説    教     イザヤ書56章7節   マルコ福音書11章12〜14節

「枯れた無花果」

2012・03・04(説教12101420)  福音書には主イエスがなさった数々の奇跡が記されています。それらはみな、病気の癒し、嵐 の鎮め、パンの奇跡、死人の甦りなど、神の祝福と愛の確かさを感じさせるものです。しかし今 朝のマルコ伝11章12節以下の御言葉はそれとは少し違うようです。今朝の御言葉には主イエ スが「いちじくの木」を呪われた、すると翌日その木は枯れてしまったということが記されてい るのです。そこで、私たちはこの御言葉に対して戸惑いを感じるのではないでしょうか。この御 言葉からどのような福音を読み取ればよいのか「よくわからない」のが本音ではないかと想うの です。  12節以下を改めて読んでみましょう。主イエスは十字架に至る最後の一週間をエルサレムで 過ごされ、夜は3キロほど離れたベタニヤという村に泊っておられました。ですから12節に「彼 らがベタニヤから出かけてきたとき」とあるのは、主イエスと十二弟子がいつものように「ベタ ニヤからエルサレムに向かう途中で」という意味です。その道すがら一本の「いちじくの木」が あったのです。主イエスは空腹を覚えたもうてその「いちじくの木」に実を求めて「近づかれた」。 しかしそのいちじくは「葉」ばかりが繁っていて「実」が一つも無かったというのです。すなわ ち13節に「葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったからである」とあ るとおりです。そこで主イエスはそのいちじくの木に向かって「今から後いつまでも、おまえの 実を食べる者がないように」と言われた。主はその「いちじくの木」を呪いたもうたのです。「弟 子たちはこれを聞いていた」と14節には記されています。弟子たちにとってもこの主の言葉は よほど理不尽なものに思えたのです。  それは私たちにもよくわかるのではないでしょうか。「実」のなる季節でない時にいくら「実」 を求めてもそれは無理難題です。理不尽です。その“無理難題”を主イエスが求めたもうた。し かもその「いちじくの木」を「呪われた」に至っては弟子たちはいっそう理不尽に感じたのでし た。どんな植物にも実のなる季節というものがあります。その季節を無視して実を求めても、そ れは求めるほうが無理なのです。ある聖書の解釈によれば、主イエスは「しいな」と呼ばれる一 種の“季節はずれの実”を求められたのだという理解があります。しかし今朝の御言葉を読むか ぎりそれは少し違います。マルコ伝はあくまでも「主イエスが求めたもうたその時に、いちじく の実が無かった」という単純な事実だけを問題にしているからです。それが私たちの目に「無理 難題」に見えるのはキリストを中心にしていないからです。  実はこの「いちじくの木」は当時のエルサレム神殿の象徴でした。預言者エレミヤの言葉のと おり、人々は「主よ、主よ」と口先で御名を唱えるだけで形式的礼拝に陥り、まことの神を信じ 従う信仰を失っていました。エレミヤは語ります。実際にはあなたがた(エルサレムの民)は、 盗み、殺し、偽って誓い、バアルに香を焚いている。それなのにこの神殿に来て、自分たちは「救 われた」と言っている(エレミヤ書7:4〜11)。「葉」ばかり繁って「実」の無い「いちじくの木」 は、まさにこの民の不信仰(私たちの不信仰)を現わしています。そこで改めて私たちが心をと めたいことは12節に主イエスが「空腹をおぼえられた」とはっきり記されていることです。「激 しい飢え渇き」にも似た切なる思いをもって、主は私たちの救い(全ての者の救い)を求め、そ のために十字架の道を歩んで下さるのです。だから私たちが「実を結ぶ」とは私たちがこの十字 架の主を信じて主に従うことであり「御国の民」になることです。まさにその生きた「実」を主 は私たちに求めたもうのです。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十 九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にある」(ルカ15:7)からです。「神はその 独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の 生命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を審くためではなく、御子によって 世が救われるためである」(ヨハネ3:16〜18)。  ここで主が求めておられる「実」は、私たちが主に立ち帰る“悔改めの実”です。主イエスを 救い主(キリスト)と信じ、主の身体なる教会に連なり、礼拝者としてその生涯を御言葉に養わ れつつ、主と共に歩むことです。すなわち主は「信仰」という「永遠の実」を私たちに求めてお られる。そこで私たちが顧みたいのは今朝の15節以下にある「宮きよめ」の記事です。エルサ レム神殿の広い境内にはたくさんの屋台(両替商や生贄の鳩を売る商人の店)が出ていました。 神聖な礼拝の場である神殿がいつのまにかこの世の取引の場になっていたのです。しかも神殿の 祭司たちはこれらの商人たちから賂(まいない)を得ていました。主イエスがこうした屋台を「追 い払われた」ことは普通の考えからすれば、商人たちと祭司らの癒着構造を改革されたのだと考 えることができます。しかしもしそれだけなら、主イエスのこの「宮きよめ」は歴史のひとコマ に過ぎません。屋台の商人たちは一時は逃げても、またすぐ戻って来たに違いないからです。翌 日になれば何事もなかったように屋台が並んだことでしょう。神殿の境内(異邦人の中庭)では 屋台は公然と許可されていたからです。  主イエスの「宮きよめ」のわざは、この世の構造改革と同一次元のものなどではありません。 かつてフランス革命の急進派ロベスピエールは聖書のこの記事を暴力革命の根拠としましたが それは見当違いな解釈です。主イエスの「宮きよめ」は旧約聖書のマラキ書3章に基づいて、神 から遣わされた全世界の救い主(キリスト)がいまここに救いの権威を持って「来ておられる」 事実を告げるものでした。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。 またあなたがたが求めるところの主は、たちまちその宮に来られる。見よ、あなたがたの喜ぶ契 約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる 時には、だれが立ち得よう」。このような主が、世界と歴史の救い主が、いま私たちのただ中に 「来ておられる」のです。その恵みの力をもって私たちの罪を贖い、世界を新たになすために、 主は私たちのもとに来ておられるのです。主は言われます「『わたしの家は、すべての国民の祈 りの家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それなのに、あなたがたは、それを 強盗の巣にしてしまった」。この「強盗の巣」とは強盗の隠れ家のことです。私たちは罪を犯し ても「神に立ち帰る」どころか「罪」を隠蔽するために自分の中に「隠れ家」を持つ存在なので す。神の目の届かぬところがあると思い違いをするのです。自分は罪人ではないと思いこむので す。私たちの救いと平安はいつでも主なる神の御前に立つことしかありません。「その来る日に は、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」。まさに御前に立ちえざる 私たちを主はご自身の生命をもって贖い、その全ての罪を赦し、御前に喜んで健やかに立つ者と して下さったのです。  さてその翌日のことです。今朝の20節以下を見ますと例の「いちじくの木」は根元から枯れ ていました。ペテロは前日の主の御言葉を思い出して「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれ たいちじくが、枯れています」(21節)と申しました。ここで大切なことは、この「いちじくの 木」は「根元から」枯れたということです。葉は枯れてしまったけれど幹や根は生きているとい うのではなく、木全体が枯れてしまったのです。ここにこそ主イエスのご受難の意味が明らかに されているのです。私たちを支配する罪と死に引導を渡され、エルサレム神殿の腐敗を根本から 治療され、全く新しい「救い」を私たちに与えるために、主イエスは十字架の上に完全に死なれ たかたなのです。このことを使徒パウロもローマ書3章21節以下にこう語っています「しかし 今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それ は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるもので ある。そこにはなんらの差別もない」。  いまこそ私たちは主が高らかに宣言なさった「時は満てり。神の国は近づけり。悔改めて福音 を信ぜよ」との御言葉を、私たちへの限りない救いの音信として聴き取りたいのです。キリスト を信じキリストに結ばれて生きる私たちは、もはや古き罪の支配を受けることなく、永遠にキリ ストの恵みのご支配のもとに生かされ守られ導かれているのです。キリストによって神が無償で 与えて下さる全く新しい完全な救いを私たち一人びとりが信仰によって受け、その救いの恵みに あずかり、キリストの復活の生命に生かされて、まことの礼拝者として立ち続ける私たちとされ ているのです。  この「枯れたいちじくの木」の御言葉はさらに22節以下に主イエスの「祈り」についての御 教えへと続きます。マルコも、初代教会の人々も、この「枯れたいちじくの木」の出来事と私た ちの祈りの生活を一つの音信として理解しました。そこにも、歴史の主なる神が私たちのただ中 に「不可能なこと」を実現して下さった救いの出来事が告げられています。罪と死に支配されて いた私たちが、神に愛され神の愛に答え、神を信じて「祈る者」とならせて戴いている…。そこ にこそあらゆる奇跡にまさる救いの出来事があるのです。まさに私たちの上に、主イエス・キリ ストによって、季節外れの救いの出来事が起ったのです。「死者の復活」が実現したのです。こ の罪の身体が贖われ、永遠の生命が与えられ、私たちが主に結ばれた者とされているのです。そ れこそ山が海に入るよりもはるかに大きな救いなのです。主はいま、そのような確かな「救い」 を私たち一人びとりに現わして下さいます。そして私たちを信仰の豊かな「実」を結ぶ者として 下さいます。主イエスが求めたもうその時に、まさにいま、そして新しい一週の日々において、 私たちは喜んで信仰の「実」を献げる者とされているのです。