説     教    ハバクク書2章4節  ガラテヤ書2章15〜16節

「主の義によれる人生」

2012・05・20(説教12211431)  私たち人間にとって最も根深く始末におえぬ心は「他と自分を比較する心」ではないでしょ うか。私たちは日ごろほとんど意識さえせず、常に他者と自分を比較して見ています。そして 自分が少しでも優れていると思えば自惚れ、逆に劣っていると思えば卑屈になるのです。私た ちは誰でもそのような比較による相対的自己評価(コンプレックス)を抱いています。「コン プレックス」とは劣等感のことだけではなく、本来は「他と自分を比較する心」です。他者と の比較による相対的な自己評価です。  なによりも今朝のガラテヤ書2章15節において、使徒パウロは当時のユダヤ人全てが抱い ていた根強いコンプレックスを明らかにしています。それは「(自分こそは)生まれながらの ユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」という「比較する心」でした。それはパウロ自 身“パリサイ人サウロ”であったとき誰よりも強く抱いていたコンプレックスです。パウロは 以前の自分を支えていたその心を「虚しい誇り」と呼び、ピリピ書3章5節以下にこう語って います「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出 身、へブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、……(そして)律法の義については落 度のない者であった」。イエス・キリストによる真の救いの喜びを知る以前には、こうした「自 分を誇る心」が自分の全てであったと語るのです。  ユダヤ人は子供(特に男の子)が生まれると8日目に割礼を受けさせ、十二部族ごとに名前 を登録して契約の民(選ばれた救いの民)としました。しかしユダヤ人以外の「異邦人」につ いては割礼なき呪われた者、神を知らぬ偶像崇拝者、汚れた「地の民」と呼び、救われえない 罪人と考えたのです。それはガラテヤ書2章15節に「異邦人なる罪人」とあることからわか ります。ユダヤの人々にとって「異邦人」とは「罪人」と同じ意味でした。だから異邦人と食 事を共にしたり、道を一緒に歩くことすら忌み嫌ったのです。主イエス・キリストに接したパ リサイ人や律法学者がいちばん驚いたことは、主イエスが平然と異邦人たちと同じ食卓で食事 を共にされ「罪人」と呼ばれる人々と交わりたもうたことでした。彼らは弟子たちに「なぜあ なたがたの先生は、異邦人などと食卓を共にするのか」と訝しんだのです。イエスが“神の子” であられるなら、そのような穢れた連中と交際などしないはずだという比較による価値観に囚 われていたのです。  こうした誤った「誇り」はユダヤ人だけのものではありませんでした。聖書は「異邦人」で あるギリシヤ人にも彼らなりの「虚しい誇り」があったことを伝えています。すなわちパウロ は第一コリント書1章22節に「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しか しわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と語っています。ギリシヤ人は 「知恵」と「知識」を「虚しい誇り」として十字架のキリストを頑なに信じなかったのです。 彼らはギリシヤ文明の恩恵に浴せぬ人々や民族を「未開人」(バルバロイ)と呼んで蔑み、自 分たちこそ世界の支配者なりと自負していました。ユダヤ人にまさる「虚しい誇り」がギリシ ヤ人にもあったのです。  そこで、こうした「虚しい誇り」はガラテヤのユダヤ人であるキリスト者たち、また洗礼を 受けたギリシヤ人などの「異邦人キリスト者」たちにも抜けきらず残っていました。特にユダ ヤ人キリスト者たちはこういう主張をしました。人間は(異邦人)はただ「洗礼」を受けただ けでは救われない。洗礼を受けるよりも「割礼」を受けることで人間は救われるのだ。つまり 救いの条件は“ユダヤ人になること”だと言ったのです。キリストを信じて洗礼を受け教会に 連なることで救われるのではなく「割礼」が人間を救うのだと主張したのです。つまり人間の 救いはキリストにあるのではなく「割礼」という人間のわざにあるのだと主張したことです。 この誤った教えに対してパウロは「救いはただキリストにのみある。割礼の有無は全く問題で はない」と今朝の御言葉で明らかにしているわけです。  なによりもパウロは今朝の16節以下で「律法」によっては誰一人救われず「割礼」は人間 の「虚しい誇り」に過ぎないと明らかにしました。「人の義とされるのは律法の行いによるの ではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・ イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によ って義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることが ないからである」。主なる神は永遠の摂理をもって最も「律法の義」に熱心であったパリサイ 人サウロを選んでキリストの使徒パウロとなし、全ての人々への福音の伝道者としてガラテヤ にお遣わしになりました。しかし「割礼」という「虚しい誇り」に囚われていたユダヤ人キリ スト者たちはエルサレムから「偽教師」をガラテヤに呼びこみ、パウロに対する誹謗中傷をは じめました。パウロが語る福音は偽物でその教えには権威がないと宣伝したのです。  誕生してまだ間もないガラテヤの教会はこの「偽教師」らの誹謗中傷によって少なからぬ混 乱に陥りました。偽教師らが語る「救いは洗礼ではなく割礼にある」という異なる教えに惑わ される人々が現れたのです。聖書の福音から離れることが分裂の危機を生んだのです。そこで パウロはガラテヤ書3章1節において「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ、十字架につけ られたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあな たがたを惑わしたのか」と厳しく問うています。あなたがたが救われたのは「律法によって」 ではなく「キリストによって」ではなかったのか。それなら聖霊によって始めた教会形成をな ぜ今になって「律法」で仕上げようとするのか。これは2000年前のガラテヤ教会だけの問題 でしょうか。まさにここには今日の私たち自身が立ち帰るべき信仰また教会形成の中心がある のではないでしょうか。唯一の救主・十字架の主イエス・キリストではなく、目に見える安易 な確かさ(自分を誇る心)に拠り頼もうとする誘惑は、ガラテヤの教会と同様に今日の私たち にもないでしょうか。場合によっては自分のコンプレックスの反映として牧師や長老や教会員 を批判することが起こるかもしれません。しかし私たちは既にキリストの福音に生きる者とし て古き人を捨てて新しくされているのです。陰でこそこそ批判をする人もキリストによって健 やかな自由に生きうるのです。パウロは誰かの誹謗中傷によって教会から離れる人がいたなら、 その躓いた人の魂の責任を中傷した人が主の御前で問われると考えました。そこにも「十字架 につけられたイエス・キリスト」ではなく自分の「虚しい誇り」に拠り頼むガラテヤ人、否、 私たちの「物わかりのわるさ」があるのです。大切なことは、既に私たちの生活のただ中に「十 字架にかかられたイエス・キリスト」が臨在しておられることです。なおそこで自分の「虚し い誇り」「自分の正しさ」に拠り頼み兄弟を審くなら、それこそ「聖霊によって始められたわ ざを律法によって仕上げ」ようとする愚かさなのです。だからこの「物わかりの悪さ」とはキ リスト告白のないことです。ここには「信仰の問題」が現れているのです。十字架の主イエス・ キリストのみを信ずる生活こそ、虚しいものを誇りそれに拠り頼み他者を審く罪から私たちを 救い、真に自由で健やかなキリストの僕とするのです。  だからこそパウロは同じガラテヤ書3章6節に、いささか唐突な印象でアブラハムのことを 語ります「このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』の である」と。信仰のないところに虚しい「誇り」が私たちを支配するのです。アブラハムは何 の可能性もないところでただ主なる神を信じ神の言葉に従いました。その信仰によって彼は 「義と認められた」のです。この「義と認められる」とは神の恵みによって救われ新たな祝福 の生命に生かされることです。キリストの復活の生命に連なる僕となることです。そこに真の 教会が形成されてゆきます。各人が心をひとつにして教会に仕え喜びをもって礼拝者となると き、伝道のわざはその地域において必ず前進してゆきます。私たちはそのような群れとしてこ こに招かれ建てられ召されているのです。私たちはいつも心ひとつに主に仕え教会に仕え真の 礼拝者として生きる者とされているのです。そのことを受けた恵みの確かさとして示されてい るのです。  今朝のガラテヤ書2章15,16節は、人はただ「信仰によってのみ義とされる」という救いの 音信を神のみを畏れる平安と喜びをもって宣言しています。これは宗教改革者たちも強調した ことであり、私たち改革長老教会の基本的な雰囲気です。ルター派の教会というのはあります。 カトリックでも「聖何々教会」と言います。メソジストでは「誰々記念教会」と言います。し かし私たちの教会は人の名前をもって呼ばれる教会はありません。教会はキリストのみが主で あられるからです。ルカ伝18章9節以下に、主イエスは2人の人の祈りを取りあげられ、私 たちが神からの「義」によってのみ救われることを明らかになさいました。あるところに2人 の人がいて同じ時に神殿で祈りを献げました。一人はパリサイ人、もう一人は罪人である取税 人でした。パリサイ人は実に立派な祈りを献げますが、取税人は目を天に向けることもできぬ まま呻くように「主よ、罪人のわれを赦したまえ」と祈ったのです。ここで主イエスは驚くべ きことを言われました。「神に義とされて家に帰ったのは、あの取税人であって、パリサイ人 ではなかった」。なぜでしょうか?。パリサイ人は自分の正しさによって救われると考え、神 に拠り頼まず神を信じませんでした。しかし取税人は自分になんの正しさも無いことを告白し、 ただ神の義(自分のためのキリストの御業)に拠り頼んだのです。モーセの十戒も「わたしは あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という 一方的な救いの宣言によって始まっています。律法はほんらい神の民として贖われた人々に与 えられた新しい自由の生活の道しるベです。大切なことは神(キリスト)の救いの恵みが先に あるという事実です。ただそれだけが大切なのです。私たち罪人のかしらを贖うために、主が まず呪いの十字架にかかって死んで下さった。その救いの事実が「神の義」なのです。義とい う漢字は「我の上に神の子羊(キリスト)を乗せた文字」です。逆に言うなら神の永遠の子羊 なる十字架のキリストが私たちを神の審きから覆い守り、永遠の祝福の生命を与えて下さるの です。キリストによって私たちは全ての罪を贖われ、新たな者とされ、キリストの義に覆われ て生かされるのです。  だから、私たちの「誇り」はいつも十字架のキリストにあります。自分の虚しい誇りではな く、キリストに結ばれて神の祝福の内を歩む者とされています。キリストと共にキリストの恵 みの内を祝福の生命に生きる者とされているのです。取税人が義とされたのは、ただこのキリ ストの義にのみ拠り頼み「ただ神の国と神の義を」求めたからです。パウロも同じ救いにあず かりました。私たちもいま同じ救いにあずかっています。先にはパリサイ人としての数々の「虚 しい誇り」が全てであった。しかしキリスト・イエスの「絶大な恵み」を知る喜びのゆえに、 後ろのものを忘れ前に向かって身を伸ばしつつ「キリストにありて授けられる神の永遠の賞 与」を得んとて福音の喜びの内を歩んでいるとパウロは語りました。全ての人のために十字架 に死なれ甦られたキリストの恵みのみが、私たちを生かす義なのです。いま私たちはその「キ リストの義」に覆われてここに生きる者とされているのです。