説    教    詩篇46篇7〜8節  マルコ福音書6章30〜44節

「汝らの手にて与うべし」

2012・03・11(説教12111421)  主イエスが男性だけでも五千人もの人数が含まれた大勢の群集を、たった五つのパンと二匹 の魚で養われ、彼らの空腹をみたされたという奇跡の出来事が、今朝の御言葉であるマルコ伝 6章30節以下には記されています。これが今朝、私たちに与えられている福音の御言葉です。 この出来事は3つの部分から成り立っています。最初の場面は6章6節後半以下、伝道に遣わ された十二弟子が主イエスのもとに帰ってきた場面からはじまります。特に6章30節を見ま すと「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、 みな報告した」とあります。それに対して主イエスは「さあ、あなたがたは、人を避けて寂し い所へ行って、しばらく休むがよい」と仰っておられます。福音書記者マルコはその理由とし て「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」と記しています。  このことは何よりも、忙しいときにこそ主イエスは弟子たちに「祈ること」の大切さをお教 えになったのです。かつて宗教改革者マルティン・ルターは「私は今日2時間は祈らねばなら なかったほど忙しかった」と語りました。これは私たちの価値観と逆ではないでしょうか。私 たちは生活の中で忙しさを理由に「祈りの時間」を蔑にします。教会生活を軽んじてしまうの です。ルターは、否、主イエスは違いました。主は弟子たちが忙しい時にこそ「祈りの生活」 (礼拝を中心とした日々)が必要であることをはっきりと示されたのです。何よりも同じマル コ伝1章35節によれば、主イエスみずから「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起 きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身の生活が「絶 えざる祈り」を中心にしたものでした。私たちにとって真の休息とは、祈り(礼拝)によって 神から新しい生命の糧を戴くことなのです。  さて、このようにして主イエスから「寂しい所」で祈るように勧められた弟子たちは、主イ エスと共に舟に乗ってガリラヤの湖に出て行き、対岸の人里離れた場所に出かけてゆきました。 そこに予期せぬ第2の場面が現れます。それは今朝の33節以下です「ところが、多くの人々 は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、いっせいに駆けつけ、 彼らより先に着いた」。ガリラヤ湖周辺の町々村々から夥しい群集が主イエスと弟子たちの舟 が着く場所に先回りをして、そこで待ち構えていたのです。群集の渇え渇いた魂、まことの糧 (救い)を求める熱心さが伝わってくる場面です。そして主イエスは34節にあるように「舟 から上がって大ぜいの群集をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれん で、いろいろと教えはじめられた」のでした。  普通に考えるなら私たちは「では主イエスには休みはないではないか」と思うところです。 しかし主イエスにとって真の休息とは、神の御言葉を余すところなく人々に宣べ伝え、一人で も多くの人々に救いを与えることでした。私は感謝していることがあります。毎年長老会が私 に「休暇を取るように」と強要することです。脅迫されます。有難いことです。日曜日を挟ん で休みを取るようにと言われるのですが、申し訳ないけれど私はそれには従いえません。なぜ なら牧師にとって休みは(安息は)神の御言葉を宣べ伝えることにしかないからです。だから長 老会にもはっきりと申しました。「私を本当に休ませたいと思うなら、どうか私から説教を奪 わないでほしい」と。これは私の本当の本心です。そして牧師は単なる職務ではなく存在その ものですから、たとえ休暇を貰っていても心はいつも教会にあるのです。教会員から片時も心 は離れないのです。このことなくして牧師の休暇はありえないのです。  たとえ私たちの目には「大勢の群集」にすぎなくても、主イエスの目にはおびただしい群集 の姿が「飼う者のない羊のようなさま」としてはっきりと捉えられているからです。羊飼いを 失った羊の群れは、やがて猛獣の餌食になるか、飢えて死ぬ以外に道はない。それこそがこの 現代世界の全ての人間の状況であり、世界の偽らざる姿であることを主イエスははっきりと見 抜いておられる。どうして私たちが徒に安逸を貪ることなどできるでしょう。「いろいろと教 えはじめられた」とは、主がこの群集にあまねく福音を宣べ伝えられたということです。彼ら の飢え渇きを見過ごしにならず、必要なまことの生命の糧を与えたもうたのです。  「飼う者のない羊のような有様」という御言葉の背景は、旧約聖書において神とイスラエル の関係を羊飼いと羊の群れに喩えていることです。これは主なる神が私たちとこの世界を限り なく愛しておられ、祝福と生命へと招いておられることです。実に私たちに対する神の愛こそ 熾烈なものでして、ご自身の独り子なるキリストをさえ私たちの罪の贖いのためにお与えにな ったほどのものです。親にとって子を与えること以上の犠牲があるでしょうか。それは自分を 与えること以上です。私たちのこの世界は、神がその独り子を賜わったほどに神の愛したもう 世界なのです。  しかし私たち人間は、測り知れない罪の結果、主の御目からご覧になれば「飼う者のいない 羊の群れ」でしかないのです。この有様を主は絶対に見過ごしになさらない。真に人を愛する とは、その人を生かすために自分の生命を与えることです。他人のために臓器を提供する人は、 たとえ自分の臓器の一部を提供しても自分の生命に影響がないと判断して提供するのです。し かしもし私たちが真に愛する者の死にぎわに臨んだなら、自分の全てさえ愛する者を助けるた めに与えたいと願うのではないでしょうか。それなら主イエスは測り知れない罪人である私た ちのために、ご自分の生命(存在)の全てを与え尽くして下さったゆえに唯一の「救い主」と 呼ばれるのです。マイナスの価値しかない私たちのために、まさに「飼う者のない羊のような」 私たちを、永遠の生命(神とのまことの交わり)に生かしめるために、主は十字架への道を歩 んで下さったのです。  ところが、ここに及んでもなお主の弟子たちには、物事の真相が見えていないのです。信仰 のまなざしが暗いままなのです。つまり弟子たちは今朝の35節にあるように「ここは寂しい 所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べるものを買 いに、まわりの部落や村々へ行かせて下さい」と主イエスに願うのです。たぶん弟子たちは、 主が群集に御言葉を語っておられる間、ハラハラしながら「食べ物のこと」ばかりを考えてい たのでしょう。やがて日が暮れてしまう。この群集は着のみ着のままで食べるものは何もない。 周囲には人家も村里もない。このままではみんな飢えてしまう。日が暮れる前になんとかしな ければ…。そういう思いが主イエスへの注文となって現れたのです。  ところがここに、主イエスは弟子たちが夢にも考えなかったことを言われるのです。それは 37節です「イエスは答えて言われた、『あなたがたの手で食物をやりなさい』」。さすがの弟子 たちもこれには驚きました。だから主イエスに不平を申しています「わたしたちが二百デナリ ものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と。群集は男だけで五千人でした。女 性と子どもを含めれば一万人以上はいたことでしょう。こんなに大勢の人たちの空腹を満たす だけのパンを私たちに買わせるおつもりなのですか?と弟子たちは主イエスに不平を漏らし たのです。「二百デナリ」というのは今日に換算すれば150万円ほどの金額です。そんな大金 どこにあるのですかと言うのです。  これは人ごとではありません。私たちこそ主イエスに不平を漏らすだけのことがいかに多い ことでしょうか。主の御言葉に真剣に聴き従おうとせず、まず自分の経験や価値観に基づいて 物事を決めてしまう、それこそ私たちの姿でもあるはずです。言い換えるなら、私たちは主イ エスよりも自分を賢いと考えるのです。主イエスの言われることは正しいだろう、しかしこの 世の知恵やこの世の経験においては自分のほうが上手だと考えるのです。そこに危険な罪の罠 があります。自分が御言葉を判断する主になってしまう危険です。まさにそのような主に対す る不従順の罪を、私たち全ての者がおかしているのではないでしょうか。  まさにそのような私たち一人びとりに、主は「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言わ れるのです。「汝らの手にて与うべし」と命じたもうのです。ここからが今朝の御言葉の第3 の場面です。たとえ弟子たちが常識の線からいかに反発しようとも、主の御目にはこの群集の 飢え渇きこそが中心でした。この群集は自分たちの力で魂の飢渇きを解決できないからこそ、 湖を先回りしてまで主イエスのもとに来たのです。周辺の村や町どこへ出かけてもこの群集の 飢え渇きを満たすパンを入手することは不可能です。それは弟子たちにもわかっていました。 だから「めいめい」の責任にしてしまおうと提言したのです。私たちの知ったことではないと 言い放ったのです。ただでさえ休暇を犠牲にして群集の相手をしてやったのだ。それ以上のこ とは知るものかという意識が弟子たちにはあったのです。  この私たちの、霊的に貧しい(罪の)現実の中でこそ、主イエスは私たちが生きるべき本当 の生活へと私たちの歩みを立ち帰らせて下さいます。「人はパンのみにて生くるにあらず。神 の御口より出ずる一つひとつの言葉によるなり」。この御言葉こそ世界を新たになしうる唯一 の福音であることを改めて私たちに示して下さったのです。まさに現実に目の前にいる、魂の 真の糧を必要としている人々の飢えを救うこと、それこそが弟子たちにとって休息を取ること 以上に必要であること、そこにしか真の休息はありえないことを、主ははっきりとお教えにな ったのです。いまそのように私たちは主イエスによって教えられています。そこに主の教会の 使命があります。たとえどんなに立派な伝道報告を提出し教勢を拡大したとしても、目前にい る人々の「救い」を蔑にしているとすれば、それはキリストの僕の姿ではありません。  主は言われます「パンは幾つあるか。見てきなさい」と。弟子たちは「五つあります。それ に魚が二匹」と答えました。彼らの持っている食物の全てです。そこで主イエスは群集を「あ るいは五十人ずつ、あるいは百人ずつ」の組に分けて座らせたまい、その「五つのパンと二匹 の魚」とを手にお取りになってそれを祝福され、手ずからお裂きになって弟子たちに配られ、 それを群集に頒ち与えるようにお命じになりました。私たちの教会で聖餐のとき、配餐する長 老が会衆席までパンとぶどう酒を運ぶのはこの御言葉に由来しています。そして「パンを裂き」 「讃美の祈りを唱え」「配らせ」「分配する」という一連の動作はまさに聖餐式そのものです。  すると、ここで主イエスがみずから祝福され弟子たちに命じて群衆に配られた糧は、主の十 字架の贖いの御業を基礎としたあの聖餐の始まりであったことがわかるのです。そうしてみる とここで語られていることは、主イエスがなさった癒しの出来事がいつでも罪の赦し=救いの 確かな「しるし」であったのと同じように、ここでも群集に糧を与えられたという奇跡の出来 事は、主イエスが十字架の上において全ての人々(私たち)の罪を贖うために死んで下さった こと、その主イエスの贖罪の恵みにあずかることによって、罪人である私たちが確かな唯一の 救いを与えられ、また主の復活にあずかって新しい生命を与えられることの「しるし」である ことがわかるのです。  この群衆の中に、御言葉を聴く私たちの内に、十字架と復活の主が現臨しておられます。こ の主イエスこそ私たちの救いのために永遠の贖いを成遂げて下さったかたです。主は十字架に よって私たちに、遠の神の国の祝宴、贖われ、全うされた聖徒らの喜びを与えて下さいました。 いまここに、私たち一人びとりの内に神の恵みのご支配は現われているのです。いま私たちが その恵みの内に新しい祝福の生命を与えられているのです。だからこそ主は言われます「汝等 の手にて与うべし」と…。私たちはその食物を知らない者ではないのです。十字架の主イエス の恵みを知らない者ではないのです。その恵みに生かされ、永遠の生命(神とのまことの交わ り)を与えられている私たちは、愛する一人でも多くの人々に恵みと救いを証しする教会に連 なっているのです。罪人のかしらなるこの私たちをも救いたもう主は、全ての人の贖い主であ られるのです。