説     教   創世記22章1〜14節   ヨハネ福音書3章16節

「イサク奉献」

2011・11・27(説教11481405)  旧約聖書の中で「イサクの奉献」の記事ほど私たちの魂を震撼させ困惑させるものはないの ではないでしょうか。ある日のこと、主なる神はアブラハムに、彼の愛する独子イサクを「燔 祭」(焼き尽くす献げもの)として献げよとお命じになるのです。聴き違えなどではありません。 生命より大切なわが子を主なる神は「献げもの」として求めたもうたのです。それでアブラハ ムは神に示された「モリヤの地」にイサクと共に上って行き、そこで剣を執ってわが子に手を かけんとした瞬間、主なる神はアブラハムをお止めになり「あなたの子、あなたのひとり子を さえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを知った」(12節) と言われた。イサクの生命は救われ、神はイサクの身代わりに“身代わりの山羊”(スケープ・ ゴート)をお備えになったという物語です。  そこで、この「イサクの奉献」の物語は筋書きとしては単純なものですけれども、私たちが どうしてもここに難しさを感じるのは、主なる神がアブラハムに独子イサクを燔祭(焼き尽く す献げもの)として「献げよ」と命じたもうた、その神の真意がわからないという一点に尽き るのです。神は「愛の神」ではないか云々などという人間本位の甘えた理解などは問題外です。 そのような甘えた議論の入りこむ余地なき厳粛さをもって今朝の御言葉はアブラハムとイサ クの親子に、そして私たち一人びとりに与えられているのです。  元をただすなら、アブラハムは神によって「諸国民の父」「信仰の父」となるべく祝福を受 けたのです。満天の星空を示され「汝の子孫もまたかくのごとくなるべし」と約束されたので す。そして長いあいだ子が与えられなかった妻サラとの間に老年にしてやっと与えられた一粒 種がイサクでした。その大切な独子イサクをこともあろうに主なる神は「燔祭」として献げよ とお命じになる。矛盾と言えばそれほど大きな矛盾はありません。だから宗教改革者ルターは こう語りました「アブラハムは度を失った。彼は息子を失うばかりではない。神までが嘘つき に思えたのである。神は『イサクによって汝に子孫が与えられたり』と言われた。しかし今度 は『そのイサクを汝の手にて殺すべし』と言われるのだ。そんな残酷な矛盾する神を、誰が憎 まずにおれるだろうか」。  私たちの人生にも、神が「残酷な矛盾する神」に思えて仕方がない時があるのではないでし ょうか。ある禅の老師に「縁起が良い言葉を書いて下さい」と揮毫を依頼した人がいました。 頼まれた老師は筆を執ると「親死に、子死に、孫死ぬ」と書きました。頼んだ人がさすがに怒 りました「縁起が悪すぎる」と言うのです。しかし禅の老師が申しますには「それは違う。最 初に親が死に、次に子が死に、最後に孫が死ぬ。これほど縁起の良いことはない。この順序が 逆になることこそ縁起が悪いことなのだ」。その人は「なるほどその道理だ」と納得してあり がたくその揮毫を頂戴したということです。しかし親に先立って子が死に、時には孫が先立つ ことさえ実際に起こるのが私たちの世界(人生)なのではないでしょうか。親にとって子を失う ことは自分を失う以上の悲しみです。アブラハムがイサクをどんなに愛していたか主なる神は 良くご存じであられたはずです。それなら神はアブラハムに対して、あなたにとって“絶対に かけがえのないもの”を献げるようにお命じになったのです。アブラハムは信仰の人ですから、 わが子イサク以外のものだったら喜んですぐに献げたことでしょう。しかしイサクだけは違う のです。イサクだけは別なのです。それは「献げられるべきもの」ではないはずです。決して 死んではならぬ大切なわが子です。それを主なる神は「あなたの手で殺して献げよ」とお命じ になる。これが「残酷で矛盾する神」でないとすれば何がそうなのでしょうか。  しかも、私たちはこの「イサク奉献物語」を読むとき、イサクの年齢を年端もゆかぬ幼児で あったかのように考えますがそうではありません。もともとのヘブライ語の言葉から見てもイ サクはこのとき16歳以上の青年でした。ですからイサク自身も自分の意思で父アブラハムと 共に「モリヤの地」までの辛い道程を歩んだのです。ベエルシバからモリヤの地(今日のエル サレム)まで直線距離で約80キロ、歩いて3日間の旅路です。この旅路のクライマックス、 いよいよモリヤの山に登ろうとするところでイサクは父アブラハムに「父よ、火とたきぎはあ りますが、燔祭の小羊はどこにありますか」と訊ねます。これに対してアブラハムは「子よ、 神みずから燔祭の小羊を供えてくださるであろう」と答えています。このこととても大切です。 ここでアブラハムは「神みずから…備えてくださる」と答えていますが、この「備えてくださ る」と訳された元々の言葉はラテン語では“プロヴィデレ”という言葉です。英語のプロヴィ デンス(摂理)あるいは「備える」という意味の“プロヴァイド”の語源になった言葉です。 本来の意味は「あらかじめ見る」ということです。もちろん本質的には私たち人間が物事を「あ らかじめ見る」ことなどできません。そうではなく、私たちのために「あらかじめ見ておられ るかた」すなわち真の神に自分の存在と人生行路の全てを委ねること、それが“摂理(プロヴ ィデンス)に生きる信仰”です。ですから「摂理」は「運命」とは正反対のものです。「運命」 とは機械的な冷たい力が私たちを支配しているという考えですが、「摂理」とはそうした冷た い力から私たちを解放し、私たちを限りなく愛し、共にいて下さる神の御手が私たちをいつも 守り導いていて下さるということです。それが「摂理」を信じることです。  まさに父アブラハムとイサクは、この「神の摂理」を信じる者としてモリヤの山に登ってゆ きます。つまりこのときイサクは自分を「燔祭の小羊」として献げる覚悟をしています。だか ら16歳の青年イサクは律法に従って縄で縛られ父アブラハムに剣で殺されようとするのを何 の抵抗もせず黙って身を任せるのです。新約聖書のヘブル書11章1節に「信仰とは、望んで いる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。信仰生活の本 質は「神の摂理の御手」に自分の人生行路の全てを委ねて生きることです。そしてそれは私た ちが人生において最も大切なものを「見る」生きかたなのです。ではその“人生において最も 大切なもの”とは何であるか。それをヘブル書は「望んでいる事がらの確信、まだ見ていない 事実の確認」と教えているのです。逆に言うなら、これがない人生は「モリヤの山」に登るこ とのできない人生なのです。安閑諾々として小康に甘んずる人生です。生と死の順序の逆転だ けで崩れてしまう人生です。アブラハムもイサクも、まだ神が備えていて下さる13節の「一 頭の雄羊」を見てはいません。見てはいないけれども、しかし彼らは既に信仰によって「神が 備えたもう」御子イエス・キリストを見ています。信じています。主なる神ご自身が彼らのた めに「身代わりの山羊」なるキリストを備えて下さることを信じつつモリヤの山に登るのです。 神は「あらかじめ全てを見て」おられます。言い換えるなら摂理の信仰とは、今は全く見えな いけれども、神が必ず私たちの人生に祝福と生命を備えていて下さることを「確信し確認する」 ことです。さらに言うなら(それこそヘブル書が明らかにしていることですが)神の御子イエ ス・キリストによる全き罪の贖いと赦しを「確信し確認する」ことなのです。  アブラハムはわが子イサクに「子よ、神みずから燔祭の小羊を供えてくださるであろう」と 申しました。まだ彼が見ていなかったその「事実」は今朝の13節において明らかになります。 「イサクに手をかけてはならない」という神の御声を聴いたアブラハムが「目をあげて見ると、 うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、そ れをその子のかわりに燔祭としてささげた」とあることです。次の14節にはこの出来事のゆ えに今でも人々はその場所を「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり)と呼ぶとあります。今 日のエルサレムのシオンの丘の中心にあたる場所です。私たちの教会を昔から「真のエルサレ ム」と呼びました。その意味はまさに主なる神が私たち測り知れない罪人をご自身の御子イエ ス・キリストの十字架の贖いによって、この「身代わりの小羊」の死と葬りのゆえに、ただ恵 みによって呼び集め限りない永遠の生命に与る群れとして下さったからです。ここに集まる者 の数は決して多くはないかもしれない。しかし私たちは全葉山、全湘南地方、否、全日本と全 世界を代表してこのキリストのみが唯一のかしらでありたもう「主の家」に連ならしめられて いるのです。  主なる神はまさに剣をもってイサクを殺そうとするアブラハムに「わらべに手をかけてはな らない。また何も彼にしてはならない」とお命じになり、そこに“身代わりの雄羊”を備えて 下さいました。しかし私たちの目を転じて十字架の出来事を見るとき、私たちはそこでこそ真 に言葉を失い立ち尽くすほかはないのです。主なる神は最愛の独子イエス・キリストを、私た ち罪人のかしらなる者の「救い」のために呪いの十字架にお献げ下さいました。しかしそこに は“身代わりの雄羊”(スケープ・ゴート)はなかったのです。身代わりの雄羊はいなかったの です。そこに「最愛のあなたの子を殺してはならない」という神の御声は響かなかったのです。 キリストご自身が唯一の贖いの小羊であられたのです。まさに永遠の神の永遠の御子の十字架 の死のみが私たちに真の生命を与えて下さった。決して贖われえない私たちの罪を贖うために 御子イエス・キリストみずから決然として「モリヤの山」(ゴルゴタの丘)に十字架を背負って 上って下さり、そこで私たち全ての者のために永遠の滅びを引き受け、信ずる全ての者を罪か ら贖い出して下さったのです。  それゆえ私たちは今朝の御言葉によって、アブラハム・イサク父子と共に「見る」者とされ ています。何をでしょうか?。神が私たちのために世にお遣わしになった独子イエス・キリス トの十字架の恵みをです。もちろんアブラハムの時代にまだキリストという言葉は現れません。 しかし既にアブラハムはわが子イサクを燔祭に、罪の贖いのためにお求めになる主なる神の厳 粛な御命令に従わんとしたことにおいて、この世界に対する神の愛の真実がそこにあること、 すなわちご自身の最愛の御子イエスを十字架に献げてまでも私たちを救わんとしたもう神の 愛を「見る者とされた」のです。 森有正は「このときアブラハムは老人になった」と語って います。それは「真に神の恵みを知る者になった」という意味です。私たちの信仰もまたこの 教会のかしらなるキリストのみを見上げ告白することにおいてこそ、真に老成した信仰になる のです。ルターはあの宗教改革の厳しい闘いの中で何度もこの箇所を説教しました。ある説教 の中でルターはこう語っています。「父親は剣を振り上げた。青年は少しも動じなかった。ふ たり共に主のみを見上げていたからである。そのとき天使が彼に呼びかけた。アブラハム、ア ブラハム、…神の峻厳さが我々の死の刹那においてさえ、どんなに力強く我々を贖い支えるか を忘れてはならない。我々は言う『生命の中でわれわれは死ぬ』と。そうではないのだ。神は お答えになる。『死の中にさえ尽きぬ生命がある』。『死に打ち勝つ唯一の生命、それはわれら の主イエス・キリストである』と」。  「摂理の信仰」は独子をも与えたもうた神の真実に寄り頼む信仰です。神がすべてを見通さ れ、いつも私たちに最も必要なものを備え、私たちを祝福し生命を与えて下さるのです。だか らこそ私たちはいついかなる時にも、涙にくれる時にも、身の置き場のない苦しみの中にも、 はっきりと目を拭って、毅然として主のみを「見て」生きる者とされているのです。どのよう な現実の中にありましても、なお見えざるもの(神の摂理)が見える世界をご支配したもうこと を信じて、希望を持って生きる者とされているのです。そこに私たちキリスト者の日々の生活 の原動力があるのです。