説    教    詩篇23篇1〜6節  マタイ福音書22章1〜14節

「婚宴の譬え」

2012・04・01(説教12141424)  「イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、『天国は、ひとりの王がその王子のために、 婚宴を催すようなものである…』」。私たちの主イエス・キリストは「天国」をしばしば「婚宴」 の様子に譬えたまいました。聴いた人々はハッとしたのではないでしょうか。それはユダヤの 国において、婚宴は非常に大切な厳粛なものだったからです。そこに招かれるということ、し かも「王子の婚宴」に招待されるということは大変な名誉を意味したからです。主イエスは「天 国」という言葉を「神の永遠のご支配」という意味で用いておられます。言い換えるなら、神 との永遠の交わりの内に私たち一人びとりが何の値もなきままに、ただ恵みによって招き入れ られることです。その恵み(救い)を主イエスは「天国」という言葉でお教えになりました。 実際に聖書の元々の言葉でも「天国」とは「神のご支配」を意味します。この「ご支配」とは 「御国」という字です。ですからマタイ伝が語る「天国」、マルコ伝やルカ伝が語る「神の国」、 またヨハネ伝が語る「永遠の命」は、ともにひとつの同じ事柄を意味します。その本質は「神 の永遠のご支配」なのです。そして使徒パウロは同じ恵みを「神の義」という言葉で現わしま した。繰返して申しますが、「天国」「神の国」「永遠の命」「神の義」これらはみな同じ「神の 永遠のご支配」を意味するのです。  そして主イエスは、この大いなる救いの恵みを今朝の御言葉において「婚宴」に譬えておら れるのです。「婚宴」の中心にはひとつの食卓があります。招かれた人々はみな共にその食卓 を囲み「生命の生命の糧」にあずかる者とされるのです。私たちの教会の中心もまた聖餐の食 卓(聖餐卓)です。そこから生命の御言葉が宣べ伝えられ、キリストの贖いを意味するパンと ぶどう酒が配られます。キリストご自身に私たちは与るのです。すると、どういうことになる のでしょうか?。私たちが献げているこの礼拝、いや私たちが連なっているこの教会そのもの が、実は「ひとりの王の、独子である王子の婚宴」に私たちが連なることなのです。その「ひ とりの王」とはもちろん父なる神のことであり、その「独子である王子」とは主イエス・キリ ストのことです。そして結婚の相手として選ばれたのは私たちです。私たちのこの教会です。 ですから教会は昔から「キリストの花嫁」と呼ばれてきました。私たち教会に連なる一人びと りはキリストと教会との「婚宴」にただ恵みによって招かれた者たちなのです。  数年前に面白いタイトルの本を読みました。「もしも宮中晩餐会に招かれたら」という本で す。長年皇居の大膳科(厨房)で大膳科長を務めてきた人が書いたものです。天皇陛下や皇太 子が主催する晩餐会に招かれた人は、あまりの名誉に恐縮してやれタキシードやドレスを新調 するだの、新調するならやはり一流のデザイナーによるオーダーメイドだのと、だいたい一人 数百万円かけて準備するのだそうです。当日は都内の高級ホテルに泊まってハイヤーで皇居に 行くのだそうです。それは「少しも陛下のお心ではない」とその人は書いています。自分が持 っている中で最上の服装をして、普通のタクシーに乗って皇居に来ればそれで十分だと言うの です。私はそれを読んで思いました。人間である天皇陛下が主催する宮中晩餐会に招かれてさ え私たちはそれほどの心遣いをする。それならばなおのこと私たちは宇宙万物の創造主にして 唯一の贖い主なるまことの神の、まことの御子の婚宴に招待されているのです。それがこの礼 拝であり聖餐の食卓なのです。そう想えば無断で欠席することなど決してできるはずはないで しょう。そしてそこでこそ問われていることは、私たちが主の御招きに相応しい“装い”をし ているか否かということです。  「ひとりの王」つまり天地万有の創造主なる唯一の神が、その「王子」である御子キリスト のために「教会」という瑕なき花嫁を迎え、その「婚宴」に私たちを無償で招待して下さって いる、それが今朝の御言葉の内容(マタイ伝22章1節〜14節)です。ところがそこに信じら れないことが起るのです。もともと私たち人間の罪は「信じられない」ほど大きく根深いので す。それがはっきり現れているのが5節以下です。「王」は使いの者を招待客に遣わして「婚 宴の準備が整ったのでおいで下さい」と言わせるのです。ところが招かれていた人々はそれを 一様に「断りはじめた」というのです。5節をご覧ください「しかし、彼らは知らぬ顔をして、 ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちをつか まえて侮辱を加えた上、殺してしまった」。このことから私たちは、この王が使わした「僕た ち」とは「預言者」をさしているとわかります。言い換えるなら、ここには私たち人間の「主 なる神」に対する罪の歴史が凝縮されているのです。しかも主なる神は忍耐と寛容をもって3 度までも僕を招待者のもとに遣わしています。3度目にはその僕が殺されるという最悪の事態 さえ起ります。これはバプテスマのヨハネの悲劇です。ことそこに至って「王」はこの「招か れていた人々」が「相応しくない人々」であったと知って悔いるのです。そして7節にあるよ うに「軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」というのです。  さて、聖にして義なる神は、私たちを限りなく愛しておられるかたですから、私たちの罪を 決して容赦されず黙認なさいません。親は愛するわが子が間違ったことをするのを見過ごしに できないのです。主なる神はたとえ軍隊を送ってでも私たちの罪を滅ぼしたもうのです。だか らこそ神の恵みと慈しみはそこで終わりとならず、むしろそこから新たに始まります。すなわ ち8節以下の御言葉です「それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれて いたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだ れでも婚宴に連れてきなさい』そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人 でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった」。私たちはここに「出会う人は、 悪人でも善人でもみな集めてきた」とあることに注目したいのです。キリストのもとに招かれ ている人々、「神の永遠のご支配」のもとに招待されている人々の「相応しさ」は、悪人とか 善人とかいう人間の側の価値基準を超えている。そうではなく、まことに信じ難いことですが、 ここではただ王である神の“招きの恵み”だけが大切なのです。つまりその招きの恵みに心か ら従ったか否かという事実だけ(つまり信仰だけ)が「相応しさ」の条件なのです。使徒パウ ロは、この実に驚くべき恵みの出来事をローマ書3章21節以下にこう告げています「しかし 今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現わされた。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられる ものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人々は罪を犯したため、神の 栄光を受けられなくなっており、彼らは値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる あがないによって義とされるのである」。  すると、どういうことになるのでしようか?。さきほど私たちは「悪人でも善人でもみな集 めてきた」と「王」であられる神の御業を読みました。しかし本当には私たちは主なる神の御 前に誰一人として例外なく「悪人」(罪人)であるにすぎないのです。まことに今のローマ書3 章に「すべての人々は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており…」とあるように、 私たちは主なる神の御子の婚宴に招かれるに全く相応しくない者たちです。その全く相応しく ない私たちがただ主なる神の恵みによって御子イエス・キリストとの「永遠の交わり」の内へ と招かれているのです。これほど大いなる慰め、またこれほど忝い恵みがどこにあるでしょう か。私たちの側のいかなる良き行いも神の招待に相応しい条件とはならず、また逆に私たちの いかなる罪といえども神の招待に相応しからざる理由とはならないのです。ただキリストによ る招きの恵みに信仰をもって応えることだけが大切なのです。それだけが私たちの唯一絶対の 救いなのです。そこにこそ、ただそこにのみ、私たち全ての者の真の救いと喜びがあるのです。 だから同じローマ書3章27節以下にパウロはこのようにも申しています「すると、どこにわ たしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そう ではなく、信仰の法則によってである」。まさにこの「信仰の法則」こそ、主なる神の招待を 受けた私たちが装うべき唯一の晴れ着なのであります。だからこそ、続けてパウロはこのよう に語ります。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、 信仰によるのである」。  そうすると、次の11節以下の御言葉の意味がわかってくるのです。「王は客を迎えようとし てはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どう してあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた」。 実は主イエスの時代のユダヤにおいては、王の婚宴に招かれた客は控えの間で自分が着てきた 服を脱ぎ、王が用意してくれた礼服に着替えることになっていました。婚宴に相応しい礼服は 王みずからが用意したのです。それに着替えることが「相応しさ」なのです。だから王が用意 した礼服に着替えないで婚宴の席に入ることは大変な失礼でした。この人か理由を問われて 「黙っていた」のは王との交わりを拒絶していたことを意味します。つまりこの人は招きには 応じたけれども、王との交わりは拒絶していたのです。私たちにもその「罪」がないでしょう か。教会生活(信仰生活)がキリスト中心ではなく、自分本位のものになってしまう罪を私た ちも犯してはいないでしょうか。教会生活においてキリストの栄光を(救いの恵み)を現わす 幸いに生きるのではなく、自分に捕らわれ自己実現のみを求めることはないでしょうか。  私たちは主の教会に招かれた喜びをもって仕える僕とされているのです。パウロは信仰を 「キリストを着る」ことに譬えています。「着る」という元々のギリシヤ語は「覆い包む」と いう字です。私たちは主に招かれ、婚宴にあずかり、晴着に着替えさせて戴いたのです。罪あ るがままの「滅びの子」でしかない私たちを、神は御子イエス・キリストによって、その十字 架の贖いによって「覆い包んで」下さいました。キリストを着る者として下さいました。御前 に恐れなく立つ者として下さいました。ローマ書13章14節「あなたがたは、主イエス・キリ ストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。またガラテヤ書3章27節「キ リストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」。そしてまた第 二コリント書5章3節には、もし私たちが「キリストを着た」ならば、私たちはキリストの義 によって覆われた、新しい人になると告げられています。  私たちの教会は、私たちのいかなる資格や相応しさをも超えて、つまり律法を超えて、ただ 贖い主なるキリストの主権において建てられた「贖われた者たちの群れ」です。ここにおいて 私たちはただ「キリストの義」のみを、罪と死に勝利する復活の生命を与える喜びの晴れ着と して身にまとい、キリストに覆い包まれたものとして御前に生き続けます。礼拝に招かれてい るということは、キリストを着る新しい生命の生活へと招かれていることです。