説    教     創世記37章1〜4節    ローマ書16章16節

「平安の挨拶」

2011・11・06(説教11451402)  イギリスの作曲家エドワード・エルガーの作品に「愛の挨拶」という曲があります。親し みやすいメロディです。全世界の人々が互いに心から「愛の挨拶」を交し合う世界となるこ とを願って作曲された作品です。しかし現実には私たち人間社会は「愛の挨拶」からほど遠 い現実にあるのではないでしょうか。旧約聖書の創世記は37章から終わりの50章にかけて 「ヨセフ物語」を描いています。主人公ヨセフはイスラエルの族長ヤコブの末子として生ま れ、父ヤコブの寵愛を一身に受けて育ちます。そのため兄たちの激しい嫉妬と反感を買い、 ある日父ヤコブの目の届かぬ荒野でイシマエル人に奴隷として売られてしまうのです。同じ 血を分けた兄弟が弟を奴隷に売る、それは凄まじい憎悪の姿であり人間関係の究極の破綻で す。「愛の挨拶」どころではない憎悪による「呪い」が兄弟の間さえ引き裂く、そこに私たち 人間の本当の「罪」の姿があります。しかも父ヤコブには「ヨセフは野の獣に噛み殺された」 と犯罪の隠蔽工作をするのです。このあたり実に鬼気迫る場面でして、聖書は「これでもか」 というほど私たち人間の絶望的な罪を示しているのです。  さて、ヨセフを奴隷として買ったイシマエル人らは、さらにエジプトでヨセフを王(ファ ラオ)の側近で侍従長であったポテパルという人物に転売します。ヨセフはただの商品にさ れるのです。さらに悪いことにはポテパルの妻の嘘によりヨセフは無実の罪を着せられ牢獄 に繋がれてしまうのです。古代エジプトの牢獄は死ぬまで出られない死の場所でした。常識 ならヨセフは短い生涯を牢獄で終えこの物語は終わるはずでした。しかし主なる神はヨセフ の新しい生涯を、まさにその人間の「罪」が生み出す闇の中から始めたもうのです。「人間の ピリオド(終わり)は神のコンマ(始まり)」なのです。大きな苦しみと試練の中でなお神へ の揺るがぬ信頼に立ち謙遜と勇気を培われたヨセフは、自分の人生が神の求めたもう「平和 の回復」の使者たるべく召されたものであると知ります。数奇な出来事を経て牢獄から出た ヨセフは信仰による高潔な人格と御言葉に基づく知恵を認められエジプトの王(ファラオ) の信頼をえて今日でいう財務大臣の地位に引立てられるのです。そしてヨセフが財務大臣に なるや否や、腐敗堕落していたエジプトの政治は見違えるほど立ち直り、人々はみなヨセフ の人徳のゆえに神を讃美したと告げられているのです。  さてそのころ、祖国イスラエルがひどい飢饉に見舞われたという知らせがヨセフの耳に届 きました。食料が底を突きかつて自分をイシマエル人に売った兄たちが弟ヨセフが財務大臣 だとは知らずにエジプトに食糧援助を求めてきました。その間の色々なやりとりがあるので すが、大切な結論だけを申しますと、ヨセフは兄たちと劇的な和解を果たすのです。「わたし はヨセフです、父上はまだ達者ですか」と告げるのです。驚き恐れる兄たちにヨセフはこう 言います。「恐れるには及びません。私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、主なる 神です。神はイスラエルを救われるために、まず私を和解の使者として、不思議な摂理の御 手をもって、このエジプトへとお遣わしになったのです」。そこには分裂した世界が神の摂理 のもと再びひとつとされた喜びが告げられています。「罪」によって分裂した世界が「神の家」 として回復し真の平和に導かれる約束がヨセフ物語の主題なのです。ドイツの作家トーマ ス・マン(北ドイツの改革派教会の敬虔な家庭に育った人ですが)は小説「ヨセフとその兄弟」 において、ヨセフ物語がまさに“荒廃した世界の回復と再生”の約束、つまり“復活の福音” であると語っています。マンは「ヨセフ物語の本当の主人公は十字架の主イエス・キリスト である」と語っています。十字架の主による罪の贖いに生きる民、主の教会のみがあらゆる 荒廃と混乱のただ中にあって和解の使者たる唯一の神の家なのです。十字架の主のもとでの み「平安の挨拶」が回復されてゆくのです。  もともと「ヨセフ物語」は兄弟が兄弟に対して「平安の挨拶」を持ちえなくなったという 事実に始まりました。すなわち今朝拝読した創世記37章4節に「兄弟たちは父がどの兄弟よ りも彼(ヨセフ)を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに語ることができなかった」とある ことです。「穏やかに語りえない」とは「平安の挨拶」を持ちえなくなることです。私たち自 身にもそういう経験があるのではないでしょうか。隣家の人に挨拶を無視された、ただそれ だけのことで殺人事件さえ起こるのです。挨拶を無視することはそれ自体がひとつの「呪い」 です。ですから「穏やかに語ることができなかった」とはそういう「呪い」が人間関係の中 に入りこんできた、殺意と「呪い」が社会全体を支配するようになったということです。こ こで「穏やかに」と訳された元のヘブライ語は「シャローム」(神の平安)です。つまり「穏 やかに語りえない」とは「神の平安を語りえなくなる」ということです。聖書の中で「挨拶」 という言葉が重要な意味を持つ理由はそこにあります。聖書が語る「挨拶」は単なる人間関 係の潤滑油ではなく「祈り」(祝福)なのです。人間関係のあらゆる破れや「呪い」を超えて、 それにもかかわらず、否、それゆえにこそ、自分が相手のために「祈り」(祝福)を献げること です。  主イエス・キリストはマタイ伝5章47節において「兄弟だけに挨拶をしたからとて、なん のすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか」と言 われました。形だけの社会儀礼の「挨拶」なら信仰がなくてもできます。主が私たちに求め ておられる「挨拶」はまさに「穏やかに語りえない」あらゆる人間の罪の中で、なお相手の ために神の祝福と平和を祈る者とされていること、平安を語る者とされている恵みに生きる ことです。聖書が告げる「挨拶」は相手のために「神の平安」を祈ることです。サムエル記 上25章にダビデがカルメルの地方に行ったとき「カレブ人ナバル」という手のつけられぬ乱 暴者の一族に遭遇したことが語られています。そのときダビデは「あなたに平和、あなたの 家に平和、あなたのものすべてに平和があるように」と祈りました。この「挨拶」こそ「祝 福」です。実際にヘブライ語で「挨拶」を意味するベラーカーという言葉は「祝福」と訳さ れます。モーセの片腕であった「アロンの祝福」が民数記6章24節以下に記されていますが、 それは「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主が御顔をもっ てあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わくは主が御顔をあなたに向け、あなたに 平安を賜わるように」という祈りです。また新約聖書の使徒行伝7章には初代エルサレム教 会の執事ステパノ殉教の様子が記されていますが、そこでもステパノは自分を殺害する迫害 者たちのために祝福と罪の赦しを祈りつつ死んでゆきました。そこにこそ主イエスが言われ る「兄弟だけにするのではない挨拶」があります。この「挨拶」は自分が気に入ったからと いう社会儀礼などではなく、相手の罪を神の前に執り成すことです。無視して相手を呪うこ ととは正反対の「祝福」に生きる者(キリストの贖いの恵みに生かされた者)の姿がそこに あります。それこそが聖書の語る「挨拶」の本当の意味なのです。  それだけに、そこには同時にその「平安の挨拶」においてこそ私たちがいかに主の御心か ら遠く離れているかが示されています。まさに「平安の挨拶」に生きえない私たちのために、 主はゲツセマネで血の汗を流して祈られ十字架への道を歩まれました。平安に生きず平安を 語りえない私たちのために、主はご自身の平安を全て私たちに与えて下さいました。「わたし は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるの は、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」(ヨ ハネ伝14章27節)。私たちの罪を十字架において完全に贖い、信じる全ての者を教会の枝と して、聖霊の導きのもと「主の平安」に生きる群れとして下さいました。 主イエスの復活 とそれに続くペンテコステが大きな恐れと敵意の中にあった弟子たちを「主の平安」を宣べ 伝える群れに変えたのです。その「初代教会」の伝道の様子を私たちは使徒パウロの手紙か ら詳しく知ることができます。初代教会はその出発点から主イエスから受継いだ「平安の挨 拶」に生きる群れでした。パウロの手紙の冒頭と最後にはかならず「恵みと平安」を祈る挨 拶があります。たとえばローマ書1章7節を見ると「ローマにいる、神に愛され、召された 聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あな たがたにあるように」と挨拶が送られています。言い換えるなら教会はその歴史の最初から 主イエス・キリストの祝福を全ての人々に語る器として「神に愛され、召された聖徒」らの 群れであったということです。何よりも復活の主みずから、弟子たちに「汝らに平安あれ」 と祈ることから弟子たちを使徒として世にお遣わしになりました。キリストの平安に結ばれ 生かされている私たちはその「平安」をあらゆる人々に伝える使徒とされているのです。こ こに教会において「挨拶」が本質的な意味を持つ理由があります。  私の知るある婦人です。長いあいだ病床にあった夫の看病を自宅でされつつ礼拝を守り続 けていた婦人がいました。あるときこの婦人の家と隣家とのあいだに地境をめぐって対立が 生じました。もともとこの婦人には「地境などどうでも良い」という思いがありました。と ころが隣家の人はこの婦人に露骨な嫌がらせを始めました。誹謗中傷が近隣に言い触らされ たのです。もちろん挨拶もしてくれません。この婦人がある日私のところに相談に来られ、 そしてこう言われたのです。「先生、心が千々に乱れて夜も眠れない私のために主に祈って下 さい」。そしてこうも言われました。「お隣の奥さんが私に挨拶をしてくれなくても、私はい つも挨拶ができるように、弱い私のためにお祈り下さい」と…。イスラエルの民が神から受 継いだ「平安の挨拶」は十字架の主イエス・キリストの贖いによってのみ、私たち一人びと りが本当に隣人に対して語りうる祝福となり「祈り」となるのです。私たちはいかなる罪の 脅かしや混乱にも決して奪われない「主の平安」に守られ支えられ満たされているのです。 この平安の主に結ばれた慰めが私たちの生活を変えるのです。この婦人もどんなに辛かった ろうと思います。呪いと隣り合わせに生きる辛さです。しかし主イエスが既に私たちのため に、私たちの罪から来る「呪い」を負うて十字架上に死んで下さいました。この十字架の主 に連なるとき、私たちはあらゆる「呪い」に打ち勝つ生命の祝福の幸いに生きはじめている のです。「キリストの平安」に生きはじめているのです。  パウロはローマ書の最後16章に有名な「挨拶のリスト」を載せています。具体的に一人び とりの名を挙げ「よろしく伝えてほしい」と願っています。21節以下には16節までのリスト から漏れた人の名をあげて丁寧に挨拶を送っています。私たちはある種の不思議な思いを禁 じえない。手紙の中で福音の真理を証しするためずいぶん厳しいことも語っているパウロで す。厳しすぎると感じることさえあるパウロです。そのパウロがどうして手紙の末尾に長々 と挨拶のリストを書き連ねているのか。その理由は主イエスの宣教命令にこそ明らかです。 主は弟子たちを伝道にお遣わしになるにあたり「安かれ、父がわたしをお遣わしになったよ うに、わたしもまたあなたがたを遣わす」と言われました。そして「あなたがたは行って、 人々に『天国は近づいた』と宣べ伝えなさい」そして「その家に入ったら、まず平安を祈り なさい」と言われました。「神の国は近づいた」という喜びの音信と「平安の挨拶」はひとつ なのです。その神の国はいま私たちのもとに来ているのです。私たちは教会に結ばれて神の 国の喜びを歴史の中で先取りしつつ「キリストの平安」のもとに生かされている群れです。 だからこそパウロはここに、共に教会に仕え福音の喜びを共にする全ての人々と共に「キリ ストの平安」と喜びの挨拶(祝福)を語らずにおれませんでした。まさにあなたの上にこそ 主はご自身の平安を与えて下さったではないか。私たちはすでにキリストにある「平安の挨 拶」を共にする僕とされているではないか。そのような群れとして今ここに立てられ世に遣 わされているではないか。その喜びと幸いがあなたの全存在・全生活を満たしているではな いか。それこそ私たち一人びとりに与えられている祝福なのです。いまここに私たち全ての 者がこの「平安の挨拶」に生かされているのです。