説    教     イザヤ書7章14節   ルカ福音書2章1〜7節

「父子決別の降誕祭」 クリスマス礼拝

2011・12・25(説教11521409)  クリスマスは全世界に与えられた「大きな喜びの時」であり救いの訪れです。神の御子イ エス・キリストが、私たちの救いのために人となり、ベツレヘムの馬小屋に御降誕なされた この日、私たちは全世界の人々と共に心から主を寿ぎ喜び祝うのです。この喜びを現わすた めに世界中の至るところにクリスマス・ツリーが飾られ、光煌めく飾りがあしらわれ、道ゆ く人々もまた暫しの人生の辛ささえ忘れて、この季節ばかりは浮き立つごとくに見えます。  しかし私たちは、この喜びに輝くソプラノの響きの中に、底知れぬ厳粛な通奏低音が、神 の永遠の御心から響くバスの歌声が聴こえていることを忘れてはなりません。ゲーテの代表 作である叙事詩ファウストはグレートヒェンの罪を暴き「彼女は審かれた」と告げるメフィ ストフェレスの声を打ち消して「彼女は救われたり」と告げる神の大きな低き御声が厳かに 響き渡るのを聴きました。  このクリスマスにおいて私たちが聴く音信はそれに遥かにまさる事柄です。私たち人間の 「罪」が容赦なくこの世界のあらゆるものを審き虚無に陥れんとする現実の中で、私たちは 神からの厳かな通奏低音の響きをいま新しく聴くのです。クリスマスの歌声は高らかに響き ます。しかしそれは明日には儚く消えてしまう虚しい歌声などではないのです。まさに永遠 に変わることのない主イエス・キリストによる真の「救い」の音信が、あらゆる虚無の現実 を打ち砕くまことの喜びが、全世界に宣べ伝えられているのです。それがクリスマス(キリス ト礼拝)の喜びなのです。  それでは、私たちが聴くべき“神からの通奏低音”とは何でしょうか。クリスマスの出来 事は私たちから見るなら、神の独子イエス・キリストがお生まれになった限りない喜びの日 です。しかしもし、私たちのまなざしをひとたび天に向けるなら、そこにはいかに尊い「父 子決別」の厳粛な出来事があったことでしょうか。私たちが顧みたいのはまさにその「父子 決別」の出来事です。宮沢賢治の作品に「永訣の朝」という詩があります。賢治の妹が亡く なるその朝、彼女は降り積もった雪を持ってきて欲しいと賢治に願うのです。「あめゆじゅと てちてけんぢゃ」と願うその妹の願いを、賢治は自分に対する妹の祝福であると知って泣く のです。「決別」とはその意味で死別の淵に立つことです。2度と再び会うことのない永遠の 別れの時です。  それなら、父なる神が私たちのために最愛の独子イエス・キリストをお与えになったクリ スマスの出来事こそ、父なる神と御子イエスとの「決別」の出来事ではなかったでしょうか。 父なる神は御子イエスをベツレヘムの馬小屋に人として生まれしめたもうたのです。永遠の 昔から御父と共にありたもう御子イエスが、死すべき人となられて十字架への道を歩まれた のです。それこそ父なる神と御子イエスとの「父子決別」の出来事でした。親にとって最愛 のわが子を死出の旅に送り出すほど辛く悲しいことがあるでしょうか。ドイツの教会では昔 から“クリッペ”と申しまして、キリスト御降誕の様子をミニチュアに再現した飾りを教会 の前に飾る習慣があります。それは貧しい中にも安らぎと美しさに満ちた平安な光景です。 クリッペとは飼葉桶のことですが、飼葉桶の中に眠りたもう幼子キリスト、優しく見守るマ リアとヨセフ、そして東方の三博士と羊飼いたち、羊や馬やロバや山羊やニワトリなどがそ の様子を見つめている。そのような飾りを皆さんもご覧になったことがあると思います。  しかしその、平和で美しい馬小屋の聖家族の光景は、繰り返して申しますが、父なる神と 御子イエスとの厳粛な「父子決別」の恵みに裏付けられているのです。私たちの救いのため、 この罪なる全世界の救いのために、主なる神はご自身の最愛の独子をお与えになったのです。 言い換えるなら、神は御子を通してご自身を私たちにお与えになったのです。それがクリス マスの本質です。私たちはクリスマスに互いにプレゼントを交換しますが、それは神が私た ちのために最愛の御子イエスを下さった出来事をあらわすためです。この最大最高のプレゼ ントに支えられてこそ、私たちのクリスマスの祝いは成り立っているのです。  カール・バルトという神学者が、ある年のクリスマスの説教の中でこのような話をしまし た。私たちはベツレヘムの馬小屋の飼葉桶の中に神の御子イエス・キリストをお迎えした。 しかしその御子をお迎えした飼葉桶を作った木を切り出したのと同じ森からあの十字架が作 られたのだ。バルトが語るのはこういうことです。主イエスの「ゆりかご」となった飼葉桶 が作られたのとの同じ森の木から十字架が作られたのだというのです。言い換えるなら、御 子の御降誕を喜び祝うまさに同じ私たちが、御子を十字架にかけたその者ではないかという ことです。クリッペを美しいと思う同じ私たちの心が、美しからざる全てのものをも生み出 しているのです。クリスマスを祝う私たちの歌声が、主を「十字架にかけよ」という叫びに もなったのです。  それならば、まさにそのような私たちの手に負えない暗黒の現実のただ中にこそ、父なる 神は最愛の独子をお与えになったのです。父なる神は天の高みから私たちの生きるこの現実 の世界を見下ろし、そこがご自身の御子の降誕に相応しい場所だから、美しく安らかな清い 場所だから、だから御子をお与えになったのではないのです。むしろ逆なのです。私たちの 「罪」がどうしようもないものだから、この世界を覆う暗黒が深い故にこそ、父なる神はそ の相応しからざるこの世界のただ中に最愛の御子をお与えになったのです。ヨハネ福音書3 章16節にこう記されているとおりです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛 して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。  まさにそのことこそ、今朝のルカ福音書2章7節が告げている音信(おとずれ)なのです。 「客間には彼らのいる余地がなかったからである」。御子イエス・キリストは「余地なき所」 にこそお生まれ下さった救主なのです。私たちの「余地なき」(まことの神から離れてしまっ た)現実のただ中にこそインマヌエル(神われらと共にいます)主が全ての者のためにお生まれ 下さったのです。この世界の最も暗く貧しく低く悲惨な場所に、まことに「余地なき」所に、 御子なるイエスはお生まれ下さったのです。  私たちの教会には十字架が高く掲げられています。教会は十字架の主を仰ぎ続ける者の群 れです。しかしその福音の中心とも言うべき十字架こそ、実は神が御子イエスと「父子決別」 をなさった場所なのです。その御子イエスを天使ガブリエルは「インマヌエル」(神われらと 共にいます)と呼ぶのです。それならばいま私たちが共に寿ぐこのクリスマスこそ「父子決別 の降誕祭」ではないでしょうか。「罪」の塊のような私たちを救うために、神は永遠に変わら ず私たちと共にいたもうインマヌエルの主となって下さった。その事実をはっきり告げてい るのがクリスマスなのです。神なき私たちと共にいたもうために、まずキリストみずから神 なき者となって下さった。父なる神との決別をせられた。神の外に出てしまった私たちの救 いのために、神の御子ご自身が神の外に出て下さった。それがクリスマスであり、あの十字 架の出来事なのです。  だから、クリスマスのメリーネス(限りない喜び)は「父子決別」の厳粛な出来事に基づいて いるのです。クリスマスは十字架の贖いの出来事とひとつのものなのです。この御子を信ず る者は全て救われるのです。それゆえ私たちもまた、あのザカリヤの讃歌をもって主を崇め たいと思います。「主よ、今こそ御言に随ひて、僕を安らかに逝かしめ給ふなれ。わが目は、 はや主の救いを見たり。是もろもろの民の前に備へ給いひし者、異邦人をてらす光、御民イ スラエルの栄光なり」。