説     教    詩篇96篇1〜13節   第二コリント書5章17節

「日々に新たなる恵み」

2011・12・04(説教11491406)  つい先日ある高級官僚が、新聞記者たちと酒の席での「オフレコ」発言で罷免された事件が ありました。発言自体は沖縄の歴史を無視し人々に不信感を与えるもので、人間としての常識 と品格さえ問われる失言でした。しかしあの事件を観て思ったことがあります。酔った勢いの 失言とはいえ似た場面は今までにもあったでしょう。そのとき同僚や友人の中に「それはいけ ない言葉だよ」と真剣に諌める人がいなかったのでしょうか?。もしそういう人が一人でもい たらあの事件は起こらなかったと思います。言い換えるなら架空の“現在”(人間の権力)の傲 慢さがあの発言を惹き起こしたのです。彼にとって歴史は意味を持たずただ架空の“現在の権 威”だけが大事だったのです。  このことは私たちの社会全体についても言える問題です。東日本大震災から10ケ月経ちま した。いまなお6000名以上の行方不明者がおり、原発の事故も収束しておらず、被災者への 救援も十分でなく、しかしいつの間にか人々の思いと関心はあの大震災から離れつつあります。 あと数年も経てば廃墟の跡に新しい街が生まれ、さらに20年も経てば大震災と原発事故の記 憶さえ薄らいでゆくのかもしれません。東京も安政と大正の大震災と大空襲で3回廃墟になり ました。今ではその片鱗を探すことさえ難しいのです。しかし廃墟がただ新しい街になること が「復興」なのではありません。それは本当の「新しさ」ではないのです。本当の「新しさ」 は歴史の唯一の主なる神の御言葉にのみあるのです。神の言葉においてのみ東日本大震災の悲 しみが慰められ、あの廃墟がこの国の祝福の注ぎ口になることを私たちは信じます。「絆」は 横の繋がりだけでは「絆」たりえないのです。  かつてドイツのヴァイツゼッカー大統領(この人は哲学者でもある人ですが)は「過去を正し く直視しない者は未来に責任を持ちえない」と語りました。これは単なる歴史の問題ではなく きわめてキリスト教的・聖書的なメッセージです。織物は縦糸と横糸からできています。人間 の社会も横糸だけ(現在だけ=人の権威だけ)の社会はひ弱な架空の社会にすぎません。縦糸 のない織物が成り立たないように、過去と未来のない現在は人間を生かしえない歴史なき空虚 なのです。私たちの今日の時代ほど「真の新しさ」を求め必要としている時代はありません。本 当の「新しさ」とは架空の“現在”にぶら下がる「新しさ」などではないはずです。縦糸のしっ かりした織物だけが真の美しさと強さを持つように、神の言葉を失わない「現在」だけが本当 の「新しさ」(主にある慰めと永遠の祝福)を持つのです。そして聖書は明確に、その縦糸こそ 主イエス・キリストの父なる神であると告げているのです。  今朝の御言葉・旧約の詩篇第96篇、これは冒頭の句「新しき歌を主に向かひてうたへ」で よく知られている詩篇です。この「新しき歌」とは“新しく作曲された新奇な讃美歌”という 意味ではありません。最近「讃美歌21」というのが出ましたが、それを礼拝で用いなさいなど という意味ではないのです。そうではなくこの「新しき歌」とは2節にあるように、私たちが 「日ごとにその救を宣べ伝え」る礼拝者として生きることです。だから「全地よ、主にむかっ て歌え」とあるのも単なる修辞(レトリック)ではなく、真の礼拝においてこそ世界が(人間が) 回復されてゆく(祝福の生命を持つ)という希望の告知なのです。御子イエス・キリストによっ て私たちの底知れぬ罪を贖って下さった神の愛と御業がこの世界を成り立たしめているので す。  もともとこの詩篇96篇は構造としては極めて単純な詩です。まず1節から6節までが前半、 7節から13節までが後半の部分です。そしてヘブライ語の原文では「うたえ」「ほめよ」「宣べ 伝えよ」と2人称複数の命令形が続くのです。この2人称複数というのは礼拝者の群れである 私たちに対して、しかも「あなた」と2人称で私たちを呼びたもう神の御言葉をあらわしてい ます。ではその主の御言葉の内容とは何かと申しますと、まず4節の「主は大いなる神にして、 いとも讃めたとふべきもの。もろもろの神にまさりて恐るべきものなり」です。また後半で申 しますなら10節以下「『主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は 公平をもってもろもろの民をさばかれる』」であり、また最後の13節「主は来られる。地をさ ばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれ る」とあることです。これが詩篇96篇が告げる福音の内容です。  そこで、特に私たちが心に留めたいのは10節の「主は王となられた」という喜びの告知で す。この「王となられた」とはヘブライ語では「状態」をさす言葉ではなく動詞です。つまり 直訳すれば「主は(あなたのために)王に即位される」という福音の音信なのです。だからこ の96篇は「王の即位式の詩篇」とも呼ばれます。その本当の意味は十字架の主イエス・キリ ストが私たちのためにご自身の肉を裂かれ血を流されて私たちの罪の永遠の贖いを成し遂げ て下さったこと。ただその十字架の恵みによってキリストが私たちの「永遠の王」に即位した もうた恵みの事実です。ですから「王となられた」とは状態ではなく、私たちと歴史と世界全 体に対する神の救いの御業そのものを現します。逆に言うなら、私たちはこの事実の前に中立 であることはできない。態度保留していることはできない。架空の“現在”を人生の土台にす ることはできないのです。匿名の「わたし」であることはできないのです。そうではなく、私 たちは全て神が最愛の独子の死をもって贖って下さった者たちである。私は主によって贖われ た者である。この事実が私たちの人生を織り成す“不変の縦糸”なのです。  ですから今朝の詩篇の13節に「主は来られる、地をさばくために来られる」という神の救 いの御業と、私たちのための「王の即位」の出来事は共にこの世界に対する唯一の救いとして 宣べ伝えられています。ここでは「さばき」と訳されていますが、元々のヘブライ語では「統 べ治めたもう」という意味の言葉です。そしてこの「統べ治めたもう」とは旧約では「罪を贖 う」という意味です。そうするとはっきりしてくるのではないでしょうか。主なる神は私たち のために(あなたのために)真の王に即位された。それはあなたの底知れぬ罪を贖いあなたを 朽ちぬ永遠の生命の祝福に甦らせて下さるためである…そのように今朝の詩篇96篇ははっき りと私たちに告げているのです。「地をさばくために来られる」とは「全世界の罪を贖うため に来られる」ということなのです。  罷免されたあの高級官僚に限らず、私たちはまことの神を見失うとき、この巨大化した社会 の中で“匿名の現在”という虚構の横糸だけで生きてしまいます。それに「自分」という名を つけているに過ぎないのです。私たちはキリストを知らずに生きるとき、過去と現在と未来を ばらばらに自己分裂するほかない存在です。あの官僚の失言問題も自己分裂した歴史なき人間 の破綻を示すのです。それは私たちに無関係でしょうか?。人を恐れることはあっても、神を 畏れ(信じて)いないなら、私たちこそ縦糸のない人生、縦糸のない言葉を生きるしかないので はないでしょうか?。  長く仙台の宮城学院の院長を務めた人が、もう天に召された人ですが、私にこういう話をし て下さいました。彼がまだ少年であったとき、父親から預かった大切な荷物を駅で盗まれてし まった。悄然として家に帰って泣いていた。すると父親が彼に怒ってこう言ったというのです。 「どうして盗まれたお前が泣いているのだ。泣かねばならぬのはお前ではなく、お前の荷物を 盗んだ者ではないか。主なる神は見ておられるぞ」。この「主なる神は見ておられる」という 言葉がこの人のキリスト者としての全生涯を支え決定したのです。私たちはいつも「主なる神 は見ておられる」この恵みの事実の中を健やかに歩む者になりたいのです。歴史の縦糸たる神 の御手を見失わず、そこに人生の横糸を織り成す僕になりたいと思うのです。  高浜虚子は「去年今年貫く棒のごときもの」と歌いましたが、私たちの人生を(過去・現在・ 未来)を貫く神の真実、キリストの愛、聖霊の導きを、私たちがいつもしっかり見据えている ことが大切です。信仰による目覚めた歩みが大切です。礼拝の大切さも、教会への奉仕のわざ も、この「貫く棒のごときもの」を人生の縦糸となす祝福の問題なのです。人が見ているとか いないとか、評価されるとかされないとか、聞かれているとかいないとか、そういう現在軸(横 糸)だけの生きかたと違うキリスト者の歩みは、まさに「主なる神は見ておられる」縦糸の恵み において成り立つのです。その主の恵みの確かさに私たちの人生は貫かれている。そこにこそ 日本の社会が必要とし、また私たちが生きるべき本当の「新しさ」があるのです。  ドイツのフォンラートという人がこの96篇について、この「王としての神の即位は、日々 新たな恵みとして私たちの人生に立ち現れるものだ」と語っています。そのとおりです。「神 は王となられた」とは「状態ではなく動詞である」とはそういうことなのです。昨日は王とな られた神が今日は違うということはありえない。そうではなくヘブル書13章8節が語るよう に「イエス・キリストは、昨日も、今日も、永遠までも変わりたもうことなし」なのです。こ のキリストの変わらざる恵みが私たちの人生を貫いてやまないのです。死に至るまで、否、死 を超えてまでも私たちを貫く神の贖いの恵みなのです。そこに私たちはいま共に招かれ生かし められているのです。  それだけではありません。この詩篇96篇の中には神の統べ治めたもう歴史の中に(キリス トの贖いの恵みの中に)人間だけではない、実に世界のあらゆるものが意味を持ち、祝福を受 け、回復されてゆくことが約束されているのです。1節から順に申しますなら「全地」という 言葉が9節にもあり、「もろもろの国」という言葉が3節と10節にあり、「もろもろの民」と いう言葉が3節5節7節10節13節の5回出てくる。そして旧約には珍しい「世界」という言 葉も10節と13節に出てきます。パウロがエペソ書6章12節で「わたしたちの戦いは、血肉 に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の 霊に対する戦いである」と語っていることを思わされます。そして同じエペソ書1章20節に こうあります。「神はその力(救いの御業)をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中から よみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢 の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上 におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとし て教会にお与えになった。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべての もののうちに満たしているかたが、満ちみちているものにほかならない」。  この詩篇96篇こそ 「最も新しい救いの出来事」(de novissima)を告げているのです。その 「最も新しいこと」とは「すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかた」が「あ なたのために、そして全世界の万物のために、王となられた(贖い主となられた)」という福 音の告知です。この福音に生きる私たち、この福音の縦糸に貫かれた人生のみが本当の「新し さ」を持つのです。それは本当の慰めと喜びを知る人生であり、死に打ち勝つ生命に支えられ た人生です。キリストの御降誕と復活の恵みに支えられた群れの感謝の歩みです。この新しさ と喜びを受けつつ、この降誕節の歩みを、ただ主なる神のみを見上げ、新き歌を主に向かいて 歌いつつ真の礼拝者として生きて参りたいと思います。