説    教   イザヤ書40章1〜5節   第一ペテロ書1章22〜25節

「アドヴェントの主」

2011・12・18(説教11511408)  神谷美恵子さんという、哲学者にして医者でもあった女性がいました。瀬戸内海にある長島 という小さな島の「愛生園」というハンセン氏病患者の医療施設で亡くなられるまで働いた敬 虔なキリスト者でした。この神谷さんの「人間を見つめて」という著書の中にこのような一節 があります。「戦後25年のあいだに、日本は物では豊かになったが、心はかえって飢えている …」。古代ローマの五賢帝マルクス・アウレリウスの「自省録」の訳者でもある神谷さんにと って、現代の社会は“心の飢え渇き”を抱いたまま歴史の砂漠を彷徨う旅人の群れに喩えられ ているのです。神谷さんは「戦後25年」と言いましたが今や「戦後66年」経ちました。そこ でなおさら見えて来るものは、あの未曾有の大災害「東日本大震災」を通していよいよ明確な 人間の魂の飢え渇きではないでしょうか。だからこのことは単に「昔は良かった…戦前の日本 は心が豊かだった」などという比較の問題ではありえません。戦前も戦中も戦後も私たち日本 人は(またこの世界は)ずっと“魂の飢え渇き”を抱えたまま歴史の砂漠を彷徨ってきたのでは なかったか…。それこそ「物では豊かになったが、心はかえって飢えている」という砂漠なの です。  本物の砂漠を肌で経験されたかたがおられるでしょうか?。私はエジプトのシナイ半島で本 物の砂漠に初めて出遭いました。見渡す限りの岩石砂漠、摂氏50度の炎天下に陽射しを遮る ものすらありません。「これは死の世界以外の何物でもない」と感じました。砂漠の本質は「全 ての人間生存を拒絶する」ことにあります。存在そのものの徹底的な否定が砂漠の本質です。 それならばなおのこと、今朝の聖書の御言葉であるイザヤ書40章はなんと驚くべき福音の告 知でありましょうか。まずここで預言者イザヤは、主なる神が全世界にイスラエルの民を通し て「語れ」と命じられた唯一の「慰めの告知」を宣べ伝えるのです。1節です「あなたがたの神 は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、そ の服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を、 主の手から受けた』」。  これは直接的には紀元前532年のバビロン捕囚の終わりをさしています。しかし「そのとが はすでにゆるされ、…もろもろの罪のために二倍の刑罰を、主の手から受けた」とは、私たち が自分の罪を歴史や大災害の苦難によって「償った」という意味ではありません。そうではな く、あなたを罪から救うために“いま来たりたもう救い主キリストを信ぜよ”という神の恵み の宣言なのです。十字架の主イエス・キリストの福音がここに宣べ伝えられているのです。だ からこそ続く3節以下にはこう記されます。「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、 さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろ もろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして 主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは、主の口が語られたのである』」。  ここで言われている「荒野」と「砂漠」は、もとのヘブライ語で言うなら「荒野」とは「岩 石砂漠」であり「砂漠」は「砂砂漠」のことです。いずれにせよ全ての人間存在を拒絶する熾 烈な「死の世界」であり生命のありえない虚無の場所です。神の栄光が現われるとは思えない 土地です。東日本大震災の大津波で破壊された街の跡を「まるで原子爆弾が落ちたようだ」と 表現した人がいました。徹底的な破壊がそこにはありました。まさに「荒野」と「砂漠」が出 現したのです。古代イスラエルの人々は砂漠には「悪霊」が住んでいると考えました。だから そこは“神に見捨てられた土地”だと考えられたのです。単に「砂漠」という熾烈な環境が人 間を寄せつけないだけではなく、そこは“神の栄光を現わしえない場所”だから人間はそこに 近づいてはならず、人間の住むべき場所とはなりえないのだと考えたのです。  ところが預言者イザヤを通して、主なる神が語られた福音は驚くべきものでした。まさにそ の「荒野」と「砂漠」に全ての人々が通る「大路」(大きなまっすぐな道)が「主なる神の栄光 を現わすために」造られると言うのです。「われわれの神のために」とは「われわれの神の恵 みのゆえに」という意味です。それは私たちが主なる神をお迎えするための“凱旋道路”です。 古代社会では王が戦争に勝利をおさめた記念として目抜きの場所に“凱旋道路”が造られまし た。まさにそのように、主なる神は私たちのために、私たちを捕らえ支配していた全ての「罪」 の支配から私たちを解放し贖って下さった。罪と死の支配に絶大な勝利を収めて下さった。だ から主のために“凱旋道路”が造られるのです。しかもその道路は「荒野」と「砂漠」のただ 中に造られるのです。主は言われます。立ち塞がる山と丘(峨々たる岩山も)みな低くせられ 平らになり、深い谷間は埋められて平らかになり、そこに「主の栄光があらわれ、人は皆とも にこれを見る」と…。ここに今朝の福音の中心があります。「荒野」で「砂漠」で(つまりこの 歴史のただ中で)私たちは「救い主なる神」と出会うのです。そして神と共に歩む者となるので す。だからその歩みは「凱旋」なのです。絶大な勝利の主に連なる喜びと自由の歩みです。十 字架の主イエス・キリストによる罪と死に対する絶大な勝利に、私たちはただ主を信じ教会に 連なることによって与る者とされているのです。この礼拝がすでに「凱旋」の喜びなのです。  東日本大震災は私たちが「豊かである」と思っていたこの国の本質的な「貧しさ」を浮き彫 りにしました。しかしそれは「滅び」(終わり)ではないのです。むしろ歴史の中に口を開いた その破れを通してこそ、神の祝福と癒しと救いが豊かにこの国に注がれるのではないでしょう か。その突破口になとなるものこそあの大震災ではないかと思うのです。私たちに生活にも 様々な労苦がありましょう。病気に苦しんでいる人もあるでしょう。しかし神はその破れを通 してこそ私たちを豊かに祝福して下さいます。主の力は「弱きところにこそ完全に現れる」の です。「荒野」も「砂漠」も私たちの国の歴史の現実であり、何より私たち自身の現実ですが、 その「荒野」と「砂漠」は「いま来りたもう救主キリスト」(アドヴェントの主)によって「神 の栄光の現れる場所」(祝福と幸いと自由を告げる約束の土地)へと変えられるのです。まさに 今がその「時」なのです。  「豊かさ」が「貧しさ」でしかない「荒野」と「砂漠」の現実のただ中に、まさに今朝の2 節の言葉が告げられています。「ねんごろにエルサレムに語り…」これを直訳すれば「同伴者 としてエルサレムの心に語りかけよ」という意味です。主キリストがはっきり示し現わして下 さった真の神は、私たちに条件付きの救いを与えるようなかたではないのです。「ここまで登 れたものだけが救われる」と言うかたではないのです。そうではなく、真の救い主なる神は「い ま(あなたのために)来たりたもう神」です。アドヴェントの主です。高みにいて私たちを見下 ろし「登って来い」と命ずる神ではなく、まさに私たちの「荒野」のごとき現実のただ中に測 り知れぬ愛をもって「来たりたもう」かたを私たちは「イエス・キリストの父なる神」とお呼 びするのです。  何よりも真の主なる神は私たちのために、最愛の独子イエスを私たちに賜わったのです。そ れが今朝の5節に「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」とあることです。 この「主の栄光」とはキリストの十字架の出来事を示しています。ヨハネ伝でも主はご自分の 十字架を「わたしの栄光」と呼びたまいました。私たちのために測り知れない苦難を担われ、 十字架に全てを献げ抜いて下さった恵みにより、私たちの「砂漠」の現実のただ中に「神の栄 光」(キリストによる真の救い)が現されたのです。そして「人は皆それを見る」とあるように、 その福音はキリストの身体なる教会により全世界に宣べ伝えられ、全ての人々を真の永遠の生 命のもとに招いているのです。このかたこそ生ける者と死せる者すべての真の唯一の救い主な のです。  「荒野」も「砂漠」も見捨てられた土地のはずでした。しかしまさにその「見捨てられた土地」 に等しい私たちの現実のただ中に、真の救い主は降って来て下さいました。ベツレヘムの馬小 屋降誕せられたキリストこそ、唯一の救い主なのです。このかたのみが私たちの存在の重みを そのどん底において受け止めて下さった。それがクリスマスであり十字架の出来事なのです。 このかたのみが私たちを極みまでも愛し、私たちに祝福の生命を与えて下さいます。十字架に よる贖いによって、私たちはもはや「砂漠」の中に神の栄光を見出すのです。神と共に「大路」 を歩む者とされているのです。活けるキリストの現臨あるゆえに、もはやそこは「荒野」でも 「砂漠」でもないのです。キリストが私たちと共にいて下さる恵みのうちに、心を高く上げて 歩む者とされているのです。それゆえにこそ私たちの群れは「イスラエル」(神の御支配)と 呼ばれるのです。