説    教     詩篇11篇1〜3節  マルコ福音書14章32〜36節

「ゲツセマネの祈り」

2012・03・25(説教12131423)  「ゲツセマネ」はエルサレムの東にある小オリブ山の中腹にあった園(オリーブ畑)の名前で す。そこからはエルサレムの街を一望に見下ろすことができました。「ゲツセマネ」とはヘブラ イ語で「油絞りの場所」という意味です。まさにその言葉の示すように、主イエスは私たちの罪 のために十字架にかかられる前日、そこで血の汗を流されて激しい祈りの時を過ごされたのです。 今朝のマルコ伝14章32節以下は息詰まるような厳しい場面の連続です。時は「最後の晩餐」 の直後でした。既にユダの裏切りの出来事があり、弟子ペテロの離反の予告が主の御口よりなさ れました。そしてゲツセマネに着くと主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけをお連れに なって園に入って行かれたのです。  34節以下には主イエスの御言葉と御姿が次のように記されています。まず主は「わたしは悲 しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目を覚ましていなさい」と弟子たちにお命じ になりました。「目を覚ましていなさい」とは単に「起きていなさい」ということではなく「堅 く信仰に立ち続けなさい」という意味です。主は私たちに信仰による祈りの時を共にするよう求 めておられるのです。さらにこうも記されています「そして少し進んで行き、地にひれ伏し、も しできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『ア バ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてく ださい。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』」。  私たちはこの主イエスの祈りをどのように理解しているでしょうか。芥川龍之介の短編に「お しの」という作品があります。安土桃山時代、大阪夏の陣で戦死した武士の未亡人「おしの」は、 ある切支丹伴天連のもとに独り息子の病を癒す切支丹秘伝の薬を授けて戴きたいとやって来ま す。伴天連は彼女を聖堂の中に案内し、キリストやマリアの像を彼女に見せ、キリストの生涯を 説き聞かせるのです。最初は神妙に聞いていたおしのでしたが、伴天連の話がゲツセマネの園で のキリストの祈りに及ぶや否や一転して軽蔑の情を露わにし「死を目前にして脅えるとは侍の風 上にも置けぬうつけ者、さような卑怯者にいかでわが子の病が治せようぞ、ええ汚らわしい」と 言い捨て聖堂を立ち去ってゆくのです。  もしゲツセマネの祈りを他人事として聞くならば、私たちもこの「おしの」のような感想を抱 くかもしれません。なによりも教会に連なっている私たちには「ゲツセマネの祈り」は少しも「わ かりづらいものではない」と言えるのでしょうか。私たちにはこの祈りが心の底から理解できる と言い切れるのでしょうか。そうではないと思います。現代の人間でありまたキリスト者である 私たちにとっても「おしの」と同様やはりゲツセマネの祈りは最も「わかりづらい」ものであり、 時に「つまずき」でさえありうるのです。それはこの「ゲツセマネの祈り」が余りにも凄まじい からです。ここには私たちの想像もつかぬ苦しみが現れているからです。もともと神は苦しまな いからこそ神であると古代ギリシヤ人は考えていました。言い換えるなら、神は死や苦しみや悩 みとは無縁なかたであるからこそ「神」の名にふさわしいと考えられたのです。ゲツセマネで血 の汗を流して「悲しみの余り死ぬほどである」と言われ壮絶なる祈りを献げたもう神の御子その ものが人類の思いも及ばぬ存在なのです。ここには私たちの思いを超えた神の出来事が、福音の 真理が、私たちの救いが現れているのです。だからこそ私たちには「わかりにくい」のです。「わ かった」などという安易な言葉を打ち消す厳粛な福音の真理の出来事が現わされているのです。  そもそも、キリストの十字架の死とはいかなる死であったのでしょうか。旧約聖書によれば十 字架による死は永遠に神に棄てられることでした。永遠の呪いを受けることでした。私たちはい わゆる世間で言うところの「天寿」を全うしての死でさえも恐れます。私たち人間は死を決して 真正面から見ることができないのです。死は自分の存在の終わりです。死は常に経験の外側にあ ります。それならば永遠の呪いとしての死はなおさら恐るべきものではないでしょうか。私たち はそれを想像することさえできないと思います。悟ることなど論外です。自分の肉体の死さえ正 面から見据ええない私たちが、どうしてキリストが担われた永遠の呪い・永遠の滅びとしての 「死」を「わかった」などと言えましょうか。在原業平のように私たちにとって死は瞬間ごとに 新しい課題です。ましてや永遠の神の御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかか られたその「死」は限りない救いの福音そのものなのです。  私たちの罪はひと言で言うなら「神との交わりの外に出てしまうこと」です。神と無関係な存 在として生きざるをえないことです。神の祝福の生命から逸脱してしまうことです。それほど重 大なことなのに私たちはそれを知ろうともせず自覚症状もありません。その理由は私たち人間に とって「罪」が「自然なこと」になっているからです。自然なことに対しては私たちは自覚がな いのです。私たちはふだん空気の存在を自覚しません。空気はいつも自然にそこにあるからです。 それと同じように「罪」は私たちにとって余りにも自然なものになっているため、私たちはそれ を自覚できずにいるのです。神から離れ神との交わりを失っていながら、なお自覚できずにいる 存在が私たちなのです。そこに人間存在の根本的な矛盾があるのです。  キリストはまことの神のまことの御子であられます。言い換えるなら、キリストのご生涯と御 言葉にこそ私たちに対する神の愛と救いの御心が余すところなく現れているのです。キリストの ご生涯は最初から終わりまでその全てが私たちのため、私たちの救いのためのご生涯です。主は 私たちのためにご自分の全てを献げて下さいました。言い換えるなら、まことの神は私たち一人 を罪から贖い救うためにご自分の全てを献げて下さるかたなのです。それがまことの神のご性質 なのです。するとどういうことになるのでしょうか。ごく単純なことを考えれば良いと思います。 私たちは愛する者が、たとえば家族が病気になったら、心から心配して居ても立ってもおれなく なるのです。それならば私たちを極みまでも愛したもう主イエスにとってはなおさらではないで しょうか。主イエスの御眼には全世界の全ての人々の「罪」の様子がありありと手に取るように 見えるのです。これを放置していたら世界は滅びるのです。私たちの罪とその結果が世界中に溢 れているのですから、それを真直ぐに見据えたもう主の御心の内にはいかに限りない苦しみと悲 しみが溢れたことか。いまゲツセマネにおいて祈りたもう主の上に、全世界の罪の測り知れない 罪の重みが苦しみと悲しみとなってのしかかっているのです。それが「わたしは悲しみのあまり 死ぬほどである」と主が弟子たちに言われたことの意味なのです。  本当に愛するとは、その愛する者のために自分を献げることです。「人その友のために己が生 命を献ぐ、此れよりも大いなる愛はなし」。主は私たちを極みまでも愛して下さいます。だから その私たちのため、全世界の人々の罪の救いのために、ご自分の全てを十字架に献げるキリスト の道を歩まれるのです。主イエス・キリストの上には全世界の人々の全ての罪の重みがのしかか っているのです。私たちが自覚さえしないでいる罪です。その罪の重みを主は黙って私たちのた めに一身に受け止めて下さったのです。だからこそ主は祈られました「アバ、父よ、あなたには、 できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたし の思いではなく、みこころのままになさってください」と。  主イエスが十字架の上で死なれた死は、私たちの誰もが直視することさえなしえず、また死ぬ ことさえできない本当の、罪人たる人間の必然としての永遠の滅びである「まことの死」です。 言い換えるなら、主イエスは私たちがもはや永遠の滅びとしての死を死ななくても良いように、 むしろ私たちに永遠の生命を与えて下さるために「まことの死」を身代わりになって引き受けて 下さったのです。私たちがもはや滅びずして、神の御国の民となり天に国籍ある者となるために、 主はご自分の一身に全世界の人々の「まことの死」を担い取って下さったのです。神の外に出て しまった私たちを救い、まことの永遠の生命(まことの神との永遠の交わり)へと回復して下さ るために、神みずからがイエス・キリストによって「神の外に出て下さった」のです。  ここに「神は死なないからこそ神である」というギリシヤ的な公式は崩れ去り、インマヌエル (神我らと共にいます)という聖書的な福音が成就したのです。まことの神は私たちの救いのた めに、私たちに対する極みまでの愛のゆえに、御子イエスにより永遠の死を担われたかたなので す。主が飲まれた「杯」とはまさにこの永遠の死です。測り知れないほど恐ろしい永遠の滅びと しての死です。本来なら罪人なる私たちが死ぬべきであった死です。それを主はご自分に担われ 「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈って下さった。父なる神の 御心に従順に十字架への道を歩んで下さった。まさに私たちはこの十字架のキリストによって全 ての罪を贖われ、キリストの義を与えられて新たな永遠の生命に連なる者とされているのです。 その目に見える証拠がこの教会です。信仰生活であり礼拝者としての歩みです。ゲツセマネの祈 りによって示されたキリストの御姿を私たちは堅く心に刻みつつ、ただ十字架の主のみを仰ぎ、 主の御跡に従う新しい喜びの生活を共に歩んで参りましょう。主が贖われ、ご自身の血をもって お建てになったこの教会に連なり、礼拝者として生きる歩みにおいて、忠実かつ真実な者であり 続けたいと思います。