説    教    創世記1章26〜31節  第一テモテ書4章4〜5節

「地に満ちよ」

2012・01・10(説教12021412)  17世紀フランスの哲学者パスカルは「パンセ」の中でこう書きました。「人間は自然の中に あって何者であるか。無限に比すれば虚無、虚無に比すれば一切、すなわち無と一切との中間 者こそが人間である」。ここでパスカルが語るのは、私たち人間は「無」でもなければ「一切」 でもなく「虚無」でもなければ「永遠」なるものでもない、その中間者(中間にある存在)なの だということです。この「中間者」である私たちが“不確かさ”を生み出し、いつも「不安」 を抱かせるのです。とりわけ昨年は日本中が大きな不安に包まれました。東日本大震災と津波 そして原発事故による言い知れぬ「不安」がこの国を覆い尽くし、今なおそれは続いているの です。  そうすると、私たちは本当に「中間者」ではないでしょうか。人間は自然を克服しコントロ ールする大きな力を持っています。原子力(核分裂)の発見と活用などはその代表でしょう。し かし反面、その科学技術の粋を集めたはずの原子力発電所が、自然の猛威の前に驚くほど弱い ことが露呈しました。人為的ミス(ヒューマン・エラー)の問題も浮き彫りにされました。そこ で私たちは行くべき道を見失うのです。人間の進歩発達は幻想に過ぎなかったのか?。むしろ 私たちは元の世界(祖先らの築いた秩序)に戻るべきではないだろうか?。いわゆる環境保全と エコロジーの道を求める当然の欲求が出てきます。いま人間は(世界は)「進むべきか」それと も「戻るべきか」の分かれ道に立たされているのです。そこにも「不安」がつきまといます。  もし戻ったとしたら経済活動は大丈夫だろうか?。ヨーロッパのEUでさえ破綻が囁かれて いる今日です。なぜか日本だけが国際通貨危機のシワ寄せを円高という形で押し付けられてい る。ではこのまま進んだらどうなるか?。またあのような大震災がどこかで起こらないとは限 りません。そう考えますと、ますます「不安」ばかりが募るのではないでしょうか。それこそ パスカルの言う「中間者」である自分の「不確かさ」を思わざるをえないのです。いま世界全 体が深い霧の中を“進むべき道”を求めて彷徨っている状態なのです。言い換えるなら、いま や世界中が根本的な“不安からの本当の解放”を求めているのです。いま現代世界に必要なの は、祖先たちの価値観と先人たちの伝統的精神に帰ることであるよりも、これからの新たな時 代を生きてゆく「真の平安」と「確かな指針」を見出すことです。現代人が求めているものは 「教訓」ではなく「救い」なのです。  その意味で今朝、私たちに与えられた創世記1章26節以下はまさに現代の世界に「真の平 安」と「確かな指針」を鮮やかに示しているのです。しかしどうでしょうか?。私たちは日ご ろ27節にある「神は自分のかたちに人を創造された」という言葉をどのように読んでいるで しょうか?。そして何よりも28節にある「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という主なる神の 祝福の言葉をどう受け取っているのでせしょうか?。私たちはここでこそ思うかもしれないの です「この御言葉ほど今の私たちの気分から遠い言葉はない」と…。もしこの28節が初詣祈 願のような「五穀豊穣」「家内安全」「商売繁盛」「子孫繁栄」の約束であるなら、私たちは「今 はそれどころの時代ではありません」と感じることでしょう。むしろ現代は「少子高齢化」の 時代です。女性が昔に較べると子供を産まなくなっている、産みづらく、子育てがしづらい現 実が私たちを取り囲んでいるのです。加えて勤労の担い手である成人人口が高齢化しつつあり ます。年金保障の問題も様々な課題があります。しかし創世記1章28節が語っている祝福は、 そのような現代社会の現実の諸問題を無視した(現実の空気を読めない)言葉などではありませ ん。  大切なポイントは「神は自分のかたちに人を創造された」という27節の言葉にあります。 そもそも創世記が書かれた時代は紀元前6世紀の中頃「バビロン捕囚」という未曾有の悲劇が イスラエル民族を襲った時代でした。新興国バビロニアの圧倒的な軍事背力の前に、ひとつの 国民が、ひとつの国家が、地球上から(歴史から)抹殺されていったのです。あらゆる者が生存 を否定され、存在を拒否された、そうした過酷な状況の中で創世記は書きとめられたのです。 ヤスパースという哲学者は、創世記が書かれた紀元前6世紀を「人類史における軸の時代」と 呼びました。この苦難の時代にこそ、のちのヨーロッパ文明を形成し、また人類の歴史全体を 導いてゆくあらゆる“真実なるもの”が輝き現れたとヤスパースは言うのです。人類の歴史は この紀元前6世紀を「軸」として動いているのだと語っているのです。それは言い換えるなら、 今朝の創世記1章28節の御言葉こそが、私たちの「不安」の時代を変革する唯一の「軸」(救 い)であるということです。それは現実には、イスラエルが戦争に敗れ、国家が滅び、国民は奴 隷となり、虐殺され、都は瓦礫の山となった時代でした。神殿は焼かれ、体制は崩壊し、あら ゆる価値観が虚無に帰したのです。ひとつの世界が破滅を迎えたのです。その時代にこそ創世 記は書き記されたのです。  だから創世記は(聖書は)ただ単に「豊穣と子孫繁栄の約束」を私たちに投げ与えているもの ではありません。「聖書はこう語るが、現実はそれとは逆だ」という建前論を語っているもので はないのです。そうではなく、世界が信じがたい虚無と破壊に服し、人間がその生存を徹底的 に否定され、絶望と虚無が地を支配している、そのような暗黒の荒廃のただ中にあって、なお そこでこそ「はじめに神は、天と地を創造された」と高らかに信仰を告白しているのが創世記 なのです。そこにこの世界の本質があるのだと宣べ伝えているのです。この世界は神の創造さ れた、神の愛したもう「かけがえのない世界」である。そこに存在する私たち一人びとりもま た、神が常に御心にとめたもう「かけがえのないあなた」であるということ。そしれゆえこの 世界は無目的・無意味に存在するものではなく、人間が生み出すいかなる暗黒をも、すでに神 が支配しておられ、神の聖なる永遠の愛の御心が成就する世界であるということ、それを創世 記は全人類に宣言しているのです。  ですから創世記は(聖書は)人間の虚無と世界の破壊的な現実から私たちの目をそらせるも のではなく、むしろ永遠と歴史の接点において根源的に人間の虚無の現実に深くかかわり、私 たちの罪の現実を打ち破る世界の確かな未来と、神の祝福の約束を告げているのです。私たち は全て「神のかたちに創造された存在である」という事実にまさる祝福はないのです。この「か たち」とは見える形(フィギュア)のことではなく、目に見えない人間の本質(魂)を意味し ます。つまり私たちは神の極みなき愛を受け、神の言葉に答え、神の祝福によって日々の生活 へと新たに押し出されている存在であるということです。それはどのような虚無的状況におい ても、どのような不安の時代においても、決して変わることのない“存在への勇気と希望”を 私たちに与えるものです。言い換えるなら、私たちは主なる神に「かけがえのない汝」として 日々の生活へと召されているのです。信仰生活において大切な3つのことがあります。それは 〔第一〕に聖書をよく読むことです。〔第二〕にいつも祈ることです。〔第三〕に主日の礼拝を 重んずることです。聖書、祈り、礼拝、これは私たちキリスト者の生活を形作る3本柱であり、 そのどれひとつが欠けても信仰生活は成り立ちません。「聖書を読み祈るけれども礼拝を献げ ない信仰生活」はありえず「聖書を読み礼拝を献げるけれども祈りのない信仰生活」もありえ ず「礼拝を献げよく祈るけれども聖書を読まない信仰生活」もありえないのです。  私たちは生ける「神の御言葉」(聖書)によってこそ、人生において最も大切な、生きる目的 と確かな指針(方向)をさし示されます。また「祈りの生活」においてこそ、まことの神との永 遠の交わりを確かなものにさせられます。そして礼拝を重んずることによってこそ、罪と死に 打ち勝ちたもうたイエス・キリストの復活の生命に連なる者とされてゆくのです。私たちの存 在は主なる神の永遠の愛に基づくものだからです。英語の聖書では今朝の27節の最初は Let us make… となっています。この「アス」とは三位一体なる神ご自身です。私たちの存在は、 父・御子・聖霊なる三位一体の永遠の神との交わりにおいてのみ、あらゆる「不安」を超える 「真の平安」に満たされたものになるのです。「恐れるなかれ、われ永遠に汝と共におるべけ ればなり」。イエス・キリストにおいて神は私たちの罪を贖って下さった、この「インマヌエ ルの神」こそ「真の平安」を世界に与える唯一の福音なのです。  それゆえ今朝の御言葉は、十字架の主イエス・キリスト測り知れない恵みに私たちの心を向 けさせます。「罪」とは私たちが「神のかたち」に造られた喜びと幸いを失うことです。「その 喜びと幸いを忘れること」だと言っても良いでしょう。私たちは自分が神の言葉に答えつつ神 の愛に呼び出されて生きる者であることを忘れるとき、罪の支配を受けるほかにないからです。 しかしそのような私たちのために、神の永遠の御子イエス・キリストが私たちの「罪」のいっ さいを背負って十字架にかかって死んで下さった…滅びとしての呪いの死をことごとくご自 身に引き受けて下さった。その御子イエスの死によって私たちは教会に連なる者とされ、罪に よって失っていた「神のかたち」を回復せしめられ、勇気と希望をもって、キリストと共に、 キリストの愛の内を歩む者とされているのです。そのキリストの贖いの内にこそ、あらゆる時 代において私たちが人間として、神の被造物として、神の造られたこの世界において、健やか に真の自由と喜びと感謝をもって生き、そしてあらゆる困難に対処して正しい道を選びとる唯 一の道があるのです。そこにあらゆる「不安の世紀」は終りを告げ、キリストにある揺るがぬ 希望をもって私たちは生きる者とされているのです。  東日本大震災の津波によって完全な廃墟となった東北の街々、あの中心に立って(想像してみ て下さい)私たちキリスト者だけが慰めと希望を語りうるのではないか。「始めに神、天と地と を創造したまえり」と…。神が祝福して下さった「始め」がここにある。この廃墟の中に主が 共に立っていて下さる。この廃墟の中にこそ私たちの揺るがぬ希望がある。あの津波の犠牲と なったおびただしい人々、その人々のためにも永遠の平安と祝福を祈る教会に私たちは連なっ ているのです。そこに世界が進むべき正しい道が示されている。この廃墟の向こう側にしか見 出せない祝福が世界に与えられている。そのことを今朝の創世記1章の御言葉は鮮やかに示し ているのです。  そして、忘れてはなりません。今朝の1章28節の続きにはこうありました。「生めよ、ふえ よ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治め よ」。どうか心に留めましょう。この「治めよ」とは「あなたの思うがままに支配しなさい」 という意味ではありません。そうではなく「神の御言葉のままに忠実に管理しなさい」という 意味です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして汝の主なる神を愛せよ。また己のご とく隣人を愛せよ」という意味です。宇宙と世界万物の唯一の主なる神のみが永遠の「主」で あられます。私たちはこの「主なる神」の御心に叛く「管理」をしてはならないのです。神の 御心に忠実な管理者となるなら、私たちはおのずから全ての生きるものを大切にし、人間を大 切にし、人間の社会を大切にし、己のごとく隣人を愛する道を歩む者とされるのです。  原発の事故のあと「安全神話の崩壊」という記事をよく目にしました。しかしもともと安全 は「神話」の上に成り立つものではありません。本当の「安全」は神の御言葉に従う自由と謙 遜と勇気の中でこそ確立するのです。平安はなおさらです。いまこそ、私たちのこの国がその ような歩みをする国家へと勇気を持って歩むことができるように、私たちはそれぞれの持場に おいて真の神を証し、礼拝を重んじ、聖書に日々親しみ、祈りを厚くする一年を送って参りた いと思います。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」。なによりも神みずから、主イエス・キリスト によって生命の祝福を全世界に満たして下さいました。歴史の主なる神は必ずこの国を祝福し、 世界を救い、平安を与えて下さるのです。