説    教    エレミヤ書20章7〜9節  第一コリント書9章16節

「預言者エレミヤ」

2011・10・23(説教11431400)  レンブラントの作品に「エルサレムの滅亡を嘆くエレミヤ」という絵があります。戦火で炎 上するエルサレムを前に一人の老預言者が嘆く姿を描いたものです。主イエス・キリストもオ リブ山からエルサレムを望まれ「ああエルサレムエルサレム、預言者たちを殺し、おまえに遣 わされた人たちを石で打ち殺す者よ」と涙して嘆かれたまいました。エレミヤは旧約聖書で最 もキリストの御心に近づいた預言者と言われます。私たちは「預言者」と言うと普通「義」の 預言者アモス、「憐れみ」の預言者ホセア、「聖性」の預言者イザヤ、というように神の性質を つけて呼ぶ場合が多いのですが、エレミヤの場合は「涙の預言者」「悲哀の預言者」というよ うに、むしろその人間としての苦悩をもって呼ばれます。神の「義」や「愛」や「神聖」を直 接に確信して語ったというよりも、圧倒的な神の迫りの前にやむなく語らせられた…神の御手 から逃れようとしつつなお神に捕らえられて御言葉の器とされた…そうした一人の預言者の 「強いられた恵み」の生涯に私たちも大きな共感を覚えるのです。  それは主イエスのゲツセマネの祈り「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。 どうか、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかしわたしの思いではなく、御心のままに なさって下さい」に通じるものです。エレミヤは真実に十字架のキリストのみを指し示した預 言者でした。そのエレミヤの生涯において最も印象的な言葉が今朝のエレミヤ書20章7節で す。「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわた しよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです」。エレミヤは「私は神に欺かれた」と祈 っているのです。これはむしろ穏健な訳です。ケンブリッジ・バイブル・コメンタリー (Cambridge B.C.)のニコルソンの訳を見ますと「ああ、主よ、なんじわれを騙せり。われはな んじに騙されやすき者なり。汝われを陥れたればわれに勝つことを得たり。われはひねもす物 笑いの種となり、われに会う全ての人われを嘲り笑うなり」と記されています。ニコルソンが 言うように原文のヘブライ語を直訳するなら「欺かれた」とはまさに「騙された」という意味 です。主なる神がエレミヤを「騙して陥れた」というのです。  ここでエレミヤの時代を顧みてみましょう。紀元前1000年頃ダビデ王によって統一された イスラエル王国は、次のソロモン王の時代までは繁栄を誇りましたが、そののち不幸にして南 北に分裂しやがて北王国イスラエルは紀元前722年に滅亡し、残った南王国ユダも約20年後 に滅亡してしまいます。こうした壊滅的な歴史の動乱のただ中でエレミヤは預言者としての召 命を受けました。当初エレミヤはヨシヤ王の宗教改革に参加する形で伝道者になりました。統 一王国の分裂と滅亡の原因は異教の神々の礼拝にあると見たヨシヤ王は、南王国ユダから偶像 礼拝を一掃し偽りの祭司を追放し真の礼拝を回復したのです。エレミヤもヨシヤの宗教改革に 国家再建の道があると信じ希望を託していました。しかし宗教的には純粋でも政治的な手腕に 乏しかったヨシヤ王は無謀にもエジプトとの戦争で戦死してしまいます。かくてイスラエル再 建の望みは全く断たれたかに見えたのでした。そのような歴史の動乱の中でエレミヤが神の召 命を受けたことは、政治的手段によってではなく神の御言葉を正しく宣べ伝えること(神の言葉 の宣教)によってのみ「真のイスラエル」(揺るぎなき神の家)は再建されることを明らかにし たことです。それがエレミヤが神から受けた召命でした。もともとエレミヤはエルサレム近郊 のアナトテ村の祭司の子でした。祭司の家出身の預言者は実は珍しいのです。だから預言者の 召命を受けたときもエレミヤは先輩の預言者イザヤのように潔く「わたしをお遣わし下さい」 とは言えず「ああ主なる神よ、わたしは若者にすぎず、どのように語るべきか知りません」と 召命を断りかけたのです。そのエレミヤを神はお召しになったのです。だからでしょうか、エ レミヤは預言者になってからも自分の人生は神によって押し切られた(神に強制された)人生 だという思いが抜けませんでした。神の選びはもちろん人間的な価値基準による選びではあり ません。自分を相応しいと思う人が神に選ばれるのではなく、相談づくで決めるものでもあり ません。しかしエレミヤの場合はそれこそ20章7節で言うように、神は「わたしよりも強い のでわたしを説き伏せられた」という思いがいつもエレミヤを苦しめ続けました。その意味で エレミヤの生涯はヨナの生涯に似ています。神の召命からどんなに逃げても神はどこまでも追 って来られる。そのような“追跡的召命”とも言うべき恵みをエレミヤは神から受けたのです。 しかも彼は人に喜ばれ感謝される言葉を語るために召されたのではありません。その反対でし たからいっそう悲劇的で深刻だったのです。辛い思いに耐えながらしかも人の喜ばないこと、 むしろ語ることによって人から嘲りと迫害を受けるメッセージを一所懸命に語り続けたので す。  南王国ユダはエジプトとバビロンという2大超大国の間に挟まれた小国にすぎませんでした。 こうした小国が政治的戦略的観点から生き残れる唯一の道は超大国をいかに刺激せず懐柔す るかにありました。それがエレミヤの時代のユダの政治的指導者たちの基本政策でした。とこ ろが世界制覇を企むバビロンが突如牙を剥いて北から攻めこんできたのです。政治家たちは南 のエジプトと軍事同盟を結ぶことでバビロンの脅威に対抗しようとしました。それに真向から 反対したのがエレミヤでした。バビロンに武器で対抗してはならない。エジプト軍を頼みとし てもならないとエレミヤは人々に語りました。剣を取る者は必ず剣で滅びる。エジプトを頼み とする国はエジプトに滅ぼされる。私たちが頼みとすべきものは軍事力でも同盟でもなく、天 地の造り主にして歴史の主なる真の神である。たとえバビロンによって滅ぼされようとも決し て滅びないものが私たちにはあるではないか。まことの神を信じる信仰、そしてまことの礼拝 があるなら、いかなる軍事力も我々を滅ぼすことはできない。そのようにエレミヤは宣べ伝え たのです。しかしこの預言(宣教)の言葉は人々の激しい反感と怒りを買いました。今朝の8節 で「主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです」とエレミヤは語っ ていますが、同時に9節にあるように「もしわたしが、『主のことは、重ねて言わない、この うえその名によって語る事はしない』と言えば、主の言葉が私の心にあって、燃える火のわが 骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができませ ん」とも言っています。御言葉を語っては人々に迫害され、逆に語らないと御言葉がエレミヤ を苦しめる。その辛さは言語を絶したものでした。  私たち人間は目先のことばかりに心を奪われ、本当に大切なもの、永遠なるものを忘れてし まうことが多いのです。エレミヤの時代も今日も人間のその姿は同じなのです。だからこそ教 会は真実に神の御言葉のみ(主イエス・キリストによる唯一の救いのみ)を人々に宣べ伝え続け ねばなりません。世界は教会になることを欲しています。教会が世界に迎合してはいけません。 人の気を引く言葉でごまかしてはならないのです。人間を真に人間たらしめ世界を真に世界た らしめ、真の自由と平和をもたらする歴史の主なる神の福音、本当の救いの音信のみを教会は 宣べ伝えるのです。エレミヤの時代にも比すべき激動の歴史にある私たちこそ教会のみがなし うるわざに忠実であらねばなりません。イギリスのジョン・ミルトン(あの有名な「失楽園」を 著したミルトン)は「失楽園」の中で「礼拝においてこそ人間が回復される。福音においてのみ 世界が回復されてゆく」と語っています。エレミヤが見つめ続け宣べ伝えた福音の力はまさに それでした。国際度量衡総会で決められた質量の単位には7つあるそうです。そのうち「キロ グラム原器」だけが人工物でした。人工物である以上は変化をまぬがれない。だから分子の数 を測って物理的な定数にすることで新しい基準を作ることにしたそうです。人間と世界という 神の創造物を保つ唯一の基準は神の言葉です。永遠に変わらぬキリストの恵みのみが私たちの 救いなのです。キリストを信じ真の神に立ち帰るときのみ私たちは本当の自分を回復すること ができます。人生の全体を神の祝福として受け継ぐことができるのです。そして世界すらもは じめて世界たりうるのです。  エリミヤは「神に欺かれた人」ですが、しかし実はエレミヤは神に欺かれることによって、 この世界に本当の「希望」を宣べ伝えることができたのです。言い換えるなら「神に欺かれる」 とは「神がわたしに勝利したもうた」ことなのです。それは「神の勝利が、キリストの復活の 生命が、私の全存在を覆って下さった」という救いの出来事なのです。それこそ十字架の主イ エス・キリストにおいてこの世界に成就した福音(まことの救い)そのものです。罪と死に対 して敗北するほかない私たちの世界、そして無力な私たちの存在をあるがままにキリストが復 活の勝利をもって覆い囲んで下さった。私たちはその勝利の御手にいまここにおいて生かしめ られているのです。エレミヤの生涯を顧みるときひとつの大切なことに気づきます。それは今 朝の御言葉のように、エレミヤは自分を「神に欺かれた者」と呼んでいるけれども、それは同 時に自分が神の前に「神の器」になりきって生かされていることを感謝し喜ぶ「キリストにあ る者の人生」だということです。召命とは「命を召す」と書きますけれども、エレミヤは本当 に自分の命(存在)そのものをもって自分が神の器とされたことを信じ、そこに神の御手の最 終的な勝利を観て宣べ伝えた人なのです。言い換えるなら、神は私たちを救うためにこの全世 界・全宇宙を挙げて私たちに関わっておられるということ。パウロの言う「わたしたちのため に御子を賜わったかたが、どうして御子のみならず、万物をも賜わらないことがあろうか」と いう確信、そこに全世界の本当の祝福があり、救いがあり、希望があることをエレミヤは「神 に欺かれる」ことによって(キリストの勝利を知ることによって)知らしめられた人なのです。  神は私たちの救いのためにバビロンをさえお用いになる。エジプトをさえお用いになる。混 乱と破壊をさえ経験させられる。その全てを通して私たち一人びとりのまなざしを開き、永遠 に確かな救い(生命)を得させようとしておられる。そのことをエレミヤは宣べ伝えているので す。そして「神に欺かれる」とは同時に「神以外のものに欺かれない」ということです。言い 換えるなら「神以外のものは私たちの罪と死の現実に勝利しえない」ことを知る者とされてい ることです。神は御子イエス・キリストによって、その十字架によってのみ、私たちのいっさ いの罪を贖い世界創造の恵みにも比すべき救いの喜びを私たちに与えて下さいました。私たち はキリストに贖われた者たちなのです。まさにエレミヤが見据え生かされた恵みもまたそのキ リストの贖いの確かさに通じるものです。そこでこそ使徒パウロはコリントの人々に対して 「騙されっぱなしの人生でも良いではないか」と語っています。たとえ一生のあいだ損をし続 けても良いではないか。むしろあらゆるところで自分を神の僕として現すことこそ私たちに与 えられた変わらぬ祝福なのです。まことの神に立ち返って歩んでこそはじめて私たちは、自分 自身の人生と他者の人生とを自由に朗らかに愛のまなざしを持って見つめ受け入れる者とさ れるのです。この世界に対しても神の導きたもう歴史に責任を持つ者とされるのです。「主は 強い勇士のように、わたしと共におられる。それゆえ、わたしに迫りくる者はつまずき、わた しに打ち勝つことはできない」という11節のエレミヤの告白はそこから出てくるものなので す。私たちを贖い救いたもうキリスト・イエスの恵みを讃え、ひとすじに主の御跡に従う僕に なりましょう。私たちもエレミヤのごとくに主に従う生涯を歩みたいと思います。