説     教    ルツ記1章1〜5節  ルカ福音書7章44〜50節

「ルツとナオミ」

2012・01・22(説教12041414)  今朝は旧約聖書ルツ記の御言葉が与えられました。私たちはルツとナオミの物語を「嫁と姑 の麗しい理想的な美徳物語」として読むこともできます。ナオミとルツが幾多の苦労の末に幸 福になった、いわばテレビドラマのような「感動実録物語」として読むこともできるのです。 しかしルツ記の本当のメッセージ(福音)はそのようなところはありません。ルツ記はただの 感動物語ではなく、主イエス・キリストによる救いの福音を私たちに伝える神の言葉だからで す。ナオミとルツの生涯もまた真の神に仕え「悔い改め」の喜びを現すものとして私たちに迫 ってくるのです。私たちは道徳ではなく信仰によってのみルツ記のメッセージを聞きうるので す。  ルツ記にはナオミとルツという2人の女性が登場して参ります。時代で申しますなにら紀元 前12世紀から11世紀にかけて、今からおよそ3100年以上昔というたいへん古い時代の出来 事です。この時代について1章1節は「さばきづかさが世を治めているころ」と記しています。 この「さばきづかさ」とは士師記の「士師」のことです。やがてダビデが現れ中央集権国家と してのイスラエルが建国されることになりますが、それより100年以上も前の時代です。この ルツ記の時代は政治的にも経済的にも非常に不安定な、イスラエルの歴史が「さばきづかさ」 による群雄割拠から国家体制へと変わろうとする大きな転換点にあった時代でした。  人間は大きな変化に直面し、それまでの価値観が役に立たなくなると大きな不安を感じます。 その不安感を士師記21章25節は「そのころイスラエルには王がなかったので、おのおの自分 の目に正しいと見るところをおこなった」と記しています。つまり社会全体が不安に満たされ、 導く者のない羊の群れのような状態であった。それで人々はみな自分が「正しい」と思うこと を勝手に行っていたのです。それは今日の世界とよく似ているのではないでしょうか。そのよ うな混乱と不安の時代の中で、夫エリメレクに先立たれたナオミという女性がどんなに苦労し て家庭を支えていたか、その苦労は想像するに余りがあります。しかも場所は「モアブ」とい うナオミにとっては異邦の地です。言葉さえうまく通じない、考えかたも習慣も宗教も何もか もが違う土地なのです。  その土地でナオミはマロンとキリオンという2人の息子を立派に育て上げ、息子はそれぞれ オルパとルツという妻を娶ります。しかし幸いも束の間、この激動の時代の中でナオミはまず 夫に先立たれ、さらには2人の息子も世を去り、しかも孫もおりませんでしたので、異邦の地 モアブにおいて文字どおり「天涯孤独の身」になってしまうのです。このような未亡人が生き 残る唯一の道は故郷に帰ることだけでした。ナオミは故郷イスラエルのベツレヘムに帰ること にするのです。しかし彼女にとっていちばん気掛かりであったのは、残された2人の嫁(オル パとルツ)のことでした。ここでナオミは信仰に堅く立ち(神への信頼に生き)この2人の嫁 にとって「それぞれの実家に帰ること」が最善の道であると勧めます。事実オルパは姑ナオミ のもとを離れて実家に戻ってゆくのですが、問題はルツのほうでした。ルツはナオミの懇切な 勧めにもかかわらず、決してナオミのもとを離れようとはしなかったのです。  今朝の1章15節以下を見てみしょう「そこでナオミは言った『ごらんなさい。あなたの相 嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさ い』。しかしルツは言った『あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでく ださい。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの 民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死なれるところにわたしも死んで、 そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、ど うぞわたしをいくえにも罰してください』」。  ここでルツは単にナオミを心から慕うがゆえに「離れたくない」と言っているのではありま せん。ルツはナオミを通して真の唯一の神を信ずる者になったのです。だから「あなたの神は わたしの神です」と言っているのです。主なる真の神を知り信ずる者になったからには、私は この神のもとから離れませんとルツは言うのです。このルツの変わらぬ堅い決意を聴いて、ナ オミはようやく彼女を連れてベツレヘムに帰る決意をします。それが主なる神の御心であるこ とを信じたのです。  さて、ルツを伴って故郷ベツレヘムに帰ったナオミの姿が1章19節に記されています。「町 はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、『これはナオミですか』」と語った。この 19節の「騒ぎたち」というのは、かつては幸福であったナオミが落ちぶれたことにベツレヘム の人々が驚いたという意味ではなく、もとのヘブライ語を直訳しますと、むしろベツレヘムの 人々は自分たちの町に戻ってきたナオミとルツを見て喜びに湧き立ったのでした。その理由は、 ナオミが異邦の地モアブでの生活の中でもなお堅く信仰に立ち続けたからです。そのナオミを 故郷ベツレヘムの人々は「騒ぎたつ」ほどに喜んで迎えたのでした。  だからこの19節はルツ記においてとても大切なのです。ベツレヘムの人々は、大変な苦労 の中で共に信仰に堅く立ち神の祝福の内を歩んだナオミとその異邦人の嫁ルツのゆえに、主の 御名を崇め喜びと感謝に「騒ぎたった」(主の御名を讃美した)のでした。常識ならナオミは 夫と2人の息子に先立たれ、ルツは天涯孤独な嫁として姑であるナオミの故郷に身を寄せたの ですから、人生の荒海に漂流した最も不幸で孤独な女性たちのはずです。その彼女たちを迎え てベツレヘムの人々は、彼女たちの上に注がれた神の豊かな恵みと慈しみのゆえに共に主の御 名を讃えるのです。ここに私たち教会の「聖徒の交わり」があるのではないでしょうか。  もっとも、最初はナオミ(英語ではノオミ)もその讃美の歌声に単純に応じたわけではあり ませんでした。むしろ人々に対してナオミはこう語っています。1章20節以下です。「ナオミ は彼らに言った『わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。 なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです』」。ナオミとはヘブライ語で「甘い」 という意味です。しかし彼女は自分の人生は「甘い」ものではなく「苦い」(マラ)ものであ る。だから自分のことを「ナオミ」と呼ばないで欲しいと願うのです。苦しみの渦中にあると き私たちにも神の恵みが見えなくなることがあります。ナオミも例外ではありませんでした。 どうして私のゆえに神の御名をほめ讃えるのですかと疑問を現しているのです。しかしナオミ の信仰は本物でした。豊かに与えられている時にだけ主を崇め、取り去られたときには主から 離れてしまう、そのような信仰ではなかった。彼女はあるがままに、悲しみの日にも悩みの時 にも、喜びにも苦しみにも、変わることなく主を崇め、自分の人生が主に贖われた人生である こと、主の器とされた生涯であることを心から感謝し、どのような時にも神の御名を讃える女 性であり続けたのです。  だからこそ、と言うべきでしょう。異邦モアブの女性であった嫁のルツさえもナオミに対し て「あなたの神を私も信じます」と告白しているのです。信仰の絆によって2人の女性は堅く 結ばれ信頼し支え合うようになりました。ベツレヘムはナオミの故郷であっても、モアブ人ル ツにとっては見知らぬ異邦の世界のはずです。その異邦のベツレヘムがルツにとっても今や 「主が共にいます祝福の世界」となるのです。いわば世界で最も弱く身寄りのない存在であっ たルツ、そのルツのためにナオミの絶えざる「祈り」が献げられたのです。ルツの新しい生活 はモアブでもベツレヘムでもナオミの絶えざる「祈り」の中でこそ新たにされ、慰めと祝福へ と変えられていったのでした。その「祈り続けた」期間は単純にこのルツ記から計算しても約 12年です。つまりナオミはルツのために生涯にわたって祈り続けたのです。  この「祈り」(愛と執成し)においてこそ、人の目には貧しく孤独で頼りなきものに過ぎなか ったルツの生涯は、限りなく豊かな祝福を他の人々にも現す人生に変えられてゆきました。や がてルツ記の3章になりますと、ルツはナオミの親戚であるボアズと再婚するのです。その間 にも様々な出来事があるのですが、神の導きのもと逆境を乗り越えたルツとボアズの間に、や がてひとりの男の子が与えられます。彼らはその男の子を「オベデ」と名づけました。このオ ベデという名はヘブライ語の“オーベード”(神を礼拝する)つまり「礼拝者」という意味の 名です。その礼拝とは何かと申しますと、それは私たちの「罪」の贖い主として神が独子イエ ス・キリストを世に与えたもうた、その測り知れない恵みと慈しみの御手が私たちの全生涯を 支えている事実を現すものです。その恵みの事実に対する私たちの感謝の応答こそ礼拝なので す。  ドイツ語では礼拝のことを“ゴッテスディーンスト”と言います。これはたいへん含蓄のあ る言葉で2つの意味があります。第一に「神に対する私たちの奉仕」。第二に「私たちに対す る神の御業」です。この第二の意味が大切なのです。私たちに対する神の御業とは、その独子 イエス・キリストをさえ賜わったほどに、あるがままの私たちとこの世界を愛し、その全てを 救い贖うために主が十字架にかかって下さったことです。だからこそ、このルツ記の最後の4 章14節を見るとこう記されているのです「そのとき、女たちはナオミに言った、『主はほむべ きかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。ど うぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように』」。  マタイによる福音書の冒頭に「主イエス・キリストの系図」があります。その系図中にこの 「オベデ」の名が見えます。マタイ伝1章5節です「ボアズはルツによるオベデの父」とある ことです。そしてこの系図はわれらの救い主・全世界の罪の贖い主イエス・キリストの御降誕 (クリスマスの恵み)へと繋がってゆくのです。私たちはこの系図(私たちのために人となられた キリストの恵みの真実)の中にルツの名が記されていることを改めて知ります。それは同じよう にまた、そこに私たち一人びとりの名も記されていることです。ルツは姑ナオミの絶えざる祈 りと信仰の中でキリストの恵みをさし示し、その全生涯をもって主の恵みの真実を指し示す女 性となりました。同じように私たちもまた、教会の祈りの中でこそ、聖霊なる神の執成しの中 でこそ、主の恵みの麗しさを証するものとされるのです。その恵みと祝福を私たちもまた豊か に主の御手から与えられているのです。