説    教  サムエル記上1章12〜18節 マルコ福音書5章33〜34節

「心を注ぐ祈り」

2012・01・15(説教12031413)  かつてドイツの哲学者ニーチェは「(人間にとっては)苦悩そのものが問題なのではない… 私たちにとって本当の難問は『なんのために自分は苦しまねばならないのか』という問いと叫 びに対して、人生が何の回答も与えてくれないことにあるのだ」と語りました。その言葉は今 なお新しい響きとして私たちの心を打つのです。今日ご一緒に拝読したサムエル記上1章には ハンナという一人の女性が登場して参ります。彼女もまた苦悩を負った一人の人間でした。ま さにニーチェが言うように、彼女の苦しみは「なんのために自分は苦しまねばならないのか」 という問いに誰も答えを与えてくれないことにありました。ハンナは孤独な女性です。人間は 苦難においてこそ孤独を感じるのです。ハンナはエルカナという人の妻でした。しかしこのエ ルカナには2節にあるように「ふたりの妻」がいました。もう一人の妻ペニンナには息子も娘 もありましたが、なぜかハンナには子供は与えられませんでした。夫エルカナは決してハンナ を愛していなかったわけではありません。5節を見ますと「エルカナはハンナを愛していた」 とはっきり記されています。しかしこの夫の愛といえどもハンナの苦しみを解決する手立てと はなりませんでした。  そのハンナの苦しみを理解するひとつの鍵は同じサムエル記上1章の8節にあります。すな わち「夫エルカナは彼女(ハンナ)に言った、『ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。 どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもりもまさっているではない か』」。エルカナはここでハンナに“十人の子供の存在と自分の愛情”とを比較して、直訳すれ ば「私のほうがずっと良く(好ましく満足がゆく)はずだ」と語っています。たとえハンナに 子供ができなくても、この私の愛はそれにまさる満足をあなたに与えているはずだとエルカナ は語っているのです。しかしどうでしょうか?。自分はこんなに相手を愛しているから相手の ことをいちばん良く「わかっている」というのは、私たちの陥りやすい思い上がり(傲慢)で はないでしょうか。しかもエルカナはここでハンナに対して、自分がこんなに愛しているのに、 あなたが悲しむのは“おかしいことだ”と言っているのです。いわば自分の愛を盾にして妻の 苦しみを「間違っている」と審いているのです。ここにも私たちがよく陥る過ちがあります。  私たちはそれが家族であれ他人であれ、相手の本当の苦しみに耳を傾けてはおらず、自己主 張のみを繰返していることがなんと多いことか…。エルカナもここで結局は自分が中心になっ ています。だからエルカナの言葉はその優しさとは裏腹にハンナの心に触れることがありませ ん。人を愛するとは相手のことを「自分がいちばんよくわかっている」と思うことではなく、 たとえ理解できない「苦しみ」がその人を支配する時にも、ただひたすらその人を信じること です。それが「愛する」ということなのです。人間の強さは愛に現れるとすれば、弱さもまた 愛にこそ現れます。夫婦の関係にさえ“無理解”が侵入してくることがあるのです。それは親 子・親類・友人・同僚・近所付き合い、その他あらゆる人間関係に言えます。そこで人間の愛 の問題は、実は「信仰の問題」に行き着かざるをえないのです。それはニーチェが苦しみと絶 望の中で「神は死んだ」と叫んだのとは正反対の歩みをすることです。さらに言うなら、そう したニーチェの叫びをさえ包み抱く生命の祝福が聖書にのみ示されているのです。苦悩のゆえ に徹底的に孤独に陥った者を、その孤独もろともにかき抱くようにみずからの内に包み、愛し 貫いて下さるかたが私たちの救い主であられる。そのかたこそ私たちが信じ仰ぐ唯一の主イエ ス・キリストです。このキリストのもとでのみ私たちの思いや力を遥かに超えたあらゆる人間 関係が祝福され建てられてゆくのです。愛の問題は信仰の問題に行き着くのは「愛は神から出 たもの」であり、キリストにこそ人間を生かす真の愛があるからです。私たちの人生はいかな る意味においても私たちの「主」とはなりえず、私たちの人生がまことの唯一の「主」を必要 としているのです。  この恵みを知る者として、ハンナは「神の宮」に行き涙ながらに祈りを献げます。10節を見 ると「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた」と記されています。それは「シ ロで彼らが(エルカナの一族が)飲み食いした」ときの出来事でした。シロとは聖所(礼拝の 場所)が置かれていた町です。そこでエルカナの一族が楽しく飲み食いする中で、ハンナはた だ独り離れて聖所で「はげしく泣き」ながら主に向かって「心を注ぎ」祈りを献げました。こ の10節の「心に深く悲しみ」とある元々のヘブライ語はヨブ記3章20節にある「心苦しむ者」 と同じ言葉です。よく私たちは「苦しい時の神頼み」は本当の信仰ではないと申します。しか し実を言いますと私たちは「苦しい時の神忘れ」という罪をおかすことのほうが多いのではな いか。ハンナは違うのです。どうにもならない苦しみと孤独と絶望のあるがままに、主なる神 の御前に出で自分の心を(魂を)注ぎだす祈りを献げるのです。これは一時の祈りの姿ではなく、 祈り続けた彼女の生涯そのものでした。心を注ぎ出して「祈り続ける」ことこそハンナの生涯 を貫く信仰の姿勢でした。  このハンナの祈りは余りに深きゆえに、かえって神殿の祭司エリにさえ誤解されてしまいま す。エリはハンナが「酔って」迷いごとを言っていると思った。14節です「(エリは…彼女に 言った)、いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。それに対してハンナは15節でこ う答えました「いいえ、わが主よ、わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのでは ありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを、悪い女と思わないでくだ さい。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。この「積る憂いと 悩み」という言葉がハンナの苦しみと悲しみの全てを物語っています。私たちの人生には自分 では“どうすることもできない苦しみ”があります。健康であった人が重い病気の床につくこ とがある。順調であった仕事や事業が失敗し破綻してしまうことがある。楽しかった人間関係 が少しの誤解や行き違いで犬猿の仲になることがある。計画していたことが予想外の悪い結果 を生み出し「後悔先に立たず」になることがある。家庭の中にも、家庭の外にも、近隣との関 係にも、わが子の成長の中にさえも、思いがけない困難が立ち現れて私たちは「苦しむ」ので す。それこそ「自分はなぜこの苦しみを受けねばならないのか」答えが与えられぬままに、し かも全力でそうした「苦しみ」を担うことを余儀なくされるのです。このハンナの姿にこそ私 たちの姿(人生)をそのまま重ねることができるのです。  ハンナは申します「わが主よ、わたしは不幸な女です」と…。同じように私たちもまた心を 注いで祈る時を与えられているのではないでしょうか。このとき、私たちが主の御前に注ぐ 「心」とは何でしょうか?。それこそ主イエス・キリストを信ずる信仰であります。そうする と、ハンナはここで単に「私は不幸です」と祈っているのではありません。苦しみの果てにな んの救いもない不幸、人生の意味そのものが虚無でしかない「不幸」をハンナは知っています。 しかし今朝の祈り(御言葉)はそれで終わってはいません。まさにそのようなハンナに、私たち 一人びとりの現実に、驚くべき福音の音信が告げられているのです。それは「主の前に心を注 ぎだす」祈りに生きる私たちを、すでに主の御手が堅く捕え支えていて下さるという事実です。 たとえいかなる苦しみの中にありましても、御前に注ぎ出す私たちの「心」(信仰)を主は御 手に受け止めて下さり、私たちを限りなく祝福し、慰めと希望と勇気を与えて下さる。私たち の苦悩と孤独のあるがままを受け止めて下さる主が(あなたと共に)おられる。まことの神が、 救い主が、われらと共におられる。そのかたこそ私たちのために人となりて世に来て下さり、 十字架を担って下さった神の子イエス・キリストなのです。  一人の忠実な信仰の生涯を全うした兄弟がいました。洗礼を受けてから教会に仕えた期間は それほど長かったわけではありません。50歳を過ぎてから洗礼を受け、以来謙遜かつ忠実に教 会に仕え礼拝者であり続けた兄弟でした。キリストの教会形成のために本当に良い働きをした 人でした。このかたが長く苦しい闘病生活の後に天に召されるのですが、その直前に私は聖書 を読んで、いつものように病床で祈りを献げました。そのときこの兄弟ははっきりとこう言い ました。「先生、私は世々の聖徒らと共に、来るべき主を待ち望みます。私は神を待ち望み、 決してみそばを離れません」。その翌日この兄弟は安らかに主のもとに召されたのでした。こ の兄弟のこの信仰告白こそまさにハンナの「心を注ぎ出だす祈り」そのものでした。そこにキ リストに贖われた者の新しい喜びの人生がありました。たとえ死の陰の谷を歩むとも、贖い主 なる神と共にあり、死を超えたキリストの生命に支えられ、生命の祝福に満たされた信仰の歩 みこそ「心を注ぎ出す祈り」の生涯なのです。  主を信ずる生涯、信仰者の人生の美しさと素晴らしさは、信仰のゆえに苦悩や災いから逃れ た者の“無事息災”などではありません。そうではなく、積もりに積もる憂いや苦しみや悲し みのただ中にあっても、なおそこでこそ十字架の主に贖われ支えられ祝福を受け祝福を語り告 げる僕として、十字架の主と共にあり続ける人生の輝きであり「キリストわが裡にありて生く るなり」の恵みなのです。それこそ主の御前に「心を注ぎ出す祈り」に生き続けることです。 主なる神の御言葉と御業に自分の全存在・全人生を明け渡し、神の器とされた者の幸いであり 喜びです。  今朝あわせて拝読したマルコ伝5章25節以下にも、それははっきりと現れています。12年 間も「長血」を患っていた女性が主イエスによって癒された。彼女は畏れつつ主に自分が癒さ れたことを申し出た。そこで34節に主はこの女性に優しくお告げになるのです「娘よ、あな たの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。この「安心して行きなさい」とは 「わたしの平安のもとに生き続けなさい」という言葉です。主はここに、主の教会に連なる私 たち全ての者に「わたしの平安のもとに生き続けなさい」と告げていて下さいます。私たちの 全存在を祝福し生命を与えて下さるのです。ハンナの祈りはまさに、十字架の主イエス・キリ ストによってのみ限りない生命の祝福へと変えられてゆく私たちの「救い」を示しています。 主なる神は私たちの全存在・私たちの全生涯を、その御手にことごとく受け止め、その魂を根 底から甦らせ、生かしめ、いかなる時にも平安と幸いを満たして下さいます。まさにそのかた の御前に私たちはハンナと共に「心を注ぎ出だす」者とされているのです。