いま現実の世界がどんなに大きな破れの中に あり、痛みと悲しみを経験しておりましても、まさにその現実のただ中に、聖霊によって新たに され甦らされた群れとして私たちはここに存在しています。パウロはこの希望こそ「失われるこ とはない」と語りました。ローマ書5章5節「そして、希望は失望に終わることはない。なぜな ら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからであ る」。聖霊はまことに「生命の与えぬし」です。この世界はキリストの霊なる聖霊によって新た に造られ、歴史を歩む力を与えられるからです。この変わらざるキリストの永遠の愛のうちを、 いま私たちは共に生きる者とされているのです。