説    教   出エジプト記14章10〜14節   第一コリント書10章13節

「徹夜したもう神」

2011・11・13(説教11461403)  古代ローマで最も厳しい戦いは「セネノスの会戦」でした。それは4世紀に皇帝ユリアヌスみ ずから70倍ものアレマン軍と戦った出来事です。ユリアヌスはガリア遠征において巧妙なアレ マン軍の罠に陥り、気がついた時には僅か300名の兵士と共に2万人のアレマン軍に包囲され ていたのです。絶体絶命の窮地でした。その様子をわが国の作家・辻邦夫がこのように描いてい ます。「こうして包囲は二十日をすぎ、二十五日をすぎた。そんなある烈風の夜、アレマン族は 死力をつくして大攻撃を加えてきた。…鬨の声が波のように起って、城門に蛮族兵がひしめいた。 …風の中で死闘が繰りかえされた。ユリアヌスはこれが最後の夜であろうと思った。…もう投石 も矢もさっきの攻防で使いつくしていた。こんどは城壁を匐いのぼる敵と一対一で斬り結ばねば ならぬ。あとは洪水のようにひたむきに迫る敵の重圧に押し倒されるほかはないのだ…」。  夜明けまでの長い時間、兵士たちは城壁にもたれたまま仮眠を取ります。夜が明ければ確実な 死が待っているのです。小説はこのように続きます。「ユリアヌスは兵士の一人一人を抱きしめ たい衝動を感じた。『この深く疲れた姿以上に、人間の忠誠を語るものがあるだろうか』。ユリア ヌスは年若い少年が槍を抱いて眠っているのを見、この少年だけは助けたいと思った。…風は落 ちていて、あたりは異様に静かだった。やがて太陽がのぼり、霧がはれはじめた。…しかしそこ にはあの夥しいアレマン族の姿は見えなかった。夜の闇とともに消えさったように、その姿は跡 形なく消えはてていた」。  この物語は、私たち人間は大きな「危機」を通して確かな「救い」に導かれることを示してい ます。私たちの人生にもセネノスの会戦のように、絶望的に辛く苦しい時があります。筆舌に尽 くしがたい経験があります。健康な人が突然病気に倒れることがある。愛する者との突然の別離 が訪れることもある。仕事が挫折し全てを失うこともあるでしょう。信じていた友人に裏切られ ることもあるでしょう。予期せざる出来事に直面し改めて人生の悲哀を味わうことがあるのです。 秋は必ずしも単純な実りの季節ではありません。収穫の前に最大の危機が訪れることがあるので す。今朝お読みした出エジプト記14章は、聖書の時代を生きたイスラエルの人々もまた私たち と同じような“筆舌に尽くしがたい辛さ”を経験したことを伝えています。「出エジプト」とい う旧約聖書最大の「救い」を前にした人間の圧倒的な危機の姿がそこに描かれています。エジプ トの王ファラオ(パロ)が大軍を引き連れて荒野に逃げるイスラエルの民を追撃してくるのです。 追いつかれれば皆殺しです。えり抜きの戦車600台と重武装に装われたエジプト正規軍にとっ て、イスラエルの民を砂漠で皆殺しにすることは赤子の手をひねるようなものでした。だから 10節に「イスラエルの人々は…非常に恐れた」とあるのは当然です。そこで彼らは「主に向か って叫んだ」のです。この「叫んだ」とは絶体絶命の民の喉の奥から搾り出すような祈りの声で す。それが泣き悲しむ声と入り交じり雷のように大地を揺るがしたというのです。凄まじい光景 です。もの凄い声を上げて人々は祈った。そして11節以下には指導者モーセに対する怨みの声 が記されています。「荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたした ちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか」。この「なぜ…こんなにするのですか」 とは「なぜこんなに酷い目に遭わせるのか」という意味です。  私たちもまた人生の不条理に出遭うとき、こうした「叫び」を上げるのではないでしょうか。 身の措きどころもない辛さに直面するとき、そこには「呻き」しか起りえないのではないでしょ うか。山室軍平という救世軍の指導者がある説教の中で「キリストの馬鹿たれ」と語ったとき、 ある人がそれを聞き違えて「キリストのばかたれ」と理解しました。そのことを聞いて山室軍平 は感心した。苦しみや悲しみの中で「キリストのばかたれ」と祈れる人は祝福されていると…。 私たちの祈りは危機の中でこそ神に近づく本物の祈りになるのです。出エジプト記12章38節 によればエジプトを脱出したイスラエルの民は「多くの入り混じった群集」でした。それは民数 記11章4節に「多くの寄り集まり」とあるのと同じ言葉です。出エジプトを敢行したイスラエ ルの民は単一民族などではなく、文字どおり雑多な民族の寄せ集めに過ぎなかったのです。それ ならそういう“寄せ集め所帯”にすぎなかったイスラエルの民は「出エジプト」という「叫び」 を通してはじめてひとつにされたのです。雑多な民がイスラエル(神の家)とされた瞬間が今日 の御言葉には描かれているのです。  そこで今朝の御言葉の14章19節以下を見ると、事態は急転しまして最大の危機にあった民 が大きな救いを経験してゆく「神の救いの御業」を私たちは見るのです。そこにはいったい何が 起ったのでしょうか?。それは2つのことでした。第一に、同じ出エジプト記12章40〜42節、 特に42節の後半に「これは(出エジプトの出来事は)彼らをエジプトの国から導き出すために 主が寝ずの番をされた夜であった」とあることです。言い換えるなら「神の徹夜」がそこにあっ たということです。私ごとですが、私は神学校時代「徹夜」で有名でした。「君はいつ寝ている のか?」とよく訊かれたものです。勉強のため週に3日は徹夜していました。土曜日の午後から は教会に泊りこんで奉仕をします。広い礼拝堂を一人で掃除し、週報を印刷して折りたたみ週報 箱に入れ、日曜学校と主日礼拝のための備えをして、床に就くのは早くて夜中2時過ぎでした。 礼拝の最中いつのまにか居眠りをしていることがありました。牧師先生や長老によく注意された ものです。そのころの経験を思い返してさえ思います。私たちはひと口に「徹夜」と言いますが 経験した人にはその辛さがよくわかる。もちろん主なる神は永遠なる全能者であられますから、 私たちのように疲れたから睡眠を必要とするなどということはありません。では「神の徹夜」と は何を意味するかというと、取るに足らぬ雑多な烏合の衆にすぎないイスラエルの民をそれほど までに愛し貫いて下さった事実が現れているのです。  私の友人の子供がまだ幼かったころ、小児喘息のためにひどく苦しみ、友人もその妻も文字ど おり「寝ずの番」でその子に寄り添ったことがありました。友人はその経験を私にこう語りまし た。「親というものは実に無力な情けないものだ。わが子が病気で苦しんでおるというのに睡魔 を退けるこができない。つい居眠りをしてしまう。そしてハッと目覚める。人間は実に弱いもの だ」。人間は5日間眠らないと死ぬそうです。それほど睡眠は必然的な欲求なのです。しかし苦 しむわが子の側で自分が居眠りすることを許せなかったと友人は語るのです。ウトウトとしたそ の瞬間はわが子から意識が離れているというのです。わが子のためにわずかひと晩さえ完全に目 覚めていることができない、そういう人間の持つ弱さが身に滲みてわかったと言うのです。  そういうことを考えますと、私たちはイスラエルの雑多な民が絶体絶命の砂漠の危機の中で 「神の徹夜」を自らの「救い」として告白したということ、そのような神の姿を「われらの救い」 として“信じた”ことがどんなに凄いことかわかるのではないでしょうか。聖書が私たちに語る まことの神(イエス・キリストの父なる神)は「徹夜したもう神」です。新約聖書においても主 イエス・キリストが“徹夜して祈られた”場面が2度記されています。一度目は十二弟子をお選 びになる前の晩のことです。主はひとり山に入られて夜を徹して祈られ、その祈りによって十二 名を弟子としてお選びになったのでした。ルカ伝6章12節以下です「このころ、イエスは祈る ために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十 二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」。第二の場面は、あの有名なゲツセマ ネの祈りです。十字架の苦難を目前にされて主は全世界の救いのためにゲツセマネの園で血の汗 を流しつつ祈られた。ご自身の全てを御父にお委ねになり、全世界の罪の贖いのためにご自身を 献げ抜いて下さいました。弟子たちは疲れてみな眠っていましたが、主は最後まで「世にあるす べての者を愛され、彼らを最後まで愛し通された」のです。このように、聖書の神はまことに「徹 夜したもう神」なのです。詩篇121篇3節にもこうあります「主はあなたの足の動かされるの をゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむ こともなく、眠ることもない」。私たちはそこにイスラエルをエジプト人から救われた歴史の主 なる神の御業と同時に、十二弟子を選びたもうた主イエスのお姿、そしてゲツセマネにおいて全 てを献げ抜いて下さった主イエスのお姿を見るのです。  さて、今朝の御言葉が私たちに宣べ伝えている神の御業の第2の側面は今朝の御言葉の13節 後半から14節に示されていることです。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主が きょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい」。そして14節「主があなたがたのために 戦われるから、あなたがたは黙していなさい」とあることです。このことは言い換えるなら、歴 史において最大の危機的状況にある私たちの完全な救いのために、まず主なる神ご自身が「わた したちのために」戦って下さるという事実です。そこに私たちの力は与ることができないのです。 「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」というのはそのためで す。この「黙していなさい」とは「傍観していなさい」という意味ではなく「ただ神のみを信頼 していなさい」ということです。神に信頼していないとき私たちは空回りするのです。目標のな い戦いを銘々がが勝手にすることになるのです。そうではなく、主があなたがたのために戦われ るゆえに「あなたがたは黙していなさい」と聖書は私たちに告げるのです。  それでは主が私たちのために「戦われる」とはどういうことでしょうか?。それこそ神が独子 なるイエス・キリストを世にお与えになったことです。そして御子イエス・キリストが私たち全 ての者のために十字架にかかられ、罪と死に永遠に勝利され、この全世界を神の愛と祝福の支配 のもとに回復して下さったことです。それこそ私たちはパウロの言う「勝ち得て余りある」キリ ストの勝利を戴いている者たちなのです。このことを忘れるとき(十字架の主を信じる信仰告白 から離れるとき)私たちはすぐ「黙すことのできない」憐れな存在になってしまうのです。現代 社会を支配している言葉(価値観)の殆どがこうした空しいおしゃべりに過ぎないのです。この ことは同時に、実は私たちが歴史というもの(時というもの)をどう捉えるかという人生そのも のに関わる大きな問題に繋がっています。大野晋という国語学者によれば日本語の「とき」は「氷 が溶ける」という場合の「溶ける」と語源が同じなのだそうです。つまり日本人にとって「とき」 とは氷が「溶ける」ようにゆるゆると流れる自然の一部にすぎません。だから「時に委ねる」と は放任主義で受身なのです。それが運命論的な人間理解と人生観に繋がります。何事も「仕方が ない」と諦める価値観です。  しかし聖書が私たちに告げている「時」はそういうものではない。それは「徹夜したもう神」 そして「私たちのために戦われる神」の「時」です。神が切り開きたもう「時」なのです。その 神は歴史の唯一の主であり、私たちの時間のなかに働かれ、私たちのために救いの御業をなさり、 私たちのために新しい「時」を切り開きたもうかたです。たとえいま私たちがどんなに絶望的な 状況にあろうとも、またこの歴史がどんなに暗いものに見えようとも、神は私たちのために活き て働きたまい、その歴史の全体を通して私たちを祝福の生命へと導いておられるのです。だから 「危機」を意味する英語の語源であるギリシヤ語“クリネイン”には「切断する」と「完成させ る」という2つの意味があります。私たちは思いがけない危機(困難)に直面したとき、自分の 人生が突如として塞がれた(切断された)ような思いになります。しかし実はそれは「切断」な のではなく、神が私たちを新たな地平へと導き「救い」を完成したもう神の御業が現れる「時」 なのです。だから主イエスは生まれながら目が不自由な人に弟子たちが「彼がこうなったのは誰 が罪を犯したためですか」と問うたとき「この人が罪を犯したためでも、またこの人の両親でも ない。ただ彼の上に神の御業が現れるためである」と言われ、彼のまなざしと同時に弟子たちの まなざしをも開いて下さったのです。  ツール・ド・フランスという自転車競技があります。27日間でほとんどフランス一周約3500 キロを走る過酷な競技です。このツール・ド・フランスを観ていて感じることがある。最後は信 仰の勝利なのです。幼い時から教会の中で育まれてきた国の選手は、どんなに不利な状況やアク シデントに陥っても絶対に途中で諦めません。それは聖書が告げる「時」を知っているからです。 神が徹夜をしてまで私たちと共におられ、私たちのために救いの御業をなしておられる「時」を 見据えて走っているからです。私たちのために神が戦って下さり絶大な勝利に導いて下さる。そ のような「時」として歴史と人生を見据えているからです。私たちの「時」は私たちの思いや計 画を遥かに超えて神が切り拓いて下さるのです。どんな「時」にもそこで私たちを根底から支え て祝福し導いて下さる主の御手を見いだすのです。私たちの死すべき存在を十字架において贖っ て下さった御子イエス・キリストを見上げるのです。最後に第一コリント書10章13節を読みま しょう。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがた を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるよ うに、のがれる道も備えて下さるのである」。この「のがれる道」こそ贖い主なる主が常に共に いて下さる恵みです。その恵みに私たちはいかなる「時」にも豊かに満たされ支えられているの です。