説    教    イザヤ書11章1〜9節  マルコ福音書1章14〜15節

「新しき主の年を迎えて」

2012・01・01(説教12011411)  アイルランド生まれの劇作家サミュエル・ベケットの作品に「ゴドーを待ちつつ」という戯 曲があります。1956年にフランス語で書かれた作品です。ある田舎道でエストラゴンとヴラ ディミールという2人の男がゴドーという人物が約束の時に訪れるのを待ちながら会話を交わ している…ただそれだけの単純な設定です。しかしこの作品の中でベケットは、混迷した現代 という時代において常に「なにかを待ち望まずにはおれない」現代人の心の奥底にある願望を 見事に描いているのです。ヴラディミールはエストラゴンに「(ゴドーが来たら)私たちは救 われるのだ」と語る場面があります。どうして救われるのかはよくわからない。とにかく“ゴ ドーの到来”によってこの世界と人生の意味が一変してしまうほどの「救い」が起こる。それ を待ち望んでいる2人の男の姿だけがこの作品を観る者の心を捕らえるのです。論理的な辻褄 も何もないのですけれども、そもそも現代人の希望に「論理性」などあるのか?…という問い をベケットは私たちに投げかけているのです。  今日は言わずと知れた元旦でありますが、教会暦(キリスト教の暦)ではこの日を「顕現日」(エ ピファニー)と呼びます。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった主イエス・キリストに東方の 3博士たちが宝物を献げた日だと言われています。幼子主イエスが最初に人々にご自身を現し て下さった日、それで「顕現日」と言うのです。ですからエチオピアの教会などでは元旦をク リスマスとして礼拝を献げます。そこで、これはとても不思議なことではないでしょうか。主 なる神がこの「待ち望み」を3博士たちに、そして私たち全ての者に与えて下さったことです。 一個の星の光だけが彼らを主イエスのもとに導いたのです。先日の日曜学校ページェントでも その場面がありました。遥かな砂漠の道を3博士たちは星の光だけに導かれてベツレヘムの馬 小屋に来たのです。それは旧約のミカ書に「キリストはベツレヘムにお生まれになる」と書い てあることを信じたからです。  ここにはベケットの言う「論理」を超えた「待ち望み」の向こうにあるかたがおられます。 そこに私たちを待っておられるのは全世界の救い主イエス・キリストだからです。私たちの主 キリストが、私たちの救いのためにこの世界に(この歴史の中に)お生まれになったという出 来事です。主イエス・キリストにおいてご自身を現わしたもうまことの神は、実に「待ち望む」 私たちに「出会いたもう(顕現したもう)救い主」なのです。わが国の森有正というすぐれた哲 学者が「待ち望み」の反対の言葉として「アスィミレーション」という言葉を挙げています。 それは「自分に同化させてしまう」という意味です。「アドヴェント」が「冒険」にも喩えら れるほどの神の驚くべき“救いの御業”であるのに対して「アスィミレーション」とは自分を 拡大してゆくことです。自分を大きくしてゆくことです。私たちがしていることはほとんどそ れだと森有正は言うのです。そこで拡大されてゆく自分というものは、実は少しも大きくなど ならないのです。自分をどんなに拡張してもそれは失望に終わるほかはないのです。決して「救 い」とはなりえないのです。先ほどのベケットの語る「待ち望み」が私たちの心を捕らえるの は、そこには少しの「論理性」も無いけれども、2人の男の愚直なまでに素朴な対話の中でた だ外なる救いを「待ち望む」姿勢だけが貫かれているからです。論理を超えた神の御業にのみ 人間のそして世界の「救い」があるのだという明確なメッセージがあるのです。  そこで今朝の御言葉イザヤ書11章1節から9節におきまして、預言者イザヤはまさにその 「外なる救い」(私たちのためになされた、神の驚くべき御業)の内容を告知しています。こ れは「よく考えて理解したら受け入れなさい」という「論理の言葉」などではありません。そ うではなく、いまここに生きる私たち一人びとりが聴いて信じて「アーメン」と応えるべき「福 音の言葉」として与えられているものです。私たちはこの御言葉を「待ち望む」者としていま ここに集められているのです。まず1節にこうあります。「エッサイの株から一つの芽が出、 その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」これは主イエス・キリ ストのことをあらわしています。切り倒された木株は私たちの目には絶望にしか見えません。 しかしそこにひとつのひこばえ「一つの芽」が萌出て成長し実を結び「主の霊」がその上にと どまるのです。主なる神が御子イエス・キリストにおいて、私たち全ての者の救いのためにこ の歴史の中に来て下さったクリスマスの出来事をあらわしています。すなわち主イエスのご降 誕とご生涯とご苦難、つまり聖誕と十字架の死と葬りと復活と昇天の出来事です。主がなして 下さった全ての救いの御業が語られているのです。  さて、主イエスの上に「とどまった霊」とは2によれば「知識と主を恐れる霊」でした。私 たちがここで意外な感じを受けるのは、どうして「神の御子」であられるキリストがなおその 上に「主を恐れる霊」(主を信ずる霊)を受ける必要があったのか、ということです。その理 由は主が“まことの人”として私たちのもとに来て下さったことにあります。最初の人アダム の「罪」は私たち自身の罪です。それこそ森有正の言葉で言う「自己拡大(自己栄化)」 (assimulation)の罪です。自分を拡張してゆくことが人間の幸福であると思い上がる罪です。 それならばキリストはそれと全く逆の歩みをなさいました。最初の人アダムの「罪」を(すな わち私たちの罪を)完全に贖われるために「神の聖と義にかたどられた新しき人」として十字 架への全き従順の歩みを貫いて下さったのです。  そのことが3節に記されています。これは大切な御言葉です「彼は主を恐れることを楽しみ とし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めを なさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの、柔和な者のために定めを なし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はそ の腰の帯となり、忠信はその身の帯となる」。主イエスはヨハネ伝4章10節に「わたしがあな たがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、 みわざをなさっているのである」と言われました。また、あのゲツセマネの祈りにおいて「父 よ、願わくはこの杯(十字架)をわれより離れさらしめたまえ。されどわが思いにあらで、御 心のままをなしたまえ」と祈られました。永遠の神の御子であられるにもかかわらず、この歴 史の中に「来たりたもう主」となられ“まことの人”として御父に全き従順の歩みを献げたも うたのです。それはすなわちパウロがピリピ書2章6節以下にこう記しているとおりです「キ リストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえっ て、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。  それならば、主イエスが私たちのためになさって下さった“救いの御業”とは主イエスのご 生涯とご人格の全てをさしています。ここに「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」 とあります、この「固守する」という言葉は「ハルパゲモス」というギリシヤ語ですが、それ を英訳すると「アスィミレーション」(自己拡大)という言葉になるのです。主イエスはそれ と全く反対の歩みを私たちのために献げて下さいました。すなわち私たち「神の外に出てしま った者たち」の救いのためにご自身が神の外に出て下さった。それが「固守なさらなかった」 ということです。その主イエスの従順は「十字架の死に至る」ほどの全き従順の歩みであった のです。  罪の本質は神から離れることです。そして自分の栄光を求め、他を押しのけてまで自分を拡 張してゆくことです。私たちは造られたる僕に過ぎないにもかかわらず、無限に自己を拡張し 「神と等しい者に」なろうとするのです。キリストはそれと全く反対であられました。永遠の 神の唯一の御子であられるにもかかわらず、私たちを極みまでも愛して私たちのためにご自分 の全てを空しくし、十字架の死に至るまで従順であられた。私たちのためにご自分の全てを献 げ尽くして下さった。呪われたる罪人の永遠の死を十字架において担い尽くして下さった。そ れこそが主が飲まれた「杯」なのです。私たちは自然的な肉体の死にさえ耐えられない存在で す。しかし主は永遠の滅びとしての絶対の死をもご自分に引き受けて下さいました。そのこと によって私たちの「罪」を「死」もろとも撃ち滅ぼして下さったのです。  まさにその主イエスの十字架による救いの御業が、今朝のイザヤ書11章においては「さば きをなす」または「定めをなす」または「撃ち殺す」という言葉であらわされているのです。 すなわち、主は私たちを限りなく愛したもうその愛のゆえに、私たちを罪と死の支配の下に決 して留めておきたまわない。私たちを放置なさらないのです。まさに私たちを救うためにこの 歴史の現実の世界に「来たりたもう主」となられたのです。だからこそ主はガリラヤにおける 宣教の第一声を「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ伝1:15) という御言葉で始めたまいました。この「神の国は近づいた」とは「あなたのためにいま神の 恵みの永遠の御支配が訪れている」という意味です。「神の国」とは「神の永遠の御支配」と いう意味です。今までの私たちは罪と死の縄目のもとにあった。しかし、キリストを信じ告白 して教会に連なり礼拝者として歩むとき、私たちはキリストの永遠の恵みの御支配のもとに堅 く守られ支えられているのです。もはや罪と死は私たちを少しも脅かすことはできないのです。  今朝の御言葉の6節以下もそのことと深い関わりがあります。「おおかみは小羊と共にやど り、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導 かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、…」。これは現実には起こ りえない、単なる理想の世界を描いているのでしょうか?。そうではありません。イザヤはこ こでも、ただ十字架の主のみを見上げて御言葉を語り告げています。これは主の御約束なので す。対立しかありえないところ、限りなく自分のみを拡張してゆく世界の現実のただ中にあっ て、ただ十字架の主イエス・キリストによって本当の平和と一致がこの歴史の中に実現するの です。そのことを力強く現し、約束しているのが今朝の御言葉なのです。  この御言葉の祝福の約束のもとに、私たちは「新しき主の年2012年」を歩み始めます。歴 史の主なる神を見上げつつ、信仰の歩みを共に貫いて参りたいと思います。