説     教    詩篇23篇1〜6節   ローマ書8章32節

「乏しきことあらじ」

2011・11・20(説教11471404)  17世紀イギリスの作家であり伝道者でもあったジョン・バニャンの「天路歴程」(The Pilgrims Progress)は、天国への巡礼者である主人公クリスチャンがさまざまな苦難を経て目 的地「天の永遠の都」へと旅をする物語です。その中に次のようなくだりがあります。「謙遜 の谷」の果てにもうひとつの深い谷があり、そこは「死の陰の谷」と呼ばれていた。主人公ク リスチャンはどうしてもそこを「通らねばならなかった」。というのは「天の永遠の都」へ通 じる道がその真中を通っていたからである。この「死の陰の谷」は非常に寂しく、極めて狭く、 そして暗い谷でした。しかもそこを通らなければ私たちは「天の永遠の都」に入ることはでき ない。見るからに恐ろしいその谷を前にして、ほとんどの人は足が竦んでしまう。しかし主人 公クリスチャンはまさにその時にこそ詩篇23篇の御言葉を聴くのです。「たとい死の陰の谷 を歩むとも、禍いを恐れじ。なんじ、われと共にいませばなり」。それは「天から響く讃美の 歌声であった」とバニャンは記しています。そして勇気百倍限りない慰めと希望をもってクリ スチャンは「死の陰の谷」を通ってゆくのです。  私たち現代人は東日本大震災のような前代未聞の苦難を経験しているこの時代においてこ そ、この「天路歴程」をみずからの信仰の歩みとして経験しているのではないでしょうか。私 たちは現代においてこそ「死の陰の谷」を通って「天の永遠の都」に歩みを進めようとしてい るのではないか。そしてそれは「極めて狭く、しかも暗い」谷であり、はたして自分に通り抜 けられるのか先行きの見えない不安を抱えたまま私たちの足は竦むのです。しかも現代人はこ の谷にクリスチャンのように「謙遜の谷」を経て来たのではなく、自信と傲慢と誇りの山の背 から転げ落ちるように、不本意ながらそこにたどり着いたのではないでしょうか。1980年代 のバブル景気は私たちの国に一時の繁栄と富をもたらしました。それから四半世紀経った今日、 気がつけば私たちは底知れぬ不況に喘いでいます。東日本大震災と原発事故が追い討ちをかけ ました。イギリスの経済学者ケネス・ボールディングの著書に「二十世紀の意味」という本が あります。岩波新書で読むことができます。この中でボールディングは20世紀を「人類文明 史における最大転換期」だと規定しています。彼によれば人類史は少なくとも五千年前に文明 前社会から文明社会へと大転換をとげた。そして20世紀の百年間において今度は文明社会か ら「文明後の社会」へと大転換をなしつつあると言うのです。  つまりボールディングの語る「文明後の社会」とはいま私たちが生きている21世紀のこと であり、彼はそこに「4つの落とし穴」が潜んでいると警告しています。文字どおり「死の陰 の谷」が「天の永遠の都」ではなく破滅への落とし穴となる危険です。ボールディングはその 「4つの落とし穴」の共通要素として「欠乏」(乏しさ)を挙げています。近代のあらゆる戦争 は「エネルギー資源獲得闘争」でした。今日もなお同じ価値観が世界を動かしています。東シ ナ海で中国が石油を掘れば、その油田は日本の領海に繋がっているのだから中止せよという複 雑な問題が起こる時代なのです。なんとかして「乏しさ」を埋めおのれを富ませようとする闘 争が国家間の対立を生み、思わぬところに新しい「落とし穴」となって私たちの前に立ち現れ るのです。私たちのこの21世紀が前世紀を上回る“混乱と殺戮の世紀”にならないように、 私たちは福音の御言葉に堅く立たねばなりません。  まさにそのような今日の危機的な歩みの中でこそ、主なる神の御言葉が「全ての人を照らす まことの光」として与えられているのです。「主はわたしの牧者、わたしには乏しいことがな い」と詩篇23篇の詩人は歌います。しかもこの信頼の歌(主への讃美告白)は「乏しさ」の 苦しみを知らない者の戯言ではないのです。古代イスラエルの民ほどあらゆる意味において 「乏しさ」を味わった民族は稀でした。詩人はここで4節に「たとい死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません」と歌いますが、それは「主われと共にいませばなり」という絶対の恩 寵に支えられ贖われた者の信頼の歌声であり、経済的・政治的・地勢的に見るなら、この詩人 の周囲は文字どおり「死の影の谷」そのものであり「乏しさ」だけがそこにはあったのです。  ある旧約学者が古代イスラエルの経済的な乏しさを研究して、その想像を絶する「貧しさ」 に驚いたと聞きました。国土面積はわが国の四国ほどしかなく、しかもその大部分は不毛の砂 漠地帯であり、あらゆる農産物の中で自給できたものはオリーブ油とナツメヤシだけでした。 あとは全て「乏しかった」のです。政治的には常に周辺諸国からの侵略を受けていました。バ ビロン捕囚では国家そのものを失いました。平時においてさえ外国に傭兵(雇われの兵隊)に なった青年は夥しい数でした。飢饉や旱魃などで難民になることもありました。聖書の民は決 して「乳と蜜の流れる地」の住民ではなく、むしろ預言者イザヤが語ったように「暗闇の中に 歩んでいた民」「暗黒の地に住んでいた人々」でした。最低生活を維持する衣食にも事欠き、 社会の至るところに「乏しさ」が支配していたのです。そればかりではありません。聖書の民 の歴史をひもとく時、私たちは出エジプトの出来事に改めて驚きます。定住すべき土地さえな く荒野の旅を続ける民の姿、それがイスラエルの原風景です。しかもやっとカナンにたどり着 いた彼らをエジプト・ペリシテ・シリア・アッスリヤ・バビロニア・ペルシア・ギリシヤ・ロ ーマ帝国などが次々と支配し苦しめました。聖書は「乏しさ」だけではなく自由を得られなか った民族の血の出るような「苦しみ」をも知り尽くしているのです。まさにそのただ中でこそ 「主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ」と歌われているのです。  この詩篇23篇は「静かな信頼の歌」とよく言われます。果たしてそうでしょうか。この詩 篇全体に漂う静けさと安らぎは「乏しさ」と「苦しみ」を知らない者の純一無垢な歌声ではな く、むしろその悲哀を知り尽くした者がその「乏しさ」と「苦しみ」のただ中においてこそ唯一 の「牧者」なる主を仰ぎ「死の陰の谷」を歩んでゆこうとする「信仰による平安と確信の讃美 の歌声」なのです。詩人はここに「わたしには乏しいことがない」と歌います。何という驚く べき告白でしょう。「乏しい」ことばかりの人生なのです。「乏しさ」を満たそうとすればたち まち殺戮の歴史が展開される世界なのです。そのような世界のただ中にあって詩人は「主がわ が牧者であられるゆえに、われ乏しきことあらじ」と断言するのです。痩せ我慢や幻想ではあ りません。「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」のです。そして「主 はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」のです。ここには 幻想や思い込みの入りこむ余地は全くありません。  なぜなら、ここに「乏しきことなき平安」をもって詩人を覆い囲んで下さる神が共におられ るからです。この神は歴史と世界の唯一の主として支配せられ、私たちに揺るがぬ真の平安を 与えて下さるためにご自身からはいっさいの平安を奪われたもうたかたです。そのかたこそ 「死の陰の谷」を行く私たちの歴史の現実の中で私たちの変わらぬ唯一の「牧者」であられるの です。すなわち十字架の主イエス・キリストです。主は十字架で祈られました「エリ、エリ、 レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、何ぞわれを見捨てたまひし)。本来この叫びをもって滅 びの十字架にかからねばならなかったのは、神の御子キリストではなく私たちであったはずで す。私たちこそ神に遺棄されるべき「罪人のかしら」であったはずです。その私たちを救うた めに、私たちの全ての罪の贖いとして、神の御子イエス・キリストが身代わりに十字架の呪い を引き受けて下さいました。私たちに朽ちぬ生命を与えるためにご自分の全てを献げて下さっ たのです。  まさしく、この主イエス・キリストの十字架の恵みを宣べ伝える旧約の御言葉こそが今朝の 詩篇23篇3節なのです。「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に 導かれる」。この「み名のために」の「御名」こそ主イエス・キリストの御名です。御前に立 ちえざる私たちのために十字架の主イエス・キリストのみが全ての罪の贖いを成し遂げて下さ いました。それが「み名のために」ということです。キリストの十字架の贖いのゆえにという ことです。その贖いの恵みが私たちの死せる魂をも甦らせて下さる。そして私たちを「正しい 道に導いて」下さるのです。その「正しい道」とはバニャンの語る「天の永遠の都」への道で す。まことの神に立ち帰り、神と共に神の愛の内を歩む新しい生命の道です。起こりえざるこ とが私たちの身に現実に起こったのです。有りえざることが現実になったのです。それはあら ゆる「乏しさ」と「苦しみ」のただ中でなお私たちが主イエス・キリストに結ばれていっさい を「満たされている」という喜びです。そのことを使徒パウロはローマ書8章32節にこう語 りました「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたか たが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。  ごく単純なことを考えてみて良いのです。もしわが子の生命がそれで救われるならば、親は 自分が持つ何物でも躊躇わずに手放すのではないでしょうか。パウロはたしかにそういうこと を語っています。主なる神は私たちにその最愛の独子なるイエス・キリストをさえ賜わった。 その主なる神がどうして「御子のみならず万物をも(私たちに)賜わらないことがあろうか」 と言うのです。だから主イエスご自身もマタイ伝6章33節において、私たちに「まず神の国 と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」 と言われました。私たちは愚かにも逆の生きかたをしてはいないでしょうか。まずどうでもよ いものを求め、自分が少しでも富む者になろうと欲し、そして最も大切な「神の国と神の義」 は求めようとしないのではないか。そして実は本当の「乏しさ」とは、そのような私たちの生 活そのもののことなのではないでしょうか。  紀元前8世紀の預言者アモスは主の御言葉を聴きました。「主なる神は言われる、『見よ、わ たしがききんをこの国に送る日が来る。それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、 主の言葉を聞くことのききんである』」。私たち人間にとって本当の「乏しさ」とはモノに不足 することなどではない。私たちが真の神から離れたまま生きているという現実にこそ、本質的 なそしていかなるものも満たしえない最も深刻な「乏しさ」(飢饉)があるのです。それを預 言者アモスは見抜いた。主イエスはそこに「飼い主を失った羊の群れのような」私たちの姿を ご覧になったのです。ですから「主のみがわが牧者」でありたもうという事実にこそ私たち人 間の本当の救いがあるのです。  ただその事実に立って生き始めるとき、たとえ「死の陰の谷を行く」とも「わざわいを」恐 れる必要はなくなるのです。「主がわれらと共にいましたもう」ゆえに私たちはもはやいっさ いの「乏しさ」と「恐れ」から自由な者とされているのです。それと同時にいかなる「苦しみ」 の現実の中にありましょうとも、私たちは今朝の詩篇23篇6節が語る確信と平安に満たされ て生かされているのです。「わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うで しょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」。ここに「必ず恵みといつくしみとが(私 に)伴うでしょう」とあるのは、直訳すれば「必ず恵みと慈しみとは私を追い続ける」という 言葉です。私たちがどんな境遇にあろうとも、私たちの罪の真実なる贖い主、私たちのために 十字架におかかり下さった主の恵みと慈しみが私たちを追い続けてやまないのです。  そこに私たちの変わらぬ平安があり、いっさいの「乏しさ」から自由にされた真に満たされ た者の祝福の生活が開かれてゆくのです。