説    教   イザヤ書55章6〜9節  マルコ福音書8章27〜30節

「我らが神と崇むる」

2012・02・19(説教12081418)  あるとき主イエスは、ピリポ・カイザリヤという村里の近くで「人々は、わたしをだれだと 言っているか」と弟子たちに訊ねたまいました。そして対話の中でさらに「それでは、あなた がたはわたしをだれと言うか」とお訊ねになったのです。これに対してシモン・ペテロが弟子 全員を代表して答えました。「あなたこそキリストです」と。ここに私たちはマルコによる福 音書の中心を見ます。否、ここにこそ福音そのものの中心があると言えるのです。  ピリポ・カイザリヤは都であるエルサレムから数百キロも離れたいわば“辺境の地”でした。 ここで主イエスが弟子たちに信仰告白を求められたことには深い意味があるのです。私たちは 「信仰告白」と聞きますと、それはエルサレムの神殿のような文字どおり“目抜きの場所”つ まり“神の栄光に相応しい場所”でなされるものと考やすいのです。弟子たちがそうでした。 ですから主イエスが事もあろうに“異邦人の地”ガリラヤのさらに北にある“辺境の地”ピリ ポ・カイザリヤで信仰告白を求められたことに彼らは驚いたのです。  まさに旅の途上で、私たちの人生のただ中で、辺境と言うべき見栄えのしない場面で、主イ エスは「あなたがたはわたしをだれと言うか」と私たち一人びとりにお訊ねになるのです。主 イエスは私たちの日常生活のただ中で、神やキリストや礼拝が問題にされないような世俗的な 場所(魂の辺境)においてこそ「あなたがたはわたしをだれと言うか」と信仰告白を求めたも うのです。主は私たちの日々の生活が主日礼拝の延長であることを求めておられます。いま私 たちが真の自由と幸いに生きる者となっているかどうかを主は訊ねておられるのです。  しかも主イエスは私たちに「人々は、わたしをだれだと言っているか」とお訊ねになった後 で「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と改めて訊ねておられます。これはとて も大切なことです。私たちは他の人々のことは気楽に語るのです。世間のことは簡単に批判す るのです。あの人には信仰が有るとか無いとか、自分の家族は教会生活を理解してるとかくれ ないとか、日本にはキリスト者が多いとか少ないとか、そういうことは言いやすいのです。つ まり「人々が主イエスをどう思っているか」について私たちは容易に語ることができる。しか し大切なことは「私たちが主イエスをどう告白しているか」です。人々が(世間が)キリスト をどう見ているかではなく、私たち一人びとりがいま、キリストをどのように信じ、告白して いるか、それが日々の生活の中で問われているのです。  だからこそ私たちは、改めて今朝の御言葉の主イエスのご質問の意味をしっかりと捉えねば なりません。最初のお訊ねと2度目のお訊ねの違いを明確に理解することが大切です。最初の お訊ねに対しては弟子たちの中から様々な答えが出されました。今朝の28節です。弟子たち は主イエスに「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言 者のひとりだと言っている者もあります」とお答えしたのです。これは相対的な世間の事柄で あり、自分のことではありません。言い換えるなら「世間が主イエスをどう解釈しているか」 ということです。そして人間の解釈は同じ事柄に対しても人によって千差万別ですから、百人 の人間がいれば百通りのキリスト解釈があることになるのです。主イエスはそれで「よし」と はなさいません。大切なことは、世間が(私たちが)キリストをどう解釈するか(どう思うか) ではないのです。ここで問うておられるかたは主イエスなのです。ということは、求められて いるのは“様々なキリスト解釈”ではなく“唯一の信仰告白”なのです。それは2000年前も 今も少しも変わりはありません。いま私たち一人びとりが御言葉と聖霊によって現臨したもう 主イエス・キリストに対して「あなたこそキリストです」とお答えすること、それをいま主イ エスは私たちに求めておられるのです。  「祈り」ひとつを取っても同じことが言えます。私たちはともすると「祈り」は自分の願い や訴えを投げかけること(つまり人間の要求の表れ)と考えやすいのです。しかし「祈り」は なによりも、神が私たちに求めておられる「神のわざ」なのです。神の側の願いが(御心が) 先行して、はじめてそこに私たちの“祈りの生活”が成り立つのです。それは、私たちが神を いかにして知るか(いかにして神を認識するか)という大切な問題にも繋がって参ります。私 たちはえてして、神を知るための根拠は私たちの理性だと考えます。それも大切でしょう。し かし人間の理性を極限まで研ぎ澄ましてそれで神が「わかる」のではないのです。そうではな く、神を知る唯一の根拠は神ご自身の御言葉にあるのです。神の御言葉とイエス・キリストの みが真の神を私たちに示したもうのです。神の恵みのお働き(神の言葉・キリスト)を抜きに しては私たちは神を知りえないのです。逆に言うなら、御言葉のみが真の理性を私たちに与え るのです。キリストを正しく知る(告白する)なら、私たちは正しい理性すなわち正しい神認 識へと導かれるのです。  洗礼を受ける前に、私たちの教会では洗礼志願者に対して「試問会」をいたします。そこで も志願者に対して求められることは、知識などではありません。よく「私はまだ聖書を十分に 読んでいません」とか「まだキリスト教について十分な理解をもっていません」とか言って受 洗をためらう人がいますが、私はそういうときいつも「洗礼は入学式であって卒業式ではあり ません」と申します。私たちが学校に入学するときには、その学校の校則(規則と伝統)を守 ることが求められます。教会において求められることは唯一の「キリスト告白」です。キリス トを信ずる信仰が洗礼の唯一の根拠です。言い換えるなら、自分が如何に思うかが問題なので はなく、使徒以来の(今朝の御言葉のペテロの信仰告白以来の)教会の信仰告白にいま私たち が連なっているか否かが問われるのです。「私の信仰」ではなく「教会の信仰」が大切なので す。  このことを詳しく顧みて私たちの信仰生活にあてはめるなら、私たちは長く信仰生活を続け ているうちに、いつのまにか信仰の事柄や考えかたに悪い意味で慣れてしまい、なにかにつけ て信仰が他人事のようになったり、理屈だけになったり、あるいは自分に都合の良いように解 釈してしまうことがないでしょうか。信仰が生きたもの(主の御身体の共同体の信仰)とはな らず、個人的・主観的・体験的なものになってしまう危険が私たちにもあるのです。そうする と私たちの語る信仰の言葉は説得力のない空語になってしまいます。キリストの祝福と導きを 喜ぶ生活から離れるとき、私たちの信仰はいつでも偽善になってしまうのです。そうならない ためにも私たちはいつも今朝のキリスト告白に正しく立ち続ける者であらねばなりません。 「あなたこそキリストです」との生ける主の教会の信仰にいつも連なる私たちでありたいので す。主は「わたしはまことのぶどうの樹、あなたがたはその枝である」と言われました。どん な枝も幹から離れたら枯れるだけです。同じように世々の聖徒たちが告白してきたキリスト告 白に正しく立つ信仰でなければ、その信仰は一時は元気に見えてもやがては枯れしてしまうの です。私たちの真の生命(永遠の生命)は私たち自身にあるのではなく、ただ贖い主なるイエ ス・キリストの恵みにあるのです。  私たちの葉山教会は、全世界の主の聖なる公同の使徒的なる教会と等しくニカイア信条を告 白します。またわが国におけるニカイア信条のもっとも厳密な解釈であり、私たちが直接に連 なる旧日本基督教会の信仰告白として、私たちが実存をかけて採択し告白した「1890年日本 基督教会信仰の告白」を告白しています。この2つの信仰告白の上に建つのが連合長老会です。 それもみな全ては今朝の御言葉に根拠を持つのです。「あなたこそキリストです」この信仰を 明白に掲げんがためです。  さて、今朝の御言葉は実は「不思議な終わりかた」をしています。それは30節に主イエス の御言葉として「するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒めら れた」とあることです。私たちはこう考えるのです。イエスはキリストであられること(イエ スは十字架の贖いによって、全世界の人々の罪を贖いたもう、唯一の救い主であること)は、 一人でも多くの人に宣べ伝えられるべきではないのか?。それなのに主は「自分のことをだれ にも言ってはいけない」と言われる。これは伝道をしてはいけないと言うことなのだろうか? と。  これはもちろん、キリストを宣べ伝えてはならない、伝道してはならない、などという意味 ではありません。もともとここで「戒められた」と訳されている本来の言葉は、悪霊を戒める とか、嵐の海を鎮めるとか、そういう場合の「戒める・鎮める」と訳される言葉です。ですか らここで主イエスが「戒められた」ということは「キリスト告白が間違って用いられないよう に気をつけなさい」と言われたのです。当時のユダヤ人たちも、ポンテオ・ピラトも、パリサ イ人ですら、ある意味ではキリストを信じていました。しかしそれは政治的な解放者であり、 ダビデ時代の繁栄を回復してくれる国家君主であり、あるいは革命家としてのキリストでした。 そのような自分中心のキリスト解釈にあなたの信仰告白が陥らないように気をつけなさいと、 主イエスはペテロを「戒められた」のです。  それは、どうすれば私たちに守れるのでしょうか。それは、私たちが生けるキリストの御身 体である教会に堅く連なって生きることによるのです。真のキリストの教会こそ正しい信仰告 白の担い手です。私たちはこの主の教会の信仰告白に連なるとき、はじめて自己中心の信仰(ま た信仰生活)に陥ることなく、キリストと共にある祝福の自由の生活へと導かれてゆくのです。 ですから教会生活者・礼拝者として生きることこそ私たちに最も大切なことです。伝道もそう です。生けるキリストの教会から離れて独り歩きした(独走した)信仰になるとき、それは人 をキリストに導く生活にはならないのです。かえってキリストの御栄えを損なうことになるの です。事実マタイ伝によれば、この直後に主がご自分の十字架について予告をなさると、ペテ ロは主イエスの袖を引いて主を戒め「さようなことがあってはなりませぬ」と言ったのです。 主イエスはそのとき「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、ただ人のことを思 っている」と言われペテロを厳しく戒めたまいました。私たちも、神を畏れているようで、実 は人の顔(人の評価)だけを恐れていることがないでしょうか。私たちこそ主イエスに厳しく 戒められねばなりません。  私たちが主の教会に連なり、礼拝者として御言葉に養われ、来りたもう主を待ち望みつつ歴 史の中を主に贖われた者として生きるとき、正しい信仰告白(真のキリスト告白)に生きると き、その信仰こそは私たちを本当に自由にし、魂において健やかな、喜びと希望と感謝に満ち た人生を歩ましめるのです。使徒パウロの語る「キリストの内にはいっさいの富があり」主に 贖われた者の幸いと自由の生活がそこに始まるのです。ここに連なる私たち一人びとりが、い まそのような生活へと、主の僕たる「キリスト告白者」の生活へと、招かれ、支えられ、生か されているのです。