説    教    イザヤ書46章3〜4節   ピリピ書4章4〜7節

「主は近し」

2012・05・06(説教12191429)  「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなた がたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。使徒パウロは今朝のピリピ書4章4節 以下の御言葉を「いまこそあなたがたは、主にありていつも喜びなさい。なぜならば、主は 近きに在したもうゆえに」という音信をもって始めているのです。 この「主は近し」とい う音信はピリピ書だけのものではありません。すでに聖書は創世記1章1節において「はじ めに神は天と地とを創造された」との御言葉をもって、この世界万物が神の御手の御業であ ることを示し、そして最後のヨハネ黙示録22章20節においては「『しかり、わたしはすぐに 来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」との祈りで締め括っています。  神はこの世界万物を聖なる尊い目的をもってお造りになり、そしてその創造の御業とひと つである救いを全うされるために、主イエス・キリストが再び世に来たりたもうという音信、 これを“キリストの再臨”と申しますが、そのように聖書は「天地創造」と「キリストの再 臨」という大切な2つの音信をもって、歴史の初めと終わりとを語っているわけです。すな わちこれは、初めにも終わりにも神が主イエス・キリストにおいて私たちと絶えず共にいて 下さるという音信であり、限りなき慰めと喜びの告知なのです。  私たちは毎週の礼拝のたびごとに使徒信条を歌い告白しています。その中に「かしこより 来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という告白があります。この告白を私た ちは日ごろどれだけ正しく、また真実に受け止めているでしょうか?。私たちはこれが本当 に、私たち人間の真の救いに関わる告白であることを正しく理解しているでしょうか。「かし こより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。初代教会のキリスト者たちはこの 告白を文字どおり生命を献げて言い表したのです。たとえ迫害を受けようともこの信仰を曲 げることはなかったのです。宗教改革者カルヴァンは今から460年ほど前、ジュネーヴにお いて大胆な礼拝改革を実行しました。カルヴァンの礼拝改革は聖書の御言葉を通して初代教 会の礼拝(つまり教会のあるべき真の礼拝)を回復したものでした。宗教改革はその意味で 何よりも礼拝の改革でした。聖書の語る救いの宣教と聖礼典が正しく行なわれる、キリスト の御身体なる教会へと礼拝を通して成長していったことです。  ヨハネ伝の4章に、サマリヤのスカルという町で「罪人」のレッテルを貼られた一人の女 性と主イエスとが井戸端で出会い「生命の水」をめぐる対話が始まったことが記されていま す。あの魂の対話の中で自らも知らずに激しい魂の飢え渇きを抱いていたあの女性が、いつ しか主イエスによって導かれたのが“まことの礼拝とは何であるか”という問いでした。ヨ ハネ福音書4章19節以下です。「女はイエスに言った、『主よ、わたしはあなたを預言者と見 ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、 エルサレムにあると言っています』。イエスは女に言われた、『女よ、わたしの言うことを信 じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来 る。……まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そう だ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊 であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』。女はイエスに言っ た、『わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこら れたならば、いっさいのことを知らせて下さるでしょう』。イエスは女に言われた、『あなた と話をしている、このわたしが、それである』」。  主イエスはこの女性に対して、人の手によるものではない「霊とまこととによる」真の礼 拝の回復の道をお示しになりました。それなくしては人間は人間たりえないのです。それが 「まことの礼拝」です。礼拝は私たちを極みなく愛したもう真の神に対する私たちの感謝と 讃美の応答です。幼子の成長は周囲の人々の「語りかけ」によって決まると言われています。 語りかけを失い交わりを失ったとき幼子成長は止まってしまうのです。それならばなおのこ と、造り主なる真の神との交わりを失うことは私たち人間にとって限りない損失ではないで しょうか。神との交わりを失うとき、私たちは自分の存在の意味と目的さえ見失ってしまう のです。  まさにこの神との交わりを失っていた女性、そして私たち一人びとりに対して、主イエス・ キリストは、ご自身の救いの恵みによって建てられたまことの教会に連なり、キリストの御 臨在のうちに、神をわが主・わが父として告白する唯一のまことの礼拝の幸いをお示しにな るのです。スカルの女性は矢も盾もたまらずに申します。ああ主よ私はどんなにかその時を 慕い求めていることでしょう。ゲリジムの山でもシオンの山でもない、ただ神が御言葉と御 霊によって親しく臨在して下さる場所において、神の喜びたもう真の礼拝が献げられるとき、 その時にこそ私の魂の飢え渇きは満たされ、いっさいの罪が贖われ、新たな者とされて、こ の私もまた真実なる礼拝に喜びと勇気をもって生きる一人とされるのです。その日その時は いつ来るのでしょうか?。そう、私はひとつの事実を知っています。メシヤと呼ばれるキリ ストがいつか必ずこの世界においでになる。その時こそ私たちは正しい礼拝において全てを 満たされ、主なる神にみまえるのです。その時にこそ私の魂の流離いは終わりを告げ、真の 平安が私の存在と全生涯とを満たすでしょう。  なんと幸いなことでありましょうか。まさにそこ(私たちの人生のただ中)でこそ、この 女性に、否、私たち一人びとりに主イエスははっきりとお告げ下さる。「あなたと話をしてい る、このわたしが、それである」と。礼拝者として生きるとはこのように語りたもう唯一の かたを「わが主・わが神」と呼びつつ、そのかたの御前でその恵みの内を歩むことなのです。 そればかりではありません。私たちが主を求めていたそのはるか以前から、主みずから私た ちを知りたまい、私たちを捕らえ、いまあなたのためにここに来たのだと、主ははっきりと 告げていて下さるのです。聖書を通して明確に示されることは、ピリピの教会ももちろんで すが、そこに「主は近し」との確信と喜びとが生活のただ中に満ち溢れていることです。い ま私たちはこの礼拝を通して活ける贖い主なるキリストに出会っている。主は私たちの永遠 の贖い主として「近き」にいます。この恵みに打ちのめされ、新たにされる幸いにおいて、 私たちはいつも目覚めている者たちでありたいのです。  かつて冨士教会の牧師であられた福田雅太郎先生が常々「現代の教会が最も求められてい るものは健全な終末論である」と語っていたことを思い起こします。「健全な終末論」とは今 朝の御言葉で申します「主は近し」との確信に生きる信仰の姿勢です。主は私たちにいと近 く在したもう。それは礼拝において説教と聖礼典において現れているのです。それを生活の 中心としない時に、私たちの存在はいとも簡単に「近き」にいますキリストを離れ人生の意 味からも遠のいてしまいます。すると人生を支える唯一の柱が失われてしまうのです。私た ちが召されている信仰生活はご臨在のキリストの前に自分の全生活をもって従うことです。 私たちは「主は近し」との恵みの内に生きる者とされています。それが私たちの教会生活な のです。  「終末論」をあらわすエスカトロジーという英語は「目的」という意味のギリシヤ語(エ スカトン)から来ています。ギリシヤ語では「終わり」(テロス)とは「完成」という意味で す。「主は近し」とはいつもキリストの贖いの恵みと共にある人生です。その「健全な終末論」 でこそ私たちは世界の目的が教会の完成による世界の祝福と生命と救いにあることを知らさ れているのです。それゆえにこそパウロは今朝の御言葉の4節以下に「あなたがたは、主に あって、いつも喜びなさい」と告げています。「近き」にいます主にまみえる私たちの生活は もはや漂流者の生活ではなく、神が「完成」へと導いておられる救いの歴史において、かけ がえのない神の恵みの器とされている僕の生活です。だからこそパウロは「繰り返して言う が、喜びなさい」と告げるのです。主なるキリストがあなたの全ての罪を贖い、永遠にあな たと共にいて下さる。だからあなたはどのような境遇にあっても、決してキリストの恵みの 主権から離れることはないとはっきり告げられているのです。  そのとき私たちは「いつも喜びなさい」という命令形が、驚くべき自由の福音の音信とし て私たちに告げられていることを知ります。つまり「主は近し」そして「主にありて」とい う恵みの事実が、私たちの生活を「いつも喜んでいる」ものとなすのです。この「喜び」は 奪い去られることのない喜びであり祝福の生命です。キリストの救いの恵みに勝る罪の力は 存在しないからです。キリストが私たちのために十字架にかかられた。そして墓に降られ甦 られた。この事実こそ「主は近し」という恵みの音信の揺るぎなき根拠なのです。私たちは いま「主に結ばれて」ここに礼拝者とされているのです。キリストの勝利の内に堅く支えら れているのです。だからローマ書5章1節はこう告げます「(我らは)信仰によりて義とせら れたれば、我らの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得たり」と。そして同じロ ーマ書5章10節にはこうも告げられています「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御 子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいの ちによって救われるであろう」。そこに永遠の喜びが続きます「そればかりではなく、わたし たちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ のである」。  宗教改革者ルターは「主にある本当の喜びと自由を知る私たちは、隣人に対しても寛容な 主の僕とされている」と語りました。そこに健やかな“キリスト者の自由”があるのです。「主 にある(主に結ばれた)者として神を喜ぶ」ことこそ私たちの人生の最大かつ終局的な目的 であり幸いなのですから、その人生の真の目的と幸いを知った私たちは他者に対しても寛容 になれるのです。神によって「一万タラントの負債」を赦された者は「五十デナリの負債」 ある隣人を審く必要はなくなるのです。すなわち今朝の御言葉に言う「寛容」が私たちの生 活の「香り」となります。「あなたがたの寛容をみんなの者に示しなさい」とあることです。 その理由は「主は近い」からです。そして6節へと続きます「何事も思い煩ってはならない。 ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し 上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた がたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。  古くからドイツの教会に伝えられた祈りに「キリストの香り」という短い祈りがあります。 「主よ、願わくはわれをして、キリストの香りを世に伝える僕とならしめたまえ。わが言葉 もわが思いもわが行いも、なんじの御赦しの恵みに輝かしめたまわんことを」。この祈りはこ の礼拝においてこそ新たな一週間の祈りの題目となります。まさに主はいま私たち一人びと りを、ご自身の「香り」を世に伝える器としてここに招き、立て、世に遣わして下さるので す。「主は近し」との恵みを世に伝える僕として下さるのです。なによりも私たちに対するキ リストのご生涯の全体が「寛容」の極みでした。私たちに祝福の生命を与えるために、主は ご自分の全てを献げて贖いとなられたのです。だから「主は近し」との私たちの讃美告白は、 ただ十字架の主のみを讃美する信仰の姿勢です。そこに私たちの「寛容」が生み出され、キ リストの「香り」をあらわす日々の生活が造られてゆくのです。