説    教    イザヤ書53章6節   マルコ福音書12章41〜44節

「奉献の心」

2012・02・26(説教12091419)  主イエスは弟子たちを連れてユダヤ各地を巡回伝道なさり、数多くの奇跡や御教えを現され たのち、いよいよ都であるエルサレムに入城なさいました。ちょうどイスラエルの三大祭のひ とつ「過越の祭」が近づいたおりでもあり、エルサレム神殿の境内はユダヤ国内はもちろん、 世界各地から訪れた大勢の参詣者で賑わっていました。主イエスはこの神殿の境内で、当時の 宗教的指導者であった祭司長・律法学者たちを厳しく叱責批判されました。その様子がマルコ 伝12章37節までのところに詳しく記されています。主イエスは人々に対して「律法学者ら に気をつけなさい」とお教えになりました。今朝の38節以下です。特に主イエスは律法学者 らが「長い衣を着て歩くこと」「広場であいさつされること」「会堂の上席、宴会の上座を好ん でいること」の3つを挙げられました。これは人々の注目を引き尊敬を集めるための律法学者 らの演出でした。「長い衣」は権威の象徴であり「あいさつ」は時間をかけて行う儀式的なも のでした。律法学者たちはどんな時も自分たちを民衆の支配者(指導者)として顕示していた のです。  本来なら「権威」とは大きな「責任」を伴うはずです。「高貴ゆえの責任」(ノーヴレス・オ ブリッジ)が伴わねばなりません。しかし彼らは逆に40節にあるように「やもめたちの家を 食い倒し、見えのために長い祈りを」していました。もともとイスラエルでは「寄留者やみな しごの権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない」(申命記24:17)と いう社会的弱者保護のための規定がありました。それを守る裁判官の役目を委ねられていたの がパリサイ人ら律法学者たちであったのです。ところが彼らは弱者を保護するどころか、むし ろ寡婦に高額な裁判料を要求して私腹を肥やし、しかも外見だけは権威を装うという「神と人 を欺く」大きな罪をおかしていました。その律法学者らこそ「もっともきびしいさばきを受け るであろう」と主は言われたのです。  そこで、これは当時の律法学者たちだけに向けられた主の戒めなのでしょうか?。それは今 日の私たち一人びとりにも同じように向けられているのではないでしょうか。弟子たちは召命 を受けたとき、ただちに全てを捨てて主に従う者となりました。しかし主イエスのお側近く仕 え、主の御教えを聴していた弟子たちでさえ、最初は惨憺たる醜態を晒していたのです。弟子 たちは「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」と言い争いをしたり、政治的な出世や栄誉栄達 を主に願ったり、あるいは主イエスが招かれた幼子たちを邪魔もの扱いしたりしました。特に 主イエスの十字架と復活の予告に対しては「そんなことがあってはなりませぬ」と主の袖を引 いて諌めさえもしたのです。まことに愚かしいことの数々を繰返した弟子たちでした。私たち 人間は主の御側に仕えてさえも罪をおかし続ける存在なのです。事実、私たち自身の教会生活 を省みるとき、私たちはそこにいかに数多くの主イエスに対する不従順を見出すことか。主イ エスが中心ではなく自分のことばかりを中心にした教会生活(信仰生活)に私たちはなってい ないでしょうか。私たちはいつのまにか純粋な思いで主イエスを見上げることを忘れ、不平不 満ばかりの教会生活をしていることはないでしょうか。私たちは本当に主イエスのみを中心と した教会生活をしているか、自分を主イエスに献げているかどうかが問われています。その意 味で「気をつけなさい」との主の戒めは私たちへの主の問いなのです。  さて、主イエスは神殿の境内で「賽銭箱」に向かってお座りになり「群集がその箱に金を投 げ入れる様子を見ておられ」ました。今朝の41節以下の御言葉です。当時のエルサレム神殿 の「異邦人の中庭」と呼ばれる境内には13個のラッパの形をした金属製の「賽銭箱」が並べ てられていました。その側に一人ずつ神殿の係員が立っていました。そして「誰それが幾らの 献金をした」ということを大声で人々に知らせたのです。投げ入れられたお金が金属製のラッ パの筒を通るとき、それは華やかな音を立てたことでした。それもまた人々の自尊心を刺激す るのに十分な演出でした。そうした群衆の中にひっそりと、貧しい一人の寡婦が混じっていま した。彼女は多くの金を投げ入れる人々の中で心をこめて「レプタ二枚」の献金を献げたので す。彼女のこの献金は読み上げられさえしませんでした。なぜならレプタ銅貨は当時の貨幣の 中で最も価値の低いものだったからです。レプタ一枚は今日の金額に直せば50円ほどの価値 です。それが二枚ですからこの寡婦はいわば100円を献げたのです。ところがこの寡婦の献 げものをご覧になった主イエスは、わざわざ弟子たちを呼び寄せて言われました。今朝の43 節以下です「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中 で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人 はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。  今朝のこの御言葉の意味を知らない人が「レブタ二つの献げもの」という表現を「少ない額 の献金」という意味で使うことがあります。それが大きな間違いである、むしろ正反対だとい うことはこの主イエスの御言葉から明らかです。主ははっきりと見抜かれたのです。そのレプ タ二枚がこの寡婦の女性にとって「生活費全部」であったということを…。彼女は持てるもの 全て(全財産)を献げたのです。「少ない献金」どころではないのです。むしろそれが「持ち 物すべて」であったゆえに、彼女は「だれよりも多く献げた」のです。それを主イエスはご覧 になったのです。あとの人々は「あり余る中から」一部分を献げたにすぎない。しかしこの寡 婦は生活費の全てを献げたのです。それほど神への感謝は大きかったのです。神に自分の生活 の全てを委ねきったのです。そこに主イエスは「最大の献げもの」をご覧になったのです。  この寡婦の献げものは、この世の価値観からすれば人々の目に「愚かなこと」としか映りま せんでした。私たち自身のことを考えてもわかると思います。かつて私たちの先輩のキリスト 者たちは「什一献金」と言いまして、全収入の十分の一を献金として献げました。全収入の一 割を主の御用のために献げることを「当然のこと」と考えていたのです。では現在の私たちは どうでしょうか。たとえ十分の一の献金であってもそれを実行している人は昔に較べれば少な いのではないか。私は高校生2年生のときに洗礼を受けました。私に洗礼を授けて下さった牧 師先生は(戦前の同志社神学科のご出身でした)「献金は自分が『痛み』を感じるほどの額を 献げるものである」と指導して下さいました。このことを私はいまも感謝と共に思い起こしま す。問題は金額ではないのです。私たちは「痛みを感じる献金」を献げているかが問われてい るのです。そうした献金によって自分の信仰も成長するのです。もし私たちが自分の『痛み』 と感じるほどの献金を主に献げていないなら、私たちは信仰において幼児に留まっていると言 わねばなりません。私たちは今朝の御言葉の群集のように「あまった中から」少しだけ献げて 「それで良し」としていることがないでしょうか。私たちは時に「信仰と献金は別のものだ」 という理窟を捏ねます。しかし今朝のこの寡婦もレブタ銅貨を「二枚」持っていたのですから、 一枚は自分の生活のため(明日のパンのため)に取っておくことができたのです。しかし彼女 は全てを神に献げました。自分の持てる二枚全てを主の御用のために献げたのです。だから「レ ブタ二枚の献げもの」は誰よりも多くの献げものだったのです。  彼女がその「持ち物」を全て献げたということは、言い換えるなら「明日の生活」について も自分を神に委ねきったということです。彼女の手の内には何ひとつ自分を支える手段を残さ なかったのです。自分の力には全く頼らなかったのです。それこそ「まさに終末論的な生きか た」でした。それは古き罪のおのれに死にキリストの内に自分を見出す新しい人生です。言い 換えるならキリストに贖われた者の新しい喜びの人生を生きることです。キリストを待ち望む 生活です。考えてみれば私たちは愚かにも無意識の内に、自分の生命が明日も続くことが「当 然のこと」のように考えています。しかし実際には私たちはある日「突然に」死を迎える存在 です。にもかかわらず自分だけはいつまでも生き続けるように思い違いをしているのです。ど んなに大きな傲慢でしょうか。ある日なにげなく別れた人が最後の姿になったという経験は私 たちの誰にもあるのではないでしょうか。この次は私たちが去る番でないと誰が言えるでしょ うか。私たちは人生設計や老後の備え等には関心を示しても、神に仕える人生・神への献げも のの喜びは二の次三の次にしていることはないでしょうか。「おのれに対して富んでも神に対 して富まない人」になっていないでしょうか。  さて、主イエスがこの寡婦の献げものを賞賛なさったのにはもうひとつ深い理由がありまし た。それは主イエスがエルサレムに入城なさったのは十字架にかかられるためであったという ことです。事実、今朝の出来事から一週間後には主イエスは十字架にかかっておられるのです。 主イエスの十字架は永遠にして聖なる真の神が私たちを極みまでも愛したまい、私たちを罪と 死の支配から贖うためにご自分の全てを献げ尽くして下さった救いの出来事です。「生活費全 部」どころではない、主イエスはご自分の全てを私たちのために献げ尽くして下さったのです。 まさにこの主イエスの十字架による贖いを、滅ぶべき私たちの唯一の救いとして受け止め、信 じ告白し、十字架の主に従うことを神と教会との前で言い表して洗礼を受け、教会の枝とされ た私たちなのです。その私たちが、キリストの福音ではなくこの世的な尺度で生活をしている とすれば、それこそ私たちは今朝の律法学者らのように「神と人とに対して罪をおかしている」 のではないでしょうか。  それに対して、この貧しい寡婦の献金はまさに貧しさの極みに降りて来て下さった主イエス の十字架の恵みをさし示すものでした。だから今朝のこの物語は、今から2000年前にこうい う立派な献げものをした婦人がいたという物語ではない。彼女の献げものは私たちのための主 イエスの十字架の無限の恵みを示しているのです。これとよく似たことが翌日にも起こります。 一人の女性、しかも町で「罪の女」とレッテルを貼られた女性が、高価で純粋な「ナルドの香 油」を携えてパリサイ人の家に入り(そのこと自体が死を覚悟した行為でした)そこで香油を 全て主イエスの「葬りの準備」として献げたことです。この時も弟子たちは「高価な香油を無 駄にした」と言ってこの女性を非難しました。しかし主イエスは「彼女を責めてはならない、 なぜなら彼女はわたしに良いこと(最も美しいこと)をしてくれたのだ」と言われました。こ の「良いこと」(最も美しいこと)とは、私たちの人生そのものが贖い主なるキリストに結ば れた全てにまさる幸いと自由を現わしています。主イエス・キリストは私たちのために「持て るもの全て」どころかご自分の存在と生命のいっさいを呪いの十字架において献げ尽くして下 さったのです。罪の中にしかありえない私たちのため、しかも「十字架につけよ」と絶叫する 私たちのために、ご自分の全てを献げ、限りない赦しと贖いと永遠の生命と義を溢れるばかり に与えて下さり、私たちを教会において復活の生命に連ならせ、永遠の祝福の内を歩む者とし て下さったのです。  主イエスの十字架なくして救われる人間は一人もいません。だからこそ、もし私たちがただ 十字架の主に結ばれて生きるなら、私たちはそこで今朝の寡婦のように本当の献げものの幸い に生きることができるのです。私たちの生涯を通して「最も美しいこと」キリストの愛と祝福 が輝き現れる幸いと自由に生きる者とされるのです。私たちもまた、私たちこそ、この十字架 の主の恵みに、この寡婦のように応えて、感謝の供えものを献げる者たちでありたいと思いま す。