説    教   イザヤ書6章1〜8節  マルコ福音書14章32〜36節

「イザヤ・砕けたる祈り」

2011・10・30(説教11441401)  「人形の家」を書いたノルウェーの劇作家イプセンの戯曲に「ブラン」という作品がありま す。1866年の作品です。主人公のブランは牧師ですが、この作品の背景には19世紀ノルウェ ーにおける教会の国家統合政策、つまりルーテル教会を国教会化(国家の教会にしようとする 政策)に対する信仰による反対運動がありました。教会は決して国家に従属する群れになって はならない。どこまでも基督のみを唯一のかしらとし信仰告白に基づく自主独立の教会(キリ ストの共同体)であらねばならない。そういう自由教会への動きはイプセンに影響を与えたキ ェルケゴールにも色濃く現れています。そこで、この作品においてイプセンが主人公ブランを 通して伝えようとしていることは、私たちの「祈り」は神に献げられる「真の祈り」になって いるだろうかという厳しい問いです。もしかしたら私たちは「祈り」に名を借りた自己主張(自 己保全)をしているだけなのではないか。教会の信仰告白が国家の認可する法制度に過ぎなく なる危険があるとすれば、それこそ私たちの「祈り」の欠如が原因ではないのか。イプセンが 問うていることはその私たちの「祈りの姿勢」なのです。これはひいては近代ヨーロッパ世界 が“キリスト教共同体”であることの意味をも改めて問う厳しい問いです。  イプセンは別のところでこう問うています。私たちが献げる「祈り」は神の御前に自分が“死 ぬ”ものになっているだろうか?。「祈り」において神の前に“死ぬ”とは、聖なる神の現臨、 神の御言葉の前に、自分が徹底的に打ち砕かれているかどうかということです。その意味で真 の「祈り」は独善的・独白的なものではありえません。「祈り」は“神との交わり”です。そ れなら活ける真の神との交わりでこそ私たちは本当に自分が打砕かれ新たにされるのではな いでしょうか。それが祈りにおいて神の前に“死ぬ”ことです。言い換えるなら「祈り」にお いて「キリストの死を身に負う」のです。このことは19世紀ノルウェーだけではなく、今日 の私たち日本の教会に生きる者たちの礼拝生活の姿勢を問われていることです。出エジプト記 33章20節に「あなたはわたしの顔を観ることはできない。わたしを見てなお生きている人は いないからである」とあります。本当の「祈り」は「わたし」が御前に立ちえざるかたの前に “立つ”ことです。立ちえざる者が神の前に立つ者とされている恵みです。  今朝イザヤ書6章1節から8節の御言葉を与えられました。預言者イザヤはまさにその恵み により聖なる神の前に立たしめられています。イザヤはここで「わざわいなるかな、わたしは 滅びるばかりだ」と叫びます。宗教改革者ルターはこの箇所を「わたしは無に帰すべき者です」 と訳しました。フェアニヒテルンというドイツ語が用いられています。「わたしはニヒツ(虚 無)に帰すべき存在だ」という告白です。イザヤの「祈り」は彼を真の礼拝者たらしめるもの でした。何よりもイザヤは聖所において「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」 と呼び交わすセラピムの讃栄を聴きました。そこからイザヤは自分の「罪」を知る者となりま す。それゆえに告白するのです「わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に 住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見た」と…。  わが国の優れた哲学者・森有正の「古いものと新しいもの」という講演集の中にこういう言 葉が出て参ります。「現代における信仰の意義」という講演の一節です。『人間の状態は…状態 である以上は一つの状態から他の状態へと移ってゆく…それは時間という言葉に代表される。 人間における時間とは人間の経験ということです。つまり最後は死に向かって進んで行くとい うこと、いちばん最後の目標は死なのです。それが人間の経験なのです。これはもう動かすこ とのできない目標です。他のいかなる嘘があってもこれだけは嘘にならない…けれども…経験 の終わりが死だという時にいちばん大きな問題は、どうも私どもはなかなか死ぬことはできな いということなのです。死ねればそれは大いに結構ですよ。ところが死ぬことができないもの が残ってしまったらどうなるかということが問題なのです。それは言うまでもなく人間が持っ ている神の前における罪の問題です。罪があったら人間死ぬことができないですよ。罪が解決 しないでどうして死ぬことができるかという問題、つまり死は経験の終わりですから、経験が 終わってしまった時に罪が解決できないでいたら、その罪は永遠に残るわけです』。  だからイザヤの祈り・イザヤの告白は、神の御前における「罪」の告白であると同時に人間 の経験の中では絶対に解決できない「罪の赦し」(贖い)を求める祈りとならざるをえなかっ た。イザヤが告白した「わたしは無に帰する」とは、罪の問題を解決するために自分の経験(自 分の存在)は完全に無力だということです。ただ神の真実(キリストの贖いの恵み)のみが私の 救いである。そのことが次の5節から7節にわたるイザヤの姿に現れています。6節「この時 セラピムのひとりが火ばしを持って、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしの ところに飛んできて、わたしの口に触れて、言った、『見よ、これがあなたのくちびるに触れ たので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた』」。  先ほど「祈り」とは“神の御前に立ちえない者が神の御前に立つこと”だと申しました。そ れなら“罪の赦し”とはまさに“私たちが聖なる神の御前に、喜びと感謝をもって立ち、生き る者にされている”ということです。だからイザヤにとって「祈り」(礼拝)は神の贖いの恵み による以外のなにものでもありません。「罪」によって死すべき私たちが、生ける聖なる神の 御前にあるがままに立つことを赦されている。それが私たちの「祈り」の生活の最初であり全 てです。だからイザヤは「それにもかかわらずの預言者」と言われることがあります。ドイツ のコッホという旧約学者が語っていることですが“デンノッホ”現代のドイツ人はあまり用い ない言葉です。「それにもかかわらず」私たちは「祈り」(まことの礼拝)に招かれている。生か されている。キリストの死を(十字架の恵みを)いつも身に負う者とされている。この神の恵み こそまさに“デンノッホ”(それにもかかわらず)の恵みです。私たちはみずからの経験の終 わりを「死」以外に持ちえず、しかも死よりも大きな「罪」の支配が私たちを「死ぬに死ねな い」「死んでも死にきれない」存在にしています。よく世間では「死んでお詫びをする」と言 いますが、たとえ死んでも清算できないのが「罪」の問題の深さなのです。その私たちが「祈 り」(礼拝)に「あるがままに」招かれていることは、そうした人間の経験を遥かに超え、また 人間の経験を完成させ真の生命を与えたもう神の恵みを私たちが与えられていることです。 「祈り」(礼拝)の生活は私たちの中に少しも根拠を持たないのです。ただ十字架のキリストに のみ私たちの真の生命があり、あらゆる経験を超えた神の祝福があり、そこに私たちの人生が 与えられているのです。  しかも、それでなお終わりではないとイザヤは告げています。それは私たちは今朝の8節へ と導かれてゆくからです。「わたしはまた主の言われる声を聴いた、『わたしは誰を遣わそう か。誰がわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った『ここにわたしがおります。 わたしをお遣わしください』」。本当の「祈り」の生活は礼拝者の生活となります。そして礼拝 の最後は何ですか?祝福(祝祷)です。私たちは主イエス・キリストによる「罪の贖い」の恵み のもと神の愛によって新しい生活へと遣わされてゆくのです。毎日顔を合わせる家族のもとに さえ新しく神によって遣わされています。神への感謝に生きる新しい生活が始まるのです。「誰 がわれわれのために行くだろうか」と複数形で語られているのは、そこに「父・御子・御霊な る三位一体の神」が示されているからです。つまり、私たちが罪の赦しと贖いに生きることは 三位一体なる神の永遠の愛の交わりの中に、いま教会によって招き入れられている者として新 たな人生を生きることです。そこに人生と世界の意味と目的さえ明らかになるのです。人生と 歴史の唯一の「主」が共におられるのです。  だから原文のヘブライ語では「ここにわたしがおります」とは決して自信に満ちた返事など ではなく、単純に「はい、私がここに立っています」という返事です。言い換えるなら神の真 実に対して、その真実の中でこそ「はい、私がここに立っています」(神よ、あなたの愛と憐れ みと真実の中に、私は立っています)と答えて生きる者とされているのです。「祈り」において 自分に死んだイザヤは、まさにその「罪の破れ」のただ中で自分の全てをあるがままに神の恵 みに明け渡しているのです。自分を立てているのではなく、立ち上がらせて下さる神の御手に 自分の全てを委ね、本当の自由と幸いに生かされているのです。だからイザヤは「わたしは誰 をつかわそうか」と招きたもう主なる神に対して「はい」(アーメン)と応えます。「然りを然 りとなす」以外にはないのです。自分の中の何を否定しようとも、独り子イエス・キリストを 世にお与えになってまで私たちを救って下さった神の真実に対して、私たちは「はい」(アーメ ン)と答えるほかはない。私たちは主イエスの「ゲツセマネの祈り」を想います。主はゲツセマ ネでこう祈られました「…されどわが思いにあらで、御心のままになしたまえ」。ある集会で 聖書を学んでいて話が「ゲツセマネの祈り」のことになったとき、一人の姉妹が「主イエスは どうして、ここでこんなに苦しんで祈っておられるのでしょうか?」と問われました。私はこ う答えました。私たちは自分の家族の誰か一人が病気になってさえ心の底から心配しその人の ために苦しむ。それならば主イエスは全世界の全ての人の罪を一身に担って十字架におかかり 下さった。その御苦しみはどんなに大きかったことかとお話しました。  主イエスは「わが思いにあらで、御心のままになしたまえ」と祈られた。ほかならぬこの私 に、まさにこの私の存在に、御父よ、あなたの御心が成りますようにと祈られたのです。それ が測り知れない御苦しみであることを知りつつ、私たちを極みまで愛して十字架を担われたの です。私たちの永遠の救いのためにご自分の全てを父なる神に明け渡して下さったのです。今 朝のマルコ伝14章32節以下と同じ場面を記したルカ伝22章44節を見ますと「イエスは苦し みもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」と あります。この「ますます切に祈られた」は原文では未完了過去形です。つまり主イエスは、 ただあるとき懸命に祈られたというだけではなく、その祈りは今「この私たちの救い」として 注がれているものなのです。だからこそ私たちの日々の「祈り」の生活(まことの神との真の交 わりに生きる礼拝生活)は、まさにこの主イエスの「ゲツセマネの祈り」によっていつも満たさ れ支えられているのです。主イエス・キリストのみが私たちのために「罪」の贖いと限りない 赦しを成し遂げて下さったからです。私たちの全生活がキリストの十字架の恵みに支えられて いるのです。  だからこそ私たちは、いつも「祈り」に生きる喜びを与えられています。いつも神の前に感 謝と平安をもって立つ者とされています。いつも古き自分を神の御手に明け渡して生きる者と されています。私たちを御業のためにお招きになる神に「はい」(われここに立つ)と応える 者とされています。この祈りの生活から、キリスト・イエスにおける神の愛から、何者も私た ちを引離すことはできません。キリストが主であられる勇気と確信と希望と平和に満ちた新し い人生の歩みへと、私たち一人びとりが教会によって招き入れられているのです。だから祈り は必ず聴かれます。聴かれなかったように見える祈りも、私たちの思いを超えた仕方で主に受 け止められ、最も確かな仕方で聴かれているのです。この主の恵みのもと、絶えず祈る礼拝者 の生活を続け、全うする私たちでありたいと思います。