説    教    詩篇113篇1〜4節  ピリピ書2章6〜8節

「福音の麗しさ」

2012・02・12(説教12071417)  キリスト者として信仰の生涯を送った八木重吉という詩人がいます。近年ふたたび脚光を浴 びつつある人ですが、この八木重吉の詩に「うつくしいもの」という詩があります。「わたし みずからのなかからでもいい/わたしの外の せかいでもいい/どこかに『ほんとうに 美し いもの』は ないのか/それが敵であっても かまわない/及びがたくても よい/ただ 在 るということが 分かりさえすれば/ああ ひさしくも これを追うに つかれたるこころ」 ここには私たち人間が「うつくしいもの」を求めずには止まない気持ちと、しかもそれを見出 せない焦燥感がよく現わされています。私たち人間は美しい自然に触れたり、美しい絵を観た り、美しい音楽を聴いたりすると、それだけで大きな喜びや充実感を覚えます。自分の人生が 「豊かなものにされた」という思いを抱くのです。  しかし八木重吉はそこを敢えて乗り越え「それが敵であっても、かまわない」と語るのです。 「敵であっても」とは、自分と調和していなくても良いということです。自分に歯向かってく るものであっても良いと言うのです。調和がとれたものだけが美しいのではないというのです。 古代ギリシヤ人が追い求めた「調和こそ美なり」ではなく、たとえ調和が無くても、不協和音 を奏でていても、「ほんとうに、美しいもの」こそ私を生かしめる本当の力あるものである。 それは実は十字架の主イエス・キリストをさしているのですが、そこにこの詩人の信仰告白が あると思います。  パリのルーブル美術館に“ミロのヴィーナス”という古代ギリシヤの彫像があります。「フ ランスの至宝」「世界最高の彫刻」と称えられるものですが、その理由はそこに『人体の完全 な調和』があるからだと申します。しかしそのような「調和」だけが「本当の美の条件」では なく、本当の「美」はもっと奥深いものではないでしょうか。  私ごとですが、私は月に一度ある病院に通院しています。以前には主治医が日本有数の大病 院におりまして、そこに数年間通いました。その待合室で小さな出会いがありました。たぶん 40歳ぐらいの、重い知恵遅れと思われる男性が母親と一緒に来院していました。たまたまその 母親が私の妻と世間話を始めた。やがて男性が「のどが渇いたよう」と訴えはじめた。それで 妻が急いでお茶を買ってきてあげた、そんなひと幕があったのです。このご婦人はご主人が亡 くなられて初七日が済んで初めての通院でした。その重い知恵遅れのお子さんと2人で生活し ているのです。どんなに不安で心細い毎日かと思います。しかし私にはこの母親の姿が何にも まして「美しいもの」に思われました。それは「調和」のあるギリシヤ的な「美」とは明らか に違うのです。母子とも抗いえない苦しみを担い続ける生涯でしょう。しかしそこには人間と しての失われぬ本当の「美しさ」があると思いました。ミロのヴィーナス的ではない、八木重 吉の言う「ほんとうに、美しいもの」です。そうした例は私たちの周囲にもあるのではないで しょうか。  今朝の聖書の御言葉・詩篇113篇は、いったいこのどこに「美しさ」が描かれているのかと 私たちが訝らざるをえない御言葉です。この詩篇113篇こそは聖書全体を貫く本当の「美しさ」 を私たちに告げているものなのです。ここには、この世界にとって「最も美しきこと」が告げ られているのです。まず1節から3節まで、この詩人は「主のしもべたちよ」と勧めます。こ れは私たち一人びとりのことです。この「しもべ」とは礼拝者という意味の言葉です。言い換 えるなら既にキリストの限りない恵みによって「神の真実」(神の慈しみ)に捕えられている人々 です。私たちの真実ではなく「神の真実」のみが私たちを根底から支え生かしめる「美しさ」 なのです。その恵みに生きる者たちが「しもべ」と呼ばれているのです。ですからこの「しも べ」とは「礼拝者」という意味です。次に「主をほめたたえよ」とあるのは、原語では「ハレ ルヤ」という言葉です。直訳すれば「いざわれら主をほめたたえん」という礼拝への招きの言 葉です。この世界の現実、矛盾や苦しみや哀しみのあるこの世界のただ中で、それゆえにこそ 共に主の御名を讃美する「ほんとうの、美しいもの」へと主ご自身が私たちを招いていて下さ るのです。これは全ての人々への呼びかけです。  それはなぜでしょうか。答えは2節にあります「今より、とこしえに至るまで主の御名はほ むべきかな」。この「とこしえ」とは「永遠」ですが、時間と切り離された(ギリシヤ的な) 永遠ではありません。そうではなく、聖書が語る「永遠」とは「主なる神の御業」そのもので す。それは私たちの歴史と生活のただ中に到来した「永遠」であり、時間を活かしめる「永遠」 であり、歴史の中に生きて働く「永遠」であり、私たちを救う「永遠」です。聖書が語る「永 遠」は天から揺れ動く矛盾の世界を傍観しているようなものではありません。ギリシヤ的な「観 照」や仏教的な「諦観」ということはキリスト教には微塵もありません。聖書において最も大 切なものは「主の御名」(私たちに対する主なる神の救いの御業)なのです。それが今朝の御言 葉の2節と3節です。  ですからこの「主の御名」とは何かと申しますと、それは私たちのためにご自分の全てを献 げ尽くして下さった主イエス・キリストの御名です。私たちのためになされた主イエス・キリ ストの御業の全てなのです。主が私たちを極みまでも愛し、私たちのために負うて下さった全 ての御苦難です。それが「主の御名」という言葉で現わされているのです。それを「ほめたた える」とは、その「十字架のキリスト」を信ずる者としてこの歴史のただ中に生きることです。 自分の人生の全体をこの十字架の主の御業の中で新しく戴くことです。神の限りない愛の中に あって、すでに「かけがえのないもの」とされている私たちであることを知ることです。その とき驚くべきことが起るのです。「美しさ」など持ちえない私たちの存在が、キリストの愛に よって輝き始めるのです。  それは喩えて言うなら、月は自分自身では輝かず太陽の光を受けてはじめて輝くのと似てい ます。私たちも自分では決して輝き得ない。むしろこの矛盾と悲惨に満ちた人生において不平 不満を託ち、他者をも自分をも審き、罪をおかし続ける私たちです。しかしその私たちの全て の「罪」を背負って神の独子イエス・キリストが十字架におかかり下さった。そこに私たちの 全ての「罪」は贖われた。それを信じてここに集う私たち全ての者が、この歴史のただ中に、 神の愛により立ち上がる者とされているのです。神の永遠の「美しさ」(私たちに対する永遠の 愛)によって、私たちの生涯がキリストの愛の麗しさに輝き始めるのです。「もはやわれ生くる にあらず。キリストわが裡にありて生くるなり」(ガラテヤ書2:20)。  ドイツのフォン・ラートという旧約学者が、今朝のこの詩篇について語っている言葉を引用 します。「私たちのこの世界にとって“最高の美”とは、主なる神がイスラエルの歴史的実存、 すなわちイスラエルの民のただ中に降下されたことにある…それゆえイスラエルの歴史にと って最も記憶すべきことは、神ご自身がみずからを放棄したもうまでに私たちの歴史の中に降 下したもうた恵みの事実である。この主なる神の降下という史実にこそあらゆる美の極みがあ る」。まさにこの「神ご自身がみずからを放棄したもうまでに私たちの歴史の中に降下したも うた恵みの事実」を新約聖書のピリピ書2章6節以下は教会の最古の讃美歌としてこう歌い上 げています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事と は思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有 様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であ られた」。  聖書が語る本当の「美しさ」は、ギリシヤ彫刻のような「調和ある美」や仏教の説く「静寂 の美」とは違います。または、私たちはどうしようもない苦しみや矛盾や哀しみを引きずって 生きているけれども、それを努力して乗り越えたところに「美」があるというのでもない。そ うではなく、天よりも高き聖なる万物の創造主なる「主なる神」みずからが、このどうにもな らない、苦しみと矛盾と哀しみに満ちた、どこにも調和などない私たちの人生の現実(歴史的 実存)のただ中に「みずからを投げ捨てて低く降って下さった事実」にこそ、聖書が全世界に 語っている本当の「美しさ」があるのです。そのキリストの愛、キリストの十字架の贖いの出 来事によってこそ、私たちの存在もまたそのあるがままに輝き始めるのです。「ほんとうの美 しさ」を持つものとされるのです。その「ほんとうの美しさ」とは「悲しみの人にして、病を 知れる」主の「しもべ」たる美しさです。主が私たちを限りなく愛して下さったように、私た ちもまたキリストの愛に生きる者とされることです。  これを新約聖書では「イエス・キリストの義」を着ると言います。漢字の「義」という字は、 ほんらい「犠牲の羊を我の上に掲げる」という象形文字です。私たちは自分の上に私たちの贖 い主なるキリスト(神の小羊)を掲げるのです。押し戴くのです。それが「キリストの義」に 生きることです。キリストを着ることです。「イエス・キリストにおける信仰による神の義」 に生かされることなのです。主は私たちのために醜さの極致である十字架の死を死んで下さい ました。それは、私たちを罪贖われた者の満ち溢れる「美しさ」に生かしめて下さるためです。  渡辺格という分子生物学者が「人間の終焉」という本の中でこう語っています。遺伝子操作 (バイオテクノロジー)を放っておくと、やがて人間は二通りの生きかたを選択するようにな る。一つは、強いもの(調和のある者)が弱いもの(調和のない者)を遺伝子操作によって排 除してゆく道。もう一つはその逆に、人間が弱さを負った者(調和のない存在)と共に『尊厳 ある終焉』を迎える道である。現代の私たちの社会はその二者択一を迫られているというので す。この場合「尊厳ある終焉」というのは「真の人間社会の形成」ということです。それこそ 東日本大震災によっても明らかにされた道です。そのような時代にある私たちに大切なことは、 私たちが本当にキリストの福音によって生かされた「主のしもべ」になることです。そして「い ざわれら主をほめたたえん」と心からなる礼拝に生きることです。まことの神を知ることこそ、 人間を人間たらしめる唯一の道だからです。  ここに、矛盾だらけの、綻びだらけの、破ればかりの私たちの全存在を、そのあるがままに かけがえのない「あなた」として愛し、かき抱くように祝福の生命へと招き、堅く支え導いて 下さるかたがおられる。そのおかたが、十字架のキリストが、私たちのために贖いの死を死ん で下さったのです。それゆえにただキリストの福音のみが、これからの時代に責任ある「生命 の言葉」を持ちうるのです。キリストの御名のみが、これからの歴史を切り開くまことの救い であり「ほんとうに、美しいもの」なのです。私たち一人びとりがいま、そのキリストの「ほ んとうの美しさ」「福音の麗しさ」によって救われ、贖われているのです。そして主はご自身 の教会を通して、全ての人々を救いへと招いておられるのです。  最後にガラテヤ書2章20節以下をお読みしましょう。「生きているのは、もはや、わたしで はない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあ って生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる 信仰によって、生きているのである」。