説    教    詩篇55篇10〜15節   マルコ福音書10章32〜34節

「キリスト先行せらる」

2012・03・18(説教12121422)  私たちキリスト者の生活は「キリストに従う生活」です。それは当然のことだと誰もが思っ ています。しかし私たちにとって、この「当然のこと」こそ難しいのではないでしょうか。ひ と口に「キリストに従う」と言っても、その従いかたが私たちの自己中心であっては本当の信 仰生活とはならないからです。そこで今朝の御言葉・マルコ福音書10章32節を改めて見てみ ましょう。ここに「一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれた ので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」とあります。非常に強い驚きの様子が描かれ ています。当時のユダヤにおいてはユダヤ教の教師(ラビ)が弟子たちと共に道を歩むときは、 弟子たちが先頭になって歩む習慣がありました。ラビは弟子たちのしんがりを、弟子たちを見 守りながら歩いたのです。ですから、このとき主イエスが弟子たちの先頭に立たれて歩まれた ことは、弟子たちにとってまことに意外な驚くべきことでした。  しかし、それだけが驚きの原因ではなかったと思います。弟子たちはみな、家をも職をも家 族をも捨てて主イエスに従った人々でした。その彼らが、先立ち行かれる主イエスを見て驚き 恐れたのは、それがエルサレムを目指しての歩みであったからです。「先生、そちらに行って は危ないですよ」と弟子たちの誰もが思ったことでした。エルサレムには大勢の敵がいる。律 法学者や祭司長らが主イエスの生命を狙っている。先生の生命が危険にさらされる。弟子たち はそう感じたのでした。事実主イエスはこのマルコ伝の10章32節以下で「見よ、わたしたち はエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして 彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをか け、むち打ち、ついに殺してしまう(であろう)」と予告されています。こともあろうにその 大きな危険の待ち受けるエルサレムに、いま主イエスは先頭に立って進んで行こうとされる。 このことに弟子たちは「驚き怪しみ…(そして)恐れた」のでした。  それと同時に弟子たちの心の内には「先生、私たちの願いは、そういうことではないので す!」という必死の思いが去来したことでした。「私たちは先生がユダヤの新しい王になるか ただと信じたからこそ従ってきたのです。それなのに先生は十字架にかかって死ぬためにエル サレムに行こうと言うのですか?」弟子たちはそのように叫びたかったのです。「主よ、その 道ではありません!」と主イエスの袖を引いて止めたかったのです。ユダヤの王としての栄光 の即位と、重罪人としての恥辱の十字架、それは天と地ほども違う道なのです。弟子たちはみ な主イエスが王になることを望んだのです。その主がもし十字架にかけられるなら、自分たち もまた犯罪人の弟子(死刑囚の門人)に過ぎなくなる、そのことが弟子たちには耐えられなか ったのです。  このことは、キリストの御心と私たちの思いが如何に違うかということを現していないでし ょうか。けっきょく私たちは自分の栄光を求め、自分の利益のためにキリストを利用している (あるいはキリストを自分に引きこもうとしている)だけのことがないでしょうか。キリスト が“十字架の主”であられるということは、立身出世を願う弟子たちにとって「利用価値がな くなる」ということです。言い換えるなら主が十字架への道を歩まれるということは、弟子た ちにとって「もう主イエスに従う意味がなくなる」ということなのです。それでは困る、約束 が違うではないかと、弟子たちは言いたかったのです。  しかし旧約聖書のイザヤ書53章は、はっきりと主イエスの歩みが全世界の人々の罪の贖い 主(メシヤ=キリスト)としての歩みであることを語っています。「だれがわれわれの聞いた ことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土 から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕 うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を おおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに 彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」。  主イエスは、これがご自分の使命であると自覚せられ、全世界の人々の罪の贖いのために十 字架への道をまっしぐらに歩んで行かれるのです。逃げようと思えば幾らでも逃げることがで きました。避けようと思えば避けられたのです。しかし主イエスは毅然として御顔をエルサレ ムに向けられ、弟子たちの先頭に立って歩んでゆかれるのです。それが主イエスの御心であら れたからです。ジョン・リースというアメリカ改革派教会のすぐれた神学者が「福音とは神の ご意思である」と語りました。これは素晴らしい言葉です。マルコ伝はその1章1節において 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と語っています。直訳すれば「福音はイエス・キ リストにおいて、私たちのただ中に始まった(実現した)」ということです。私たちの歴史の 中に神の御意思が始められているのです。それは私たちの罪が十字架によって贖われ、私たち が教会に連なる者となり、キリストの復活の生命にあずかる者となることです。実は私たちは、 本当の救いを願いながら、自分が何を求め、何を願っているかさえわかっていない存在なので す。しかし主イエスは、主イエスのみが、私たちの本当の願いと救いが何であるかをご存じで。 そのような救い主(キリスト)として、主は決然として十字架への道を私たちのために歩みた もうのです。十字架にかかりたもうキリストご自身が「神のご意思」としての福音そのものな のです。  さて、ここに今朝の御言葉の35節以下ですが「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」の兄弟が、 夜になってから密かに他の弟子たちに内緒で主イエスのもとに来て申しますには「先生、わた したちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」と言うのです。 その願いとは、主が栄光をお受けになるとき(つまりユダヤの王に即位なさるとき)「ひとり をあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」ということでした。要するに、主 イエスが旗揚げをされる暁には自分たちを重臣に取り立てて下さいと懇願したのです。これを お聴きになって主は彼らに「あなたがたは自分たちが何を求めているのか、わかっていない。 あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」 と問われましたら、彼らはいとも簡単に「できます」と答えたのでした。  私たち人間はどこまで愚かなのでしょうか。この時だけでなく同じマルコ伝9章33節以下 にも同じように、主のご受難の予告がなされた直後に弟子たちは「誰がいちばん偉いか」を言 い争ったと記されています。十字架の主を仰ぎ従うべきところで、自分自身の成功のみを求め、 主イエスを自己実現の手段として用いようとする罪がここにもはっきりと現われているので す。要するに自分が主であってキリストは自己実現の手段に過ぎないのです。そこに私たち人 間の罪の本質があります。信仰と言いながら、実は自分の欲望を満足させることしか考えてい ないのです。だからこそ「(ほかの)十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤 慨し出した」のです。抜け駆けをするとは狡いぞと詰ったのです。自分たちにも出世をさせろ と要求したのです。キリストの弟子とされた全ての者が同じ罪をおかしました。私たちもその 一人なのです。まさにその私たちに対して主ははっきりお教えになります。今朝の42節以下 です。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦 人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふ るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがた の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う 者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕 えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである』」。  ここで主が語っておられることは、道徳的な“謙遜の勧め”などではありません。そうでは なく、この御言葉の中心は45節にあります。主イエスが世に遣わされた理由は「仕えられる ためではなく仕えるため」であり「多くの人(全ての人)の贖いとして自分の生命を献げるた め」であると言われるのです。この事実を(福音のもの)を凝視せよ(心に留めなさい)と主 は言われるのです。たとえこの世の価値観において、権力者や実力者たちがどんなに人々に権 力を振るおうとも、私たちはそのような価値観と同列に立ってはならないと主は言われるので す。キリストの弟子はそうであってはならないと。主イエスがこれを語られた時点でこの「あ なたがた」とは12人です、全世界の中のたったの12人です。しかしその12人が贖い主なる キリストの御業に仕える者(使徒)となったとき、そこに限りない神の御業が現されたのです。 それは、あのガリラヤの岸辺において、五つのパンと二匹の魚とで養われた群集の食べ残りを 集めたなら「十二のかごに一杯になった」のと同じです。私たち一人びとりの手に、いまその 「かご」が主の御手から渡されているのです。キリストの十字架の恵みを知る私たちは、その 恵みか全ての人々のための救いの恵みであることを宣べ伝えずにはやまないのです。  そこで私たちは、この十字架の主にどのようにすれば正しくお従いすることができるのでし ょうか?。キリストに従うとは如何なることなのでしょうか?。この最初の問いこそ大切なの です。それは私たちが“道徳的に完全な人間になる”ということなのでしょうか?。あるいは “人間として恥ずかしくない歩みをする”ということでなのでしょうか?。あるいは“世間に 後ろ指をさされない生きかたをする”ということでしょうか?。そのいずれでもありません。 たとえそのような努力をどんなに重ねても、私たちはそれで救いを得るわけではないのです。 そうではなく、私たちは主が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが きたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言われたこと を、今こそ正しく聴くべきです。私たちはみな例外なく聖なる神の前に瀕死の病人なのです。 瀕死の病に罹っているときに「治って元気になってから医者に行こう」と思うのは本末転倒で す。しかし私たちはこの“本末転倒”を魂においては平気でしているのではないか。どこまで も自分を主として、キリストを主とはせず、キリストの御招きを断り続けている私たちなので はないでしょうか。  キリストに従うとは、自分の正しさ、自分の義によって歩むことではありません。その正反 対です。私たちのいかなる正しさも、人の前における義も、微塵も私たちの救いとはならない のです。そうではなく、キリストに従うとは、私たちが心から十字架の主を仰ぎ、みずからの、 そして全ての人の救い主として信じ告白することです。それは具体的なことです。心で信じ、 口で告白して、私たちは教会に連なる者となるのです。教会は十字架と復活のキリストの御身 体です。私たちはここに連なることによってキリストに連なる者とされ、キリストの復活の生 命にあずかる者とされるのです。真の礼拝者たる歩みが始まってゆくのです。このことをパウ ロはローマ書6章3節以下でこう語りました「それとも、あなたがたは知らないのか。キリス ト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受け たのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬ら れたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、 わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。  私たちはいま、キリストに連なる者とされているのです。そして礼拝者としてキリストの復 活の生命・永遠の生命を与えられて、主に従う者とされているのです。どうか私たち全ての者 が贖い主なるキリストを讃美し、先立ち行かれる主の歩みに、主の御心に、どこまでも従順に 従う僕となりたいと思います。